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山形六日町教会

2024年4月7日

聖書:イザヤ書43章9~11節 使徒言行録3章11~16節
「復活の証人たち」波多野保夫牧師

先週はイースター礼拝に続き、愛餐会を持つことが出来ました。まだ、以前の様には行きませんが、主にある兄弟姉妹と食事を共にする愛餐会は初代教会以来、教会が大切にしてきた交わりの時です。このような豊かな時が回復へと向かっていることを主に感謝するとともに、様々な事情で参加が叶わない方も参加できます様にと願っています。
さて、めっきり春らしくなり、間もなく桜の便りも山形に届くとでしょう。教会暦の新年度はクリスマスを前にした待降節第一週に始まるとされていますが、新年度が始まる4月には多くの変化があります。入学や進級・進学、あるいは就職や転勤など、門出の時であり、また何かと気ぜわしい季節でもあります。六日町教会の実質的なスタートは28日の教会総会を経てからとなりますので、週報の表紙にあります年間主題と聖句は変わっていません。エレミヤ書33章6節 「見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。」ここ示されています神様のみ心と2024年の現実とに差を感じる昨今ですが、そのギャップを埋める努力が私たちに求められているのではないでしょうか?なぜなら、私たちはどんな時にあっても、神様の愛は変わることが無いと知っている数少ない者たちだからです。主の十字架と復活の出来事が何よりも神様の大いなる愛を証ししていることを感謝する者だからです。教会総会までの3週間、神様は私たちに何を期待されているのかを祈りの内に覚えて総会に臨みたいと思います。
さて先週のイースター礼拝を振り返ることから始めましょう。最初にルカによる福音書24章1節以下をお読みしました。婦人たちは、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪びとの手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。ルカ福音書はこの婦人たちが、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。と告げています。
本日の説教題を「復活の証人たち」としましたが、彼女たちは最初の証人です。実は4つの福音書が挙げる名前には多少の違いがあります。復活の出来事のすばらしさに比べれば誰の名前を記録するのかは些細(ささい)な事なのでしょう。しかし、4つの福音書は共通してマグダラのマリアを挙げます。聖書は彼女について、主イエスに七つの悪霊を追い出していただいたこと。(ルカ8:2)十字架のイエスの死を見守り(マタイ27:56)埋葬を見届けたこと。(マタイ28:61)そして復活の証人となったことを伝えています。たとえば、ヨハネ福音書は彼女が墓で復活の主にお会いして言葉を交わした様子を次の様に伝えています。イエスが「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。(20:16,18)復活の証人としての大切な役目が与えられています。聖書が彼女の名前を挙げて語るのはこれだけですが、言い伝えによると、ルカ福音書に登場する「罪深い女」は彼女だと言うのです。主イエスの食事の席にやって来て、涙でイエスの足をぬらし髪の毛で拭(ぬぐ)い、さらに足に接吻して高価な香油を塗った女性がマグダラのマリアだと言うのです。この言い伝えの真偽は別にして、主イエスへの信仰が与えられ、主の愛の中を生きる時には、その過去はまったく問題とされません。
4世紀から5世紀にかけて活躍した偉大な司教であり、神学者だったアウグスティヌスは母モニカの祈りが聞かれてクリスチャンになったのですが、それ以前には、同棲生活で私生児を設けたり、マニ教と良いう邪教に嵌(はま)ったりして、放蕩の限りを尽くしました。神様は過去を問うのではなく、ただキリストに従う信仰だけを見てくださるのです。私はホッとする反面、それは大変だと言う思いも心をかすめます。
復活の証人に関してですが、古代のユダヤは家父長制度を取っており、昭和22年(1947年)以前の日本と同じように女性が家督相続をすることは出来ませんでした。女性の社会的な地位は低く、おもに家庭内での家事や育児が求められ、公共の場で活動することはほとんどありませんでした。裁判においては男性の証言が優先されました。聖書は、そんな時代背景に有ってなお、マグダラのマリアを始めとする女性たちが主の復活の最初の証人として用いられたことを伝えるのです。現在、多くの教会で女性たちの大きな働きが用いられている現実がありますが、主イエスの大いなる愛を知り、復活の証人として立てられることに、女性も男性もありません。共に主に仕えて参りたいと思います。
さて先週は、主が復活された日の夕方、エマオに向かう二人の弟子たちが主イエスにお会いした物語からみ言葉を聞きました。30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。(ルカ福音書24:30-32)
 それから彼らはどうしたのでしょうか? 復活の主だと気づいた二人は仲間たちがいるエルサレムへと急いで引き返します。過越しの祭りの直後ですから月明りもあったことでしょうが、夜道は強盗に襲われる危険もあります。しかし復活の主にお会いした出来事を、一刻も早く知らせたい。大いなる喜びを分かち合いたい。その一心で、天童から山形までの距離を一気に走ったのです。 24:33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。 エルサレムの家の教会は、どれほど大きな喜びに包まれたことでしょうか。興奮して早口で主イエスにお会いした様子を一気に語った二人です。ペトロも復活の主にお会いしたと言うのです。喜びが喜びを生みました。復活の証人たちは喜びの出来事を皆に伝え、集う者たちは大きな喜びに包まれました。
最愛の主が「父よ、私の霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。(ルカ23:46)のは三日前のことでした。それからは何も考えられない、時が止まったと言う感覚が支配してきたことでしょう。しかし、主は復活なさったのです。死に勝利されたのです。私たちの中にも最愛の人を失い、三日前の弟子たちと同じ感覚を味わった方もいらっしゃることでしょう。喪失感は少し時間が経ってから襲ってくるのだとも言われますから、もう少し時間がたってからなのかも知れません。心の中に満たされない隙間が残るのです。しかし、イースターの日の弟子たちと同じ喜びを感じる希望が私たちには与えられています。最愛の人との再会の喜びに包まれる喜びです。それは、恐らくは主の御許においてでしょう。最愛の人が主への信仰を持って召されたのであればこれほど確かなものはありません。 残念ながら信仰に至らないで召されたのであれば、その方の為に祈るのです。
これも教会に伝わる話ですが、十字架につけられ、死にて葬られた主は、陰府に降って復活なさるまでの間、信仰に至らずに亡くなった方に伝道なさったと言うのです。陰府は正に信仰を伝える場であり信仰を受け取る場だと言うのです。 キリストに従う時、さらに最愛の人の為に祈る時、私たちにも再会の希望が与えられます。そしてその希望の根拠は主イエス・キリストが復活なさったこと、死に勝利なさったことの確かさにあります。神の独り子が肉体をとって私たちのところに来てくださった。私たちの「罪」を負って十字架に架って下さった。そして復活なさった。この神様のご計画を根拠とした喜びであり、この喜びの知らせを聖書は「福音」と呼びます。
しかし「福音」は聖書の中にだけあるのではありません。2000年前に一度だけ起きた歴史的事実だけではありません。そうではなくて今も起きている事実です。なぜなら「福音」は生きて働かれる聖霊によって、私たちに注がれ続けているからです。本日の説教題は「復活の証人たち」だと既に述べましたが、結論を言えば、私たちがその証人なのだ、光栄ある証人なのだと言うことです。
旧約聖書イザヤ書に聞きましょう。読んでいただいた43章は、50年に及ぶ苦しいバビロン捕囚から解放されるころ、すなわち紀元前538年ころに預言者イザヤが語り伝えた神様のみ心です。 9節で神様はモーセの時代から変わることの無い、私が与える救いの恵みを語り伝える者は誰なのかと問われます。10節11節です。 わたしの証人はあなたたち わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ 理解するであろう わたしこそ主、わたしの前に神は造られず わたしの後にも存在しないことを。 わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。あなたたちに与える大いなる恵みの証人は、あなたたち自身だ。私が選んだあなたたちは、私を知り、私を信じ、私を理解する。何を知り信じ理解するのか。それは わたしこそ主、わたしの前に神は造られず わたしの後にも存在しないことを。 わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。このことなのだ。神様はすべてを創造された全知全能の方だから、主なる神様の他に救いはない。この真理をあなたたちは知っているではないか! だからあなたたちこそが、証人となるのだ。
考えて見てください。全能の神を知る者とは、ご自分の独り子に肉体を与えてこの世に遣わし、人間の「罪」を独り子の十字架の死によって清算し、その独り後を復活させることによって、独り子に従う者に永遠の命を与える約束の証拠となさった方です。私たちはこの方を知る者、主の「福音」を知る者です。それは正に、あなたであり私なんです。日本の全人口の1%に満たない者であり、近年その数が減り続けている私たちです。10節11節をもう一度お読みします。 わたしの証人はあなたたち わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ 理解するであろう わたしこそ主、わたしの前に神は造られず わたしの後にも存在しないことを。 わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。
さて、私たちに先だって、2000年前にこの事実を強く感じた人たちはどうしたのでしょうか?最初に読んでいただいた使徒言行録3章11節以下によって知ることが出来ます。主の十字架と復活の出来事から50日目に聖霊が降り、教会が誕生してからさほど日が経っていない頃なのでしょう。この頃ペトロは神殿に通い、そこで祈りを献げ、折りごとに主の福音を語っていたことでしょう。暫らく前には主イエスに向かって「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」「十字架につけろ、十字架につけろ」と怒号が飛び交ったエルサレムの町でした。(ルカ23:18,21)ペトロが恐怖にさいなまれ鶏が鳴く前に3度「イエスを知らない」と言ったのは大祭司の家の中庭でした。しかし、この日ペトロはエルサレム神殿に出かけて祈りを献げ、説教をしたのです。この違いは何だったのでしょうか?十字架の日から少し時間が経って、人々は冷静さを取り戻し、ピラトは平穏さを取り戻したエルサレムの町に安堵し、宗教指導者たちは自分たちの権威と権益が守れたことに安心していたことは確かですが、何よりもクリスチャンたちが共同生活をし、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。(使徒言行録2:43-47)初代教会に連なる者たちのこの様な生活態度が、主の福音の大切な証しとなっていたのは確かです。使徒言行録2章47節。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。現代において、共同生活をする代表的なクリスチャンたちの集まりは修道院ですが、プロテスタント教会では信徒も教職者も市民と共に生活します。以前お話ししました。まだ信仰に至っていない人たちの近くに有って目線を合わせるためなのです。ですから、私たちが喜びに満ちた礼拝を守り、喜びに満ちた日々を送ることは、自分が豊かな人生を送る為だけでなく、主の福音の証人としての務めを果たすためにも不可欠なのです。
使徒言行録3章は、ある日の3時ころにペトロとヨハネが神殿に上ったことから始まります。そこでペトロは生まれながら足が不自由な男を癒しました。6節。ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」ペトロはイエスの名によって、癒しの奇跡をおこなったのです。そして3章16節。あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。
現代においてこの様な奇跡はめったに起きないでしょう。現代における癒しの奇跡の多くは医学や薬学あるいは高度医療技術によってなされるからです。しかし、これらは全てを創られた神様が、その道の優れた研究者たちに自然の仕組みの一部を明らかにされたことによるのです。決して彼らが遺伝の法則や遺伝子を創ったのではありません。私たちは病の方の為に神様に祈ります。医療従事者は知り得た自然の仕組みを用いて患者を癒すために働きます。
16節。あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。私は、この出来事を洗礼式に見ます。洗礼は罪の奴隷となって死んでいた人間を、三位一体の神の名によって救う癒しの出来事です。主はおっしゃいました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」そうです。洗礼は、主イエス・キリストを救い主と告白する者に、新しい命を与える奇跡なのです。ペトロはイエスの名よって癒しの奇跡を行いました。主の教会に仕える牧師は三位一体の神の名によって新しい命を与える奇跡を行うのです。そして、洗礼式は礼拝の中で行われます。立ち会う皆さんはその証人です。証人はその場に立ち会うだけではありません。新たに救われる人が起こされるように常に祈る義務があります。喜びがあります。なぜなら、私たち山形六日町教会はマグダラのマリアやペトロなどの復活の証人たちから始まり、受け渡されて来た信仰によって立つ教会です。教会の祈りによって洗礼を授けていただき救われているからです。まだ洗礼に至っていない方はこの大いなる恵みへと招かれています。
私たちの感じる、主の大いなる愛の根拠が、主の十字架と復活の出来事に有ることを知る者です。神様は、「わたしの証人、私の愛の証人」はあなたたちだとおっしゃるのです。折々に聖霊の働きを感じ、主の恵みと愛を証言する。それは礼拝によって始まります。祈りによって始まります。喜びを様々に表すことで膨らみます。教会へと人を案内することで膨らみます。なぜなら私たちは神様に選んでいただいた「復活の証人」だからです。この務めを恐れと感謝を持って担っていく一人一人であり、山形六日町教会でありましょう。祈ります。