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山形六日町教会

歴史

「天のみ民も地にある民も -山形六日町教会120年の歩み」より

 創立から日本基督教団加盟までの要約

1887年(明治20年) 10月に宣教師J・P・モールが山形英学校の教師として助手の伝道師倉長恕と共に山形に来た。山形英学校を創設したいと県会議員や有志とはかっていた当時の県知事柴原和の要請に応えるためであった。モールは合衆国ドイツ改革派教会(ジヤーマン・リフオームド・チャーチ)が仙台に学校を創設する為に送り出した一人であった。モールは山形に移って間もなく、自宅で礼拝と聖善研究会を始めた。
*当時仙台の基督教講義所(現仙台東一番丁教会)牧師押川方義は11月に開校する山形英学校の校長として山形に来ると、倉長を促して伝道の拠点となる家を七日町に借りさせた。礼拝所と牧師の住まいとするためであった。
*11月22日に山形近郷のプロテスタント信者の親睦会を開催、既に伝道を開始していた天童、山形両メソジスト教会(現天童教会、現山形本町教会)や上山講義所(現上山教会)の信者、未信者合わせて40~50人が集まった。
*12月17日、市内の丸万座で基督教演読会を行った。倉長恕「基督教」、山形メソジスト教会伝道師鈴木義一「天地大原因」、元仙台教会仮牧師菅田勇太郎「知らざるを恐る」、宣教師モール「宗教と教育の関係」などの演説に500人ほど集まった。
*12月18日に七日町の借家で一致教会山形講義所の礼拝をはじめた。モール夫妻をはじめ英学校教師ら4人が中心で10名あまりであった。初代牧師斉藤壬生雄一家はすでに12日に東京を発ったが、途中幼児の病気の為、山形到着が遅れ、さらに雪の山越えと斉藤自身の病の為、漸く22日に山形に到着したのであった。
*12月25日の救主降誕の礼拝はモール宅で行われた。出席者10名あまり。

1896年(明治29年) 牧師宮代は安息日学校、聖日礼拝を守り、夜の伝道集会を第1と第3は山形で、第2と第4は上山講義所で行った。また、日曜日午後には安息日学校の生徒と川原で運動会や盃山、千歳山登山、またお城の濠で舟遊び等を数人の信者の協力を得て実施した。

1898年(明治3l年) 自給独立をしたが、有力な信徒の転出が続いた (師団長の松本誠助、警察官の藤崎供秀、県庁の竹尾忠男、裁判官の加藤幹雄の転出及び桜庭芳春が置腸郡長になり米沢に転出)。毎月の会計に不足金が出て「大憤励して自給の実を全うせん」としたが月々の不足金は補いようも無く、謝金を減額したが、これを続けるわけにもいかず、やむなく2月末をもって宮代に牧師の辞任を願い出る有様となった。
*無牧の間は宣教師ミラー、宮城中会の伝道師伊藤嘉吉、山形メソジスト教会牧師杉原義茂らの援助によって礼拝は続けられた。

1900年(明治33年) 多くの転入信者があり、礼拝説教、祈祷会の奨励を役員となった会員(城生安太郎、城生安治、大谷信夫)がしばしば担当した。日曜学校も大人の部が出来るようになった。

1903年(明治36年) 礼拝、日曜学校、祈祷会は引き続きミラー宅、続いて城生宅、氏家宅でも行われた。
*会堂建築の計画が進められ、協力ミッションより2千円の寄付を受け、10月26日に新しい敷地と建物を取得した。それは通称新築西通りの教会(旅篭町字寒河江町284番地2畝24歩[294坪])の土地と建物であった。早速建物の改装に入った。
*12月27日 、クリスマス会と併せて教会堂落成を祝った。

1911年(明治44年) -山形市街の大火と新会堂建設-
*5月8日薬師祭り、植木市の賑わいのタ刻、七日町より火の手があがり山形市中心街は大火になった。日本基督教会、同牧師館、山形メソジスト教会も焼失。ほか信徒の罹災もかなりの数に上った。宣教師館は焼けなかったので、ザウグ宅内の一室を仮牧師宅とし、12日礼拝が守られた、会する者4人。日曜学校、祈祷会は漸次行われるようになった。
*新庄、米沢、上山、福島、磐代の諸教会より援助をうけた。
*当教会はミッションの好意により100円の援助を受けた。100円を三分して、「大部分は一般罹災窮民に聖句を染め抜きたる手拭一筋、聖書一冊、金30銭を約130人に配布せんと目下役所と協議中、他の一部は信者、求道者の罹災者へ、残余の一部は病者特種の罹災者に施与」と成田良太は東北教会特報第122号(明治44年7月15日)に報告している。
*市内の基督教会(メソジスト教会、日本基督教会、福昔伝道館、聖公会、正教会)の連合火災救済会を結成。内外に救援をよびかけた。
*ミッションより天幕の寄贈を受け、11月30日に旅篭町に天幕伝道を始めた。路傍伝道にはクック家の娘達(マチルダ、ヘンリエッタ)が「主われを愛す」を歌って手伝った。「主われを愛す」(Jesus Loves Me)はクックの日本伝道のテーマソングであった。供養とお布施・祈祷を怠ると罰が当たると信じる人々に救いを伝えたいからであった。

1913年(大正2年) 7月19日に牧師館が落成し、電灯が据付られた。以後、諸集会はこの牧師館で行われるようになった。いよいよ礼拝堂の建案が計られ、会堂建設案が決定し、募金が始められた。

1914年(大正3年) 6月14日、 新会堂が現在地 [元県庁裏]に新築された。献堂式には174人集った。新会堂で3日間の落成記念基督教演読会が行われた。各会170~80名の聴衆が集まった。

1916年(大正5年) -千歳幼稚園設置-
4月、千歳幼稚園が柳町(現七日町)に民家を借りて開設された。宣教師C.D.クリーテは幼児教育の必要性を強く感じ、宣教師派遣の母体である協カミッションに幼稚園を作るための貸金を要請し、米国の信者の献金によって千歳幼稚園は設置された。初代園長はクリーテ夫人であった。

1926年(大正15年) 牧師がある一定期間教会に奉仕をすると米国に留学することになっており、牧師が腰を据えて伝道するにはミッションからの自給独立が不可欠となった。教会ではその件に関し多くの時間を割いて協議がなされた。5月25日に臨時中会において当教会の自給独立が可決され、7月12日に教会建設式が挙行され、日本基督教会山形講義所から日本基督教会山形教会となった。

1941年(昭和16年) -日本基督教団成立-
*山形日本基督教会の土地建物の所有者名義を協力ミッションより、日本基督教会維持財団へ変更登記した。
*従来ミッションに所属していた千歳幼稚園は廃園や売却という話のあった中、山形教会に譲渡されることになり、教会付属幼稚園として園長に牧師渡邉良亮が就任した。
*6月24日、宗教団体法実施による政府の強い要請を受け、プロテスタント教会30教派は日本基督教団を結成した。当教会も臨時教会総会を開き、「日本基督教団山形六日町教会」と名称を変更することを決議した。この年12月8日日本海軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争がはじまった。