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山形六日町教会

2024年3月31日

聖書:詩編22編23~31節 ルカによる福音書24章13~32節
「心が燃える」波多野保夫牧師

イースターおめでとうございます! ルカによる福音書24章1節以下をお読みしましょう。婦人たちは、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 人の子は必ず、罪びとの手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そうです。この日の朝早く主は復活なさいました。
さて、私たちは2月14日の「灰の水曜日」から40日間のレント、受難節の日々を、主の十字架の出来事を思い描きながら過ごしてきました。ダニエルの断食は主の味わわれた苦しみに、いささかなりとも心を向ける。その試みとしてお勧めしました。そして今朝はCSの子供たちが礼拝に続いて文翔館の庭でエッグハンティングを行い、喜びの声が溢れました。そうです。主はこの朝早く復活なさったのです。
最初に読んでいただいた旧約聖書詩編22編ですが「十字架の詩編」と呼ばれます。2節には わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻きも言葉も聞いてくださらないのか。この様にあります。十字架上の主イエスです。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。マタイ福音書(27:46)はこの様に伝えています。詩編22編8節9節。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い 唇を突き出し、頭を振る。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら 助けてくださるだろう。」 マタイ福音書です。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」(27:39-43)
ダビデが1000年近く前に読んだ詩の通りに、人々は主イエスを侮辱しました。詩編16節。口は渇いて素焼きのかけらとなり 舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。 ヨハネ福音書 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。(19:28) 詩編18節19節。彼らはさらしものにして眺め わたしの着物を分け 衣を取ろうとしてくじを引く。 マタイ福音書 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。
さて、この詩編は23節以降、復活された主を賛美する言葉に突然代わります。最初に読んでいただきました。22編23節。 わたしは兄弟たちに御名を語り伝え 集会の中であなたを賛美します。 さらに、主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。主は貧しい人の苦しみを 決して侮らず、さげすまれません。わたしは大いなる集会で あなたに賛美をささげ 神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。大いなる集会とは、この礼拝です。満願の献げものは、「ありがとう、ごめんなさい、お願いします」と言う祈りの言葉で始まります。
27節。貧しい人は食べて満ち足り 主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。これは私たちがいただく大いなる恵みです。そして31節。子孫は神に仕え 主のことを来るべき代に語り伝え 成し遂げてくださった恵みの御業を 民の末に告げ知らせるでしょう。私たちの諸先輩方が礼拝によって養われた信仰は私たちに伝えられました。私たちは与えられた信仰を次の世代に伝えて行く。そのための祈りを篤くしたいと思います。なぜならそれら全ての根拠が主の十字架と復活の出来事に有るからです。
さて、詩編22編1節にはダビデの詩とあります。1000年近く前に読まれた詩がなぜここまで正確に主の十字架の出来事を語っているのかとの疑問が湧くのではないでしょうか? その答えが使徒言行録2章30節31節にあります。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、 『彼は陰府に捨てておかれず、 その体は朽ち果てることがない』 と語りました。 預言者は神様から遣わされて、神様のお考えでありご計画を人々に告げ知らせました。ですから、主イエス・キリストがダビデ王の血筋として誕生したクリスマスの出来事に始まり、十字架と復活に至る全てを告げ知らせたと言うのです。詩編22編が告げる主イエスの苦しみと復活の出来事は全て神様のご計画によるのです。
ではなぜ、神の独り子は十字架において苦しまなければならなかったのでしょうか? そして、2024年の日本で礼拝を捧げる私たちに、なぜそれが必要なのでしょうか? ローマの信徒への手紙(4:25)に次の言葉があります。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。「罪を犯す私たちの身代わりとなって死刑が執行され、神様から私たちが正しい者と見なしていただくために復活なさったのだ。」と言います。
それでは、私たちは罪びとなのでしょうか? 私は確かに道路の左側を歩いてしまうことはありますが、窃盗罪や殺人罪で起訴されたことはありません。しかし、聖書は「神様と自分と隣人を愛しなさい。」と言うご命令に反する思いであり、行いを「罪」と呼びます。犯罪は、人間がお互いの関係がうまくいくようにと決めた法律に反する行為ですから、その多くは「罪」と重なりますが同じではありません。
私は「敵を愛しなさい、敵の為に祈りなさい。」とのご命令を守ることはなかなかできませんが、人を傷つけない限り犯罪者にはならないでしょう。しかし、私を襲う敵も神様が創られた者ですから「隣人」なのです。愛を持って接しないのであれば「罪びと」です。それだけではありません。自分中心な思いが心に浮かぶのであれば、それは「罪」なのです。少しくらいならいいだろう、みんなやってるし。悪魔の誘いは巧妙です。パウロは「わたしは罪びとの頭(かしら)」(Ⅰテモテ1:15口語訳)、すなわち「一番の罪びとだ」と言います。すべての人間は一人の人、主イエス・キリストを除いて「罪」を犯すのです。「罪びと」なのです。
さらにパウロは言います。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。(ローマ6:23)罪が支払う報酬は死、と言う時に、単なる肉体の死に留まりません。魂の死、すなわち私たちを創造された神様との断絶、神様に見捨てられる事を意味します。そしてそんな私たちの犯す「罪」の結果、すなわち「神様と自分と隣人を愛しきれないこと」の結果として与えられる神様と私たちの断絶。その断絶を、ご自分の死、十字架を負っての死によって打ち破ってくださった。これこそが十字架の出来事の本質です。そして、その主が復活なさったイースターの出来事の本質は、パウロが 神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。この様に語った通り、主イエス・キリストに従う者には「永遠の命」が与えられると言う真理なのです。「永遠の命」とは、変わることの無い神様の愛の許に置いてくださることです。ですからこれは肉体の死によって始まるのではないのです。その始まりは、心の扉を開いてキリストに従う者となった時。具体的には洗礼を授けていただいた時です。まだ、洗礼に至っていらっしゃらない方は、主の大いなる愛の中を歩む豊かな人生へと招かれていることを覚えてください。山形六日町教会はみんなが一緒に主の愛の中を生きることを大きな喜びとしています。聖書は語り伝えます。 「死は勝利にのみ込まれた。 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(Ⅰコリント15:54,55)これが、復活の主に従う者の喜びの叫びです。
さて、ここで2024年に生きる私たちのことを考えてみましょう。私たちは今と言う時間を共有しながら、それぞれの人生という旅路を歩んでいます。それは時には大きな喜びと祝福で満たされた道であり、時には苦しみや喪失感で満ちた道でもあります。私たちは同じ道を共に歩むことも有れば一人の時も有ります。つい最近まで、コロナ禍と言う試練の道を共に歩んできました。人生の旅路では、物事が有る方向に進むと思っていたけれども、実際にはそれとかなり異なる時もあれば、希望が打ち砕かれたり、期待が裏切られる時もあるでしょう。深い喪失感に苦しむこともあります。仕事や学業がうまくいかなかったり、健康に不安を抱えたり、あるいは愛する人を失ったことかもしれません。人間関係がうまくいかなくなり閉じこもりたくなることもあるでしょうし、卒業や定年退職など、環境の変化もそうですし、近年多発する自然災害での喪失感もあります。希望をもって生き続けることに苦労している人もいます。
皆さんは自分の思いや希望が奪い取られたと言う経験がおありではないでしょうか? 私は2012年、東京神学大学卒業を前にした年に経験しました。4月の学長面接で、卒業後1年間アメリカの長老教会で実習生としての訓練を受けたいと話しました。「長い間祈って来たのですから良いでしょう。但し、東京神学大学は教会に伝道者を送る義務があります。9月末までに受け入れ先の教会を決めてください。」この様に言い渡されたのですが、9月になっても受け入れ先が全く見つからないのです。「神様のみ心、ここにあらず」とさえ思えたのです。結果は私の願いは最終的に聞き届けられ、2014年4月に山形六日町教会に遣わされて、今日この様に皆さんと一緒に礼拝を献げています。神様のご計画を賛美しています。
最初に読んでいただいたルカによる福音書24章13節以下は、願った通りにことが進まない時に、新たな希望を与えてくれる物語です。二人の弟子がエルサレムからエマオに向かって埃っぽい道を歩いていました。六十スタディオンとありますからこれは山形から天童程の距離にあたります。重い足取りで歩む彼らの心もまた重く沈んでいました。その理由は二つありました。一つは、友人として、また愛する先生として、長い間一緒に旅をしてきたイエスを突然失ったことです。もう一つは、ローマ帝国から救い出してくれると期待していたナザレのイエスが拷問に会い、あっけなく殺されてしまったことです。彼らはイエスが示してくれた力ある業と言葉から、この方こそローマ帝国から祖国に自由と正義を取り戻してくれる救い主に違いないと確信しました。一緒に戦って勝利する希望を膨らませていたのです。しかし、そのすべては脆くも失われてしまいました。そんな弟子たちに復活の主イエスが追いつき一緒に歩き始めたのですが、彼らはまったく気づきません。彼らは今朝の出来事を説明し始めたのです。「仲間の婦人たちが墓から帰って来て、イエスが生きていると言ったんです。でも私たちは3日前にこの目でイエスが十字架で死んだのを見てるんです。」「他の仲間も墓に行ったんですけど、確かに墓は空っぽだったって言うんです。」
25節26節。 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 彼らは自分たちが思い描いていた救い主、すなわち自分たちを苦しめているローマ帝国を打ち破ってく解放してくれるリーダー失った時に、神様の姿を見失い、神様の本当の愛が見えなくなっていたのです。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍い者」と主が私に向かっておっしゃっている様に感じられる言葉です。主イエスは、私たちが全く予期していなかった方法でご自分を示されるのです。そして私たちはそれに気づかないことが多いのです。確かに私が祈った通りにすぐにかなえてくださる神様ならば、その神様の愛はすぐに分かります。しかし、それではギリシャ神話にある「触ったものは金になる」と言う話と同じではないでしょうか? 永遠の命、死の向こう側まで続く命をくださる神様の愛は私たちの思い、私たちの願いをはるかに超えて大きいのです。
これは何回かお話ししましたが、伝道者として世界的に活躍したビリー・グラハムと奥さんのルース・グラハムは中の良い夫婦として知られていました。二人は信頼し合い力を合わせて多くの人をキリストへと導いたのです。ルース・グラハムさんの話です。「学生時代、神様は私の祈りを聞いてくださらないことが何度かありました。もし祈りをそのまま聞いてくださっていたらビリーとは結婚できなかったでしょう。」 彼女は何回か失恋の涙に暮れた結果最愛のパートナー、ビリーと出会ったと言うのです。神様のご計画、神様の愛は大きすぎてそれが見えなくなってしまうことがあるのです。イエス様がいつも私たちと一緒に、人生の旅路を歩んでくださっているにもかかわらず、それに気づかない私たちです。
エマオへの道での物語は、どの様にしてその現実に気づくことが出来るのかを語ってくれます。 
一つ目。27節です。モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。 聖書の解き明かし、すなわち礼拝の説教です。さらに普段から聖書に親しむことです。主はおっしゃいました。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。(ヨハネ福音書5:39)聖書が難しくてわからないと言う方がいらっしゃいます。聖書を読むコツをお教えしましょう。それは、主イエス・キリストがいつも私たちを愛していてくださる。そのことを前提として読むのです。
二つ目。29節。二人は言いました。「一緒にお泊まりください。」そうです。「主よ、私たちの心の中に留まってください。」この様に祈るのです。そして、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。とあります。主は私たちの切なる祈りを聞いてくださるのです。
三つ目。30節。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった。 
実はここに三つの解釈があります。一つは、最後の晩餐の席で聖餐を定めてくださった時の姿に重なることで主イエスだと分かったといいます。しかし、その席にいたのは使徒と呼ばれた12弟子だけですから彼らはいませんでした。使徒たちからその様子を聞いていたのだと言うのです。もう一つは、食卓でパンを裂くのは主人の仕事でしたから、エルサレムへの旅で何度も主がパンを裂いてくださった。5000人の給食の時もそうだった。最後は、彼らは主がパンを裂く手に釘の後を見たのだ。それぞれなるほどと思わされます。しかし大切なのは、私たちが共にいてくださる主に気づくことです。いつも愛してくださっている主に気づくことです。礼拝を共にし、聖書に親しみ、祈りの時を持つ。主が共にいてくださる喜び、主の大いなる愛を感じる喜び、
永遠の命を生きる喜びはここに原点があります。32節。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 私たちの人生には様々なことが起きます。喜びの時も有れば希望を持てない時も有るでしょう。しかしその全てを経験された方は、私たちに代わって十字架を負ってくださる方です。そして、共にいて下さり共に喜び共に悲しみ共に重荷を担ってくださる方です。その方こそ復活された主イエス・キリストなのです。あらためて申し上げます。イースターおめでとうございます! 祈りましょう。