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山形六日町教会

2024年3月24日

聖書:イザヤ書58章3節~10節 マタイによる福音書21章6~11節
「ロバの子に乗って」波多野保夫牧師

今日は「棕櫚(しゅろ)の聖日」と呼ばれ、十字架の時を前にした主イエスがエルサレムに到着された記念日です。「主がエルサレムに入城された」と言われることがありますが、これは古代の都市が外敵からの攻撃から守るために城壁で囲まれていたからです。先ほど読んでいただいた聖書に 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。  とありました。当時、戦に勝って凱旋する王様を民衆はこの様にして出迎えたました。人々は主イエスを新しい王であり、ローマ帝国の圧政から解放してくる救い主として大歓迎したのです。 次の日曜日、今年は3月31日になりますが、私たちはイースターを祝います。「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえられた」喜びの日です。
古くからこの一週間は受難週と呼ばれ、全世界の教会が、そしてそこに集う者たちが、主イエス・キリストの十字架の出来事に心を向け、深い祈りの時を過ごして来ました。山形六日町教会では毎年、受難週の木曜日に、最後の晩餐の席で主イエスが弟子たちの足を洗ってくださった出来事、洗足の出来事を覚えて礼拝を守っています。今年は3月28日になりますが、多くの方に出席していただき、深い恵みを感謝する時を共にしたいと思います。
さて、マタイによる福音書は日曜日の出来事、主イエスのエルサレム到着を21章1節から語り始め、金曜日の夕方に主の遺体を墓に納めた出来事を28章66節で語っています。33年と言われています地上における主の生涯の内のたった6日間の出来事に全体で28章の内の8章を割いて語るのです。
マタイが福音書をイエス・キリストの系図によって語り始めたのは、主イエスの誕生が人類の歴史における神様の救いの御計画の中に有ることをハッキリと語るためです。続くクリスマスの物語は聖霊の豊かな働きを明らかにします。主の福音宣教の旅は、神様の真理と愛を言葉と業で明らかにする旅でした。そしてその末にある究極の愛の業、それが十字架の出来事なのです。ですから、私たちは今日からイースターに至る受難週の日々を通して、神様のご計画、独り子をお与えになったほどに、私たちを愛してくださっているご計画をしっかりと受け止める必要があります。
主の歩まれた十字架への道をマタイの証言によってたどって行きましょう。21章12節以下の小見出しに「神殿から商人を追い出す」とあります。「宮清め」と呼ばれ、翌月曜日の出来事と言われます。エルサレム神殿の外庭には、遠くからやって来る人の為に、神殿で献げる動物を売ったり、献金の為に用いられる純度の高く傷の無い銀貨に両替する商人たちが大勢いました。神様への献げ物は、傷がないことを検査官によって証明されたものでなければいけません。しかもこの検査官は町で買って来た鳩の傷を発見する名人だったのです。ですから神殿で売っている鳩は町での値段の15倍もしたそうです。もちろん両替商も不当に高い手数料を取っていたのです。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』 ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしている。」 慈愛に満ちた主のイメージに合わないのですが、十字架に架る前にやっておかなければならないと考えられたのでしょう。父なる神を礼拝する場所が不正な金儲けの場所とされていることは許されません。数週間前にヤコブの手紙4章17節の言葉を紹介しました。 人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。残念なことですが、私たちの周りには様々な悪が存在します。私たちも主イエスに倣って悪者退治を始めるのでしょうか? 
聖書は他にも主イエスの怒りの姿を伝えていますので見ましょう。安息日に会堂で片手の萎えた人を見つけた時です。周りの人たちは安息日に病人を癒されるかどうか注目していました。イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。(マルコ福音書3:1-6)主の怒りの本質は、律法に表された神様の愛を理解しないで、「安息日には仕事をしてはならない」と言うご命令を、その字面にとらわれている者たちへの怒りであり、憐みです。
墓に葬られたラザロのことを嘆き悲しむマルタとマリア姉妹を見て、 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。そして「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
人の死が愛し合う者たちを引き裂いてしまう。その理不尽さに対しての怒りです。主は、死がもたらすこの理不尽さの解決をイースターの日に示してくださいました。そうです。復活の主に従う者に永遠の命が約束されるのです。ですから死によって引き裂かれたその関係は、復活の主の御許において回復します。言い換えれば、天国における再会です。「でも私の大切な人は洗礼を受けていなかったから・・・。」
聖書の言葉を二つ紹介しましょう。取税人のザアカイが悔い改めた時です。イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ福音書19:9,10)ザアカイが主に従う者となった時、彼一人が救われたのではなく、救いがザアカイの家を訪れたのです。
コリントの信徒への手紙Ⅰ7章14節です。信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。 これらの聖書の言葉に望みを託すことが許されています。
もちろん聖書は、「死ねば人は皆天国に行く」と言う万人救済説を語りません。しかし、私たちは祈りが聞かれることに希望を託すことが出来るのです。なぜなら主イエスは墓に葬られた後に陰府に降られたとあります。教会は、主が陰府において信仰を持たずに亡くなった方に伝道なさったのだと理解して来ました。
パウロは言います。「死は勝利にのみ込まれた。 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(Ⅰコリント15:54,55)そうです。死に勝利して復活された主イエス・キリストに従う時に私たちも死に勝利出来るのです。この現実は私たちが死を迎えた日に始まるのではありません。主の名によって洗礼を授けていただいた時に始まります。そしてこれを聖書は「永遠の命」と呼ぶのです。だとしたら、大切な人が一緒に主に従って、さらに豊かな人生を歩めるようにと、今日から祈りを篤くすることをお勧めします。まだ洗礼を受けていらっしゃらない方はご一緒に「永遠の命」に与っていただきたいと思います。
もう一つパウロが語る神様の真理の言葉を聞きましょう。あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。(Ⅰコリント3:16,17) 私たちは聖霊が心の内に宿ってくださる神殿なのです。主イエスに それを強盗の巣にしている。などと言われてはなりません。心に悪魔の居場所を造らない良い方法があります。そうです。心の中に主をお迎えするのです。
ヨハネの黙示録に主の言葉があります。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。(ヨハネの黙示録3:20)心の扉を開いてイエス様に入っていただき食事を共にする。食前の感謝の祈りはイエス様にお願いするとして、どんな話が出るのでしょうか? 想像してみてください。いずれにしろ私たちがお会いするのは復活されたイエス様です。
エマオへの道でお会いした二人の弟子の証言があります。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」 そうです、私たちの心も燃えるに違いありません。
それでは食事のメニューはどうでしょうか? パンとぶどう酒は必ずやあることでしょう。こんな楽しい豊かな食事で心も体も満たされているのであれば、悪魔が入る余地はありません。そして私たちがこの地上で与る恵みの食卓。それが26章に語られている主の定めてくださった聖餐です。一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。(マタイ福音書26:26-28)
私たちも「宮清め」をなさった主イエスに倣って、悪者退治を始めるのでしょうか? と問うたことから話が広がってしまいましたが、ローマの信徒への手紙の言葉を聞き、マタイ福音書に戻りましょう。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。(12:19)
さて、月曜日の「宮清め」から木曜日の晩の「最後の晩餐」に飛んでしまいましたが、その間、火曜日と水曜日の様子が21章18節から26章16節の間で語られます。祭司長や民の長老など最高法院で議席を占めている者たち、すなわち律法と司法と行政の権限を握る者たちは、自分たちの権威を脅かすイエスを亡き者にするために、なんとしても言葉尻をとらえようとします。何の権威をもって、まるで王であるかのようにエルサレムへの入城パレードを行ったり、「宮清め」を行ったのかと問います。ローマ皇帝に税金を納めるのは律法に適っているのかと問います。長男と結婚した妻が7人の兄弟が順に亡くなったことで、律法の定めに従って7人と順に結婚することになった。復活の日に彼女はだれの妻になるのか?と問います。
そして、それら全てに対して神様のみ心をハッキリと告げられるのです。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』 ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。(21:13) 「これは、だれの肖像と銘か」「皇帝のものです」「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(22:20-22) 死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。(22:31,32)
さらに、弟子たちに向かっておっしゃいます。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」(23:3) 
私はこの主の言葉を読むたびに思わされます。「牧師は主によって立てられている。だから、彼らが礼拝で語るみ言葉は、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」
主は、律法学者とファリサイ派の人々を激しく非難されます。あなたたち偽善者は不幸だ。十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。(23:23)確かにこれらは敵愾心(てきがいしん)を持って向かってくる者たちを打ち破るに十分な力を持った真理の言葉です。しかし、迫って来る十字架の時、あと50時間もない中での言葉は、宗教指導者たちには悔い改めて神様の愛を理解して欲しい。ひ弱な弟子たちには、福音の真理を知って強くなり、自分の去った後に羊たちを養って欲しい。そして聖書の証言によってすべての出来事を知る私たちには、その両方を語り掛けているのではないでしょうか。
この2日間を伝える21章18節から26章16節までの間で、なぜ十字架での死とそれに先立つ大いなる苦しみの時が迫りくる中でこんなことを語られるのだろうか? と思わされることがあります。それは復活された主が父なる神の御許に帰られた後、再び地上に来られて裁きを行われる終末について何度も語られたことです。24章には「神殿の崩壊を予告する」「終末の徴(しるし)」「大きな苦難を予告する」「人の子が来る」との小見出しがあります。終末の出来事を語られたのです。それだけではありません。いくつかのたとえを用いて終末について語られます。25章1節以下には有名な「十人のおとめのたとえ」があります。遅れて夜更けにやって来た花婿、すなわち再臨の主イエス・キリストと共に婚宴の席に入れるのは、予備の油、すなわち信仰を養っていた者だけだと言うのです。十字架を前にして主はおっしゃるのです。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。(マタイ福音書25:13)
主が語られた終末の話を聞いた弟子たち、ましてユダヤの人たちがそれを理解できたでしょうか? 十字架の出来事も復活の出来事も知らない彼らには、まったく理解できなかったでしょう。
しかし、私たちはそれらを知っています。それだけではありません。使徒言行録や新約聖書に収められた多くの手紙によって、主イエスが送ってくださった聖霊によって、教会が発展し前進して行った様子を知っているのです。
私たちは2024年のイースターを一週間後に控えた今を生きています。生かされています。この礼拝堂で礼拝を守り主イエス・キリストの大いなる愛を感じています。主にある兄弟姉妹と共にみ言葉を聞き、祈り、賛美し、献げる豊かな時を持たせていただいています。恵みの時を共に出来ない方の為に祈りを持っています。しかし、礼拝堂の外に目を向ければ、そこには喜びにまして厳しい現実があります。自然の猛威、争いや戦いや妬み嫉み、悲しみ苦しみ、不正や不平等。せちがらくギスギスした社会があります。多くの教会が礼拝参加者の減少と会員の高齢化、それに伴う働き人の減少に苦しんでいます。
本日はマタイによる福音書が伝える受難週の主イエス・キリストを見て来ましたが、その中で主が終末について多く語っていらっしゃるのです。主は、あなた方の罪は私が負う。だからあなた方は私について来なさい。その時あなたの罪はもはや問われることはない。しかし、あなたの抱えるすべての問題が解決されるのは終末の時なのだ。社会や教会が抱えるすべての問題が解決されるのは終末の時なのだ。あなた方は十字架と復活の出来事を知っている。初代教会の発展を知っている。山形六日町教会の歴史、千歳認定こども園の歴史、山形学院高校の歴史を通して働く聖霊を知っている。あなた方の日々の生活であり人生を通して豊かな聖霊の働きを知っているではないか。私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。
この受難週に有って、ぜひマタイによる福音書21章以下を読んでいただきたいと思います。そしてあらためてお勧めします。3月28日10時からの「洗足の木曜日礼拝」をご一緒に献げたいと思います。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ福音書3:16)私たちはこの豊かな愛の中に生かされているのです。最初に読んでいただいたイザヤ書58章9節10節をお読みします。58:9 あなたが呼べば主は答え あなたが叫べば 「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと 呪いの言葉をはくことを あなたの中から取り去るなら10 飢えている人に心を配り 苦しめられている人の願いを満たすなら あなたの光は、闇の中に輝き出で あなたを包む闇は、真昼のようになる。祈りましょう。