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山形六日町教会

2024年3月10日

聖書:イザヤ書52章13節~53章12節 ヨハネの黙示録3章2~6節
「命の書に」波多野保夫牧師

主イエス・キリストは私たちの罪を一身に受けて十字架に架ってくださいました。本来、私たちが負うべき罰をすべて負ってくださったのです。その十字架の出来事を強く覚えて、今40日間のレントの時を歩んでいます。
本日は、旧約聖書イザヤ書を通して、預言者イザヤが告げた神様のみ心を聞くことから始めます。紀元前500年ころ、イスラエルの人たちは50年に及ぶ苦しいバビロン捕囚から解放されてエルサレムへ帰ったのですが、そこで彼らが目にした物は、バビロニア帝国によって破棄されがれきの山となったエルサレム神殿でした。神様の愛への信頼が揺らいでいても不思議ではありません。信仰の危機です。そんな時代に有って、神様に遣わされたイザヤはメシア、すなわち救い主が与えられる希望を語ったのです。本日与えられた52章13節以下の預言は「しもべの歌」と呼ばれます。「しもべ」とは神様に従順を尽くした主イエス・キリストです。この「主のしもべ」がどの様な方なのかを預言者イザヤはイエスの誕生の500年前に告げました。
52章13節です。 見よ、わたしの僕は栄え、高く上げられ、あがめられる。この様に心の目を開くことでハッキリと見えてくる主イエスの栄光の姿が語られる一方で、14節には もはや人の子の面影はない。とあります。新約聖書を手にする私たちは、これが神様の僕、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事を示していると気づきます。
15節。それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見 一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。私たちは、主イエスの十字架の出来事を驚きと感動をもって受け止めているのでしょうか? レントの時をどれほどの感謝を覚えて過ごしているのでしょうか?イザヤは、人に命令するのを常とする王たちも沈黙すると語ります。私たちは主の受難の物語りをリアリティを持って受け止め、それが私たちの「罪を贖うため」であったと知るほどに、沈黙と祈りへと導かれるのです。
読み進めましょう。53章1節~3節でイザヤは紀元前500年ころにバビロン捕囚から解放された人々に向かって、そして2024年の私たちに向かって問うのです。わたしたちの聞いたことを、誰が信じることが出来たのかと問うのです。主は御腕の力を誰に示されたのだろうかと問います。
2024年、被災地に「国破れて山河あり」と言った状況を見た私たちは早期の回復を願い祈ります。しかし、それにとどまりません。様々な矛盾や不正や不平等に囲まれている現実があります。変化がどんどん早くなっている時代です。特に将来を担う子供たちには、変わることの無い主の愛の中をしっかりと歩み続けて欲しいと願っています。
主イエスの十字架と復活の出来事を知ったパウロに次の言葉があります。ローマの信徒への手紙10章13節以下です。13 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。14 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。15 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。17 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。 十字架を負ってくださった方、復活なさった方を宣べ伝えることを神様がいかに強く望まれているのかが語られます。キリストの言葉に聞き、恵みを分かち合い、祈り賛美する教会に隣人を誘うこと、大切です。1部36円の「こころの友」をプレゼントする、ギデオン協会の聖書を手渡す。レントの時にあって特定の方の名前を覚えて祈ることから始めて見てはいかがでしょうか。
これらのことを覚えてイザヤの預言を聞いて行きましょう。53章2節。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。 主イエスはガリラヤ地方の小さな村ナザレで、旧約聖書が伝える教えに従って主なる神の前で育ちました。少年時代の主イエスの姿を伝えるのは、12歳の時に両親とエルサレム神殿の過越し祭に出かけた時の出来事だけです。姿が見えなくなったイエスを神殿に戻って見つけたマリアは言いました。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」この場面だけを切り取れば、イエスって、なんて可愛げのないこまっしゃくれた子なんだろう。こう思うのが自然でしょう。両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。(ルカ福音書2:48-50)とあります。しかし、私たちはそれが真理の言葉だと知っています。主イエスはどんな時でも父なる神に従順な方でした。ヨセフとマリアにもう少し優しく言ってあげれば良いのではと思うのですが、真理の言葉であることに変わりません。 それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。(ルカ福音書2:51,52) かつて天使に「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」 この様に答えたマリアが豊かに用いられたことがわかります。それではヨセフはどうしたのでしょうか。実はこれ以降、ヨセフが聖書に登場することはないので、若死にしたのだろうと言われています。主イエスが30歳になって公生涯、公の生涯と呼ばれる宣教活動を始められるまで、ナザレの大工として家族を支えたのでしょう。「真の神」である主イエスは「真の人」として家族を愛し支えたのです。
イザヤ書53章2節の後半からでした。 見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。十字架への道を歩まれる主イエスの姿ですが、私はこの言葉から思い起す出来事が一つあります。イザヤの預言よりさらに500年ほど前のことです。預言者サムエルがイスラエルの王を選ぶために、8人の息子を持つエッサイの家に遣わされました。容姿の整った長男を見たサムエルは彼こそが王に相応しいと思うのですが、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル記上16:7)そして神様が選ばれたのは羊飼いの少年ダビデだったのです。神様が容姿に目を向けられないことは嬉しいのですが、「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」 神様は私たちの心の中をご覧になるとおっしゃるのです。すべて、お見通しなのです。ドキッとさせられます。
主イエスには 輝かしい風格も、好ましい容姿も 必要ありません。その心がいつも神様に向けられているからです。創世記によれば、人は神の似姿に造られました。(創世記1:26)人の内面、その心はキリストに似たものでありたいと思います。「神様と隣人を愛する心です。」イザヤ書53章3節以降には、救い主とイスラエルの人々の関係、すなわち彼らが主イエスにどの様な態度を取り、それにもかかわらず主イエスがどの様に接してくださったのかが語られます。
さらにそれは、主イエス・キリストと私たちとの関係でもあるのです。「私たちは主を軽蔑し、見捨て、多くの痛みを負わせた。私たちは主を軽蔑し、無視している。」 この様に読み取れます。いかがでしょうか?いや、私はそんなにひどくない。聖書もたまには開くし、祈るし、主が愛してくださっていることに感謝して奉仕したり献げたりしている。大変結構なことです。ぜひ続けていただきたいと思います。
4節。主は私たちの病を担ってくださった。ここで病と翻訳されているのはヘブライ語の חֳלִי (choli ホリ)と言う単語ですが、病気と言う意味の他に、弱さ、欠け、悲しみ、心身の苦痛 と言った広い意味を持っています。私たちの「罪」を担ってくださったと翻訳するのが一番はっきりします。主イエスは私たちの「罪」を担い、私たちの痛みを負った。私たちの「罪」の為に神の罰を受けて苦しんだ。
5節。主の十字架は私たちが神様に背いたためであり、その咎(とが)のためなのだ。そしてまさにその主の十字架に依って、私たちに平和が与えられ、私たちの病、すなわち「罪」は癒されたのだ。紀元前500年のイスラエルの人にはやがて起きることとして、私たちには神様のみ心が2000年前に既に成就した事実として告げられているのです。しかし、「真の神」であっただけでなく、「真の人」であった主イエスにとって全く「罪」を犯したことの無い自分が神から裁きを受けて、父なる神との愛の関係が絶たれる。どれほど大きな悲しみであり苦しみだったのでしょうか。自分は何も悪いことしてないのに、自分のせいにされてしまった。そんな悔しさを味わった経験がみなさんもあるのではないでしょうか。しかも、その結果神様との愛の関係が断たれてしまうのです。 
オリーブ山で、血の滴る様な汗をかいて主は祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカ福音書22:42)ここにも「神と隣人への愛が全く揺らがない」主イエスの姿を見るのです。
53章6節から10節をお読みします。聞いてください。53:6 わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。7 苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。9 彼は不法を働かず その口に偽りもなかったのに その墓は神に逆らう者と共にされ 富める者と共に葬られた。10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ 彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。このイザヤの預言を聞いた人たちは、主の僕、すなわち主イエス・キリストがどういう方なのか、何で十字架の死が避けられないものなのか。まったく理解できなかったのです。主がエルサレムの町に入った時に、「主の名によって来られる方、王に、 祝福があるように。天には平和、 いと高きところには栄光。」(ルカ福音書19:38)この様に大歓迎した数日後に、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫び、さらに「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けたのです。(ルカ福音書23:18,21)主の十字架に立ち会ったとしたら、私たちはどうするのでしょうか? 剣を抜いて大祭司の手下の耳を切り落とすのでしょうか? 弟子たちの様に逃げてしまうのでしょうか? ペトロの様にその人のことは知らないと3度言うのでしょうか? シモンと言うクレネ人の様に主に代わって十字架を運ぶのでしょうか? 婦人たちの様に遠くに立って見つめていたのでしょうか? 讃美歌306番は南北戦争以前から歌われていた黒人霊歌です。「あなたもそこにいたのか。主が十字架についた時。主が釘で打たれた時。槍で刺された時。」この様に問います。私たちはその時どうするのでしょうか?のちほど賛美しましょう。
イザヤ書53章11節12節。 ここでイザヤは理解し難いことを語ります。 53:11 彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。11節の後半。神様の僕、主イエスは 多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。
12節の後半。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。確かに、これが主の十字架の意味だと私たちは知っています。理解できます。私たちを愛する故(ゆえ)の十字架です。私たちは「罪」すなわち「神様と自分と隣人を愛しきることが出来ない。」神様のご命令に従い切れない。「罪」の現実があります。神様は聖なる方ですから「罪」をいい加減にはなさいません。
パウロはハッキリ言います。罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。(ロマ書6:23)「罪」を犯す私たちこそ十字架に架けられるべき者なのですが、代わりに主が「罪」を負ってくださった。さらに主イエスに従う者を「罪」のない者と見なしてくださり、永遠の命、すなわち永遠に神様の愛の中に置いてくださる。この様に11節と12節の後半は宣言しています。私たちは今この福音の許に有ります。
それでは前半はどうなのでしょうか? 彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。彼は戦利品としておびただしい人を受ける。主イエスはご自分の苦しみの結果、人々が神様の愛に気づいて神様に立ち返るのを知って満足する。主イエスは悪魔との戦いに勝って、悪魔の虜(とりこ)になっていたおびただし人を、ご自分に従う者として受け取る。この様な意味になります。
マタイ福音書の最後に大宣教命令と呼ばれる主のご命令があります。あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。全ての人が神様を信じて永遠の命を得るようにしなさい。永遠に主の愛の中を歩むようにしなさい。そしてこのために、主の愛、十字架で示された愛を知り教会に集う者、私たちに福音伝道の使命が託されています。
しかし現代において、私たちは伝道の厳しさを知るのです。さらに、先ほど54章5節のところで「主の十字架に依って私たちに平和が与えられるのだ。」と申しました。すべての人が主に従うようになれば「真の平和」が実現すのだから、平和も教会に委ねられているのだ。この様に言えば確かにそうでしょう。しかし、現実には悪魔が教会内部に入り込み混乱に貶(おとし)める。そんな悲しい出来事もあります。世界の現状を見れば、私たちの無力さを感じます。イザヤが語った神様のご計画のうち、「罪」の問題の解決は主の十字架と復活の出来ごとにおいて確かに実現しているのですが、伝道と平和の実現に関しては無力なのでしょうか?
最初に読んでいただいたヨハネの黙示録にその回答があります。救い主、主イエス・キリストの2度目の来訪の時。すなわち終末の時に希望を託すことが出来るのです。黙示録3章2節。目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の前に完全なものとは認めない。 確かに私たちは完全ではありません。「神様と自分と隣人を愛する」ことにおいて欠けを持っています。伝道が進まず争い事が止まないことは私たちの欠け、すなわち「罪」と無関係ではありません。 4節。しかし、サルディスには、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは、白い衣を着てわたしと共に歩くであろう。そうするにふさわしい者たちだからである。 サルディス教会への語りかけですが、日本の教会、世界の教会と読むことが可能です。「罪」が洗われ白い衣を来て主と共に歩く者とあります。主と共に歩く限りにおいて、どんなに汚れた着物を着ていても白く見えるのです。まばゆい世の光、主イエス・キリストの故にです。
5節。 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す。主のみ名によって洗礼を授けていただいた者は白い衣を着せられているのです。まだ洗礼に至っていない方の為には、白い衣が用意されています。身に付けていただきたいと思います。一たび「命の書」に記された名前は消されることはありません。耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。紀元前500年に生きた人たちはイザヤによって救い主イエスが与えられる預言を受けて、希望を持って待ち続けました。2000年前の人たちは主イエスにお会いし、十字架と復活の証人となりました「罪」の問題の根本は既に解決されているのです。それ以降、聖書を通して伝えられたその証言を、教会は語り続けています。たとえ2024年において、悪魔の力の影響を受けて多くの矛盾を抱える世界に生きていようとも、私たちは知っているのです。主イエスの再臨の時に、白い衣を着た私たちに完全な勝利がもたらされことを聖書の証言によって知っているのです。今、レントの時に有って、私たちは目を覚まし、主に託されている業に希望を持って取り組んで行きましょう。すでに「命の書に」名前が記されている私たちです。 祈ります。