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山形六日町教会

2024年3月3日

聖書:イザヤ書51章11~13節 使徒言行録9章26~31節
「慰めの子の働き」波多野保夫牧師

主の十字架と復活の時を覚え、感謝を新たにして歩むレントの期間も3週目に入りました。先ほど司式の長老に読んでいただいた使徒言行録9章26節は サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。この様にありましたが、9章の最初から始めましょう。
「サウロの回心」と小見出しが付けられており、1節2節です。さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。 サウロ、後のパウロはファリサイ派の熱心なユダヤ教徒で、律法学者になるための研鑽を積んでいました。しかし、西暦30年ころに十字架に架って死んだイエスは復活しました。そして復活のイエスこそが救い主だと信じるクリスチャンがどんどん増えていったことは、サウロにとって神様を冒涜すること以外の何ものでもなかったのです。
西暦34年のことです。サウロはクリスチャンを捕らえるためにダマスコの町に向かう途中で、復活の主に出会い、クリスチャンを迫害する者から、キリストの故に迫害される者へと180度変えられたのです。 回心したサウロはクリスチャンを捕まえるために向かったダマスコの町のユダヤ教の会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。(9:20)のです。裏切り者のサウロをユダヤ人たちは殺そうとしたのですが、9章25節。サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁づたいにつり降ろした。この様に命からがら逃げだしたサウロです。26節。サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。
この頃、初代教会の中心はエルサレムにあったのですが、そこはまたエルサレム神殿がそびえるユダヤ教の中心地でもありました。サウロはクリスチャンの男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行していたのですから教会の仲間に加わろうとしても、受け入れてもらえるはずはありません。しかし、たった一人ダマスコでサウロが語り伝える主の福音の言葉を聞いて、サウロの回心を信じた男がいました。ある意味でお節介な男です。かつての殺人鬼サウロなんかに関わらない方が安全です。論語に「義(ぎ)を見(み)てせざるは勇(ゆう)無(な)きなり」と言う言葉があります。「人としてなすべき正しいことが分かったのに、それをしないのならば臆病者だ。」と言った意味でしょう。
しかし、聖書にはもっと厳しい言葉があります。ヤコブ書4章17節。人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。レントの時にあって、心にずしんと来る言葉ではないでしょうか。人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。バルナバはサウロの過去にとらわれるのではなく、彼が語る主の福音の言葉に真実を見たのです。
さて、今日注目したいのはサウロ、後のパウロではなくこのバルナバです。彼が使徒言行録に最初に登場するのは、4章36節37節です。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。 少し言葉の説明をすれば、レビ族はアブラハムの孫に当たるヤコブの3男レビを祖先とする一族で祭司の家系でしたが、主イエスの時代には神殿の警護と祭儀の音楽を担当する、神殿での下働きを担当して貧しく暮らす様になっていました。このレビ族のバルナバは 持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。とあります。
原始共産制と呼ばれる礼拝を中心とした共同生活については「説教シリーズ使徒の働き第3回」の中でお話ししました。繰り返しておきましょう。【ペンテコステの日の興奮と感激の中で始めた原始共産制と呼ばれる暮らしがあります。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。主が十字架へ架けられてから50日ほどのことです。迫害の恐れを感じつつ主にある兄弟姉妹を愛する思いから、皆が寄り添い分かち合う生活を始めたのです。現代において、この様なみ言葉と祈りに導かれての共同生活を送っているのは、修道院でしょう。プロテスタントの教会員は修道院に籠って祈りの生活をするのではなく、社会にあって教会生活を守ります。その意義は、まだ主を知らない大勢の人の側(かたわら)にあって主の愛を届けることにあるのではないでしょうか。隣人を愛する行いの一つは、私たちが頂いた最高のもの、主を信じる信仰を分かち合うことです。そして何よりも私たちの生活の原点には使徒の教え、これは私たちにとっては聖書の教えですが、さらに 相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。すなわち礼拝があるのです。】この様に申しました。大切にしたいと思います。
さて、バルナバは「慰めの子」と言う意味のあだ名だとあります。ギリシャ語のπαράκλησις(パラクレーシス)と言う言葉の翻訳です。この言葉には「慰める」と言うだけでなく「励ます」あるいは「力づける」と言う意味もあります。悲しんでいる人を慰める。落ち込んでいる人を励ます。どちらも主イエス・キリストに心が向く様に慰める。あるいは励ますのですから、それほどの差はないのでしょうが、彼の行ったことを見て行くと「励ましの子」と呼ぶ方が相応しく思いました。
バルナバの活躍を追って行きましょう。最初に読んだ9章26節以下です。エルサレムの町で バルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。 主と親しく交わり、十字架の死に立合い、復活の主にお会いし、主が送ってくださった聖霊の働きによる教会の誕生に立ち会った使徒たち。その使徒たちとの豊かな交わりが、後のパウロにとってどれほどの力になったか知れません。さらにパウロの残した手紙によって神様のみ心を知る私たちにとって、どれほど大きなものであったか知る由もありません。そしてその陰に、回心したにも関わらず、それを認めてもらえないサウロを「励ました」バルナバがいたのです。私は「慰めの子」ではなく「励ましの子」と翻訳したいと思うのです。 29節。また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。ユダヤ人は古くから地中海沿岸地方に広く進出していましたが、ユダヤに戻ってきた人達はギリシャ語を話しました。このユダヤ人がユダヤ教徒であれば、主イエスの福音を伝えようとしたのですが、彼らにとってサウロは裏切り者です。クリスチャンであれば、信仰を深めるように議論したのでしょうが、彼らにとってサウロはかつての殺人鬼です。それはともかくとして、クリスチャンであれ、ユダヤ教徒であれ、私たちであれ、十戒の「殺してはならない」を無視することは許されません。その一方で、バルナバはそれまでの恨みに支配されるのではなく、サウロの回心をきちんと受け止めることが出来たのです。バルナバの素直さは、主のみ言葉「敵の為に祈りなさい。敵を愛しなさい。」まさにこのみ言葉への素直さでした。31節。こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。サウロの安全を確保したキリストの教会は発展して行ったのです。ここで注目したいのは、ギリシャ語原典で「教会」が単数形になっていることです。山形にも多くの教会がありますが、それらはキリストの教会として一つの教会なのです。言い換えれば、「キリストに連なる教会が山形には沢山ある。」となります。
さて、物語は使徒言行録11章に飛びます。当時の教会にとって異邦人、すなわちユダヤ人以外への伝道が大きな課題となっていました。聖霊によってまずペトロが担うことになったこの課題は、やがてバルナバとサウロに託されるようになります。11章21節は、現在のシリアにあるアンティオキアの町の教会です。主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。とあり、使徒たちが中心となっていたエルサレム教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。ここでもバルナバを「励ましの子」と呼ぶのが適切です。異教徒の中にあって主への信仰へ導かれた人を励まし、信仰へと導いたバルナバは聖霊と信仰とに満ちていたのですが、伝道者が足りません。バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。聖霊と信仰に満ちたバルナバがサウロを立派な伝道者に育てたと言って良いでしょう。
13章4節には、聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、とあります。キプロス島から始めアジア地方、現在のトルコへの伝道旅行です。パウロの第一回伝道旅行と呼ばれる旅の始まりですが、彼らはこの旅にバルナバのいとこで、マルコと呼ばれていたヨハネと言う若者を連れて行ったのです。辛い危険の伴う旅になることは分かっていたのですが、次の世代の伝道者を育てる目的だったのでしょう。しかし、ここで事件が起きました。13章13節です。パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。いわゆる敵前逃亡です。この一件でパウロがマルコと呼ばれていたヨハネを見捨ててしまったことを後で見ますが、マルコがエルサレムに帰ってしまった理由を聖書は語っていないので、ホームシックだとか、命を狙われる出来事に恐れをなしたとか様々なことが言われています。
その中で、面白い説があります。この13章13節までは、「バルナバとサウロ」と二人のことを呼んでいたのですが、サウロがパウロと呼ばれるようになったこの頃から、二人を「パウロとバルナバ」と呼ぶことが増えて来ているのです。これは伝道旅行のリーダーがバルナバからパウロに移って行ったことを意味しており、「マルコはいとこのバルナバが少し軽く見られる様になったことが面白くなかったのだ」と言うのです。極めて人間的な説明ですが、確かに教会のなかにも起こりそうなことだと思わされます。いかがでしょうか? 教会はいつの時代にあっても、聖なる神様と罪を抱えた人間の接点に置かれています。十字架の主を見失うのであれば、これほど醜い所は無いでしょう。しかし、バルナバは自分とパウロのどちらが重んじられるかなんてことは気にかけません。15章35節。パウロとバルナバはアンティオキアにとどまって教え、他の多くの人と一緒に主の言葉の福音を告げ知らせた。「パウロとバルナバ」と呼ばれていますが、そんなことは気にかけません。しっかりと主の十字架を見つめた二人は協力して主の福音を伝えたのです。36節。数日の後、パウロはバルナバに言った。「さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか。」 
パウロは深く信頼しているバルナバに二回目の伝道旅行を提案しました。15章37節から41節。37 バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。38 しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた。39 そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出したが、40 一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。41 そして、シリア州やキリキア州を回って教会を力づけた。バルナバはマルコに以前の敵前逃亡を反省して伝道者として成長するチャンスを与えようとしたのです。
それに対してパウロの態度は心が狭い様に感じられないでしょうか? 「そんなことでは若者は育たないよ!」そのくらいのことをパウロに言いたくなります。しかし、パウロはコリントの信徒への手紙Ⅱで言っています。 しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。(11:26,27)こんな苦労を、まだひ弱なマルコに味わわせて、信仰を失わせてはいけない。この様な思いがパウロにはあったのではないでしょうか?ある先輩の牧師が言いました。「伝道は無理しちゃいけない。しかし、無理しなきゃいけない。」この言葉が思い起されます。そして聖書は言うんです。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
さてこれ以降、バルナバとパウロが協力して伝道した姿を聖書は伝えていないのですが、二人がたもとを分かった結果、バルナバとマルコ、パウロとシラスと言う二組のベテランと若手の伝道チームが出来上がったのです。人間的ないがみ合いが起こったのですが、バルナバもパウロも主イエス・キリストを見つめ続けていたことに変わりはありません。しかしこれ以降、使徒言行録にバルナバが再び登場することはありません。それでは、けんか別れしたままだったのでしょうか? バルナバは信仰を捨ててしまったのでしょうか? 
聖書は次のことを語っています。パウロの言葉を伝えるフィレモンへの手紙です。わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。(1:24) マルコを私の協力者と呼ぶこの手紙は、第2回伝道旅行の途中に書かれたと言われていますから、数年後のことです。コロサイの信徒への手紙です。わたしと一緒に捕らわれの身となっているアリスタルコが、そしてバルナバのいとこマルコが、あなたがたによろしくと言っています。このマルコについては、もしそちらに行ったら迎えるようにとの指示を、あなたがたは受けているはずです。(4:10) パウロがローマで捕われていた時の手紙ですから、10年ほどの時が経っていたのでしょう。パウロとマルコの関係は完全に修復されマルコはパウロに仕えていました。テモテへの手紙Ⅱです。ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです。(4:11)あのひ弱だったマルコがパウロを力強く支えている姿があります。さらにこれは聖書の言葉ではないのですが、マルコ福音書を書いたのはこのマルコだと言う伝説があるのです。マルコの成長の背景に「励ましの子」バルナバがいたことは確かです。彼の祈りが聞き届けられてマルコは立派な伝道者に成長したのです。 
以前、「私たちはペトロにはなれないかも知れないけれど、アンデレにはなれる」この様に言いました。アンデレがペトロを主に引き合わせたのです。私たちはペトロの様に大胆に福音を宣べ伝えることは出来ないかも知れないのですが、隣人を主に引き合わせること、すなわち教会に招くことは出来ます。同じ様に私たちはパウロにはなれないかも知れません。しかし、バルナバにはなれるのではないでしょうか。苦しみ、悲しみの中にある隣人に主イエスを指し示す「慰めの子」であり、自信をなくしている隣人、落ち込んでいる隣人に主イエスを指し示す「励ましの子」バルナバ。主イエス・キリストが十字架で示してくださった大いなる愛を知る私たちだからこそ、聖霊の助けを受けてバルナバになれるのです。レントの時にあって、私たちも「慰めの子」であり「励ましの子」として主に用いていただく幸せを共にしたいと思います。祈りましょう。