HOME » 山形六日町教会 » 説教集 » 2024年2月18日

山形六日町教会

2024年2月18日

聖書:列王記上19章1~18節 マルコによる福音書14章32~34節
「死ぬまでに悲しい」波多野保夫牧師

先週の水曜日、2月14日は「灰の水曜日」と呼ばれ、この日から40日間のレント、主イエス・キリストが私たちの罪を負って十字架に架ってくださったことを思いながら過ごす日々、十字架と復活へ向けての備えの日々が始まりました。先週の礼拝説教で「ダニエルの断食」をお勧めしました。繰り返すことはしませんので、礼拝に出席できなかった方は、山形六日町教会のFacebookページに動画がありますし、教会ホームページに説教原稿を掲載していますのでググっていただきたいと思います。そして、ご一緒に主の大いなる愛に感謝するレントの時を過ごしたいと思います。
さて本日与えられました旧約聖書は列王記上19章1節から18節までです。司式の長老には最初の4節までを読んでいただきました。18節までは後ほどご一緒に読み進めて行きます。登場するエリヤがどの様な預言者だったのかから始めます。まず名前ですがエリヤ(אֵלִיָּה)はヘブライ語で「ヤハウェは神である」と言う意味を持っています。
紀元前860年ころ、これはダビデ王の時代から100年以上経った時代ですが、ダビデ王の息子ソロモン王の時代に栄華を極めた王国は、すでに北のイスラエルと南のユダに分裂していました。預言者エリヤが遣わされたのは、アハブが王となっていた北イスラエル王国です。アハブ王の妻イゼベルは、現在のレバノンに位置するフェニキア出身で、父親がバアル神に仕える祭司だったことから、その影響を受けたアハブ王は自ら進んでバアルに仕え、これにひれ伏しバアル神殿を建て、この中にバアルの祭壇を築き(16:31,32)、バアル礼拝を強制する様になっていたのです。バアルは豊かな農耕地帯、カナン地方に古くからある多神教の神で、雷と雨を地上にもたらすと言われていた豊穣神です。この神を祭り礼拝することで豊作が約束されると言う訳です。アハブ王だけでなく、多くの民も天地を創造されたイスラエルの神を捨ててバアルと言う偶像を礼拝する様になっていたのです。
先立つ列王記上18章には、エリヤとバアルの預言者たちとの戦いが記されています。18:1 多くの日を重ねて三年目のこと、主の言葉がエリヤに臨んだ。「行って、アハブの前に姿を現せ。わたしはこの地の面に雨を降らせる。」2 エリヤはアハブの前に姿を現すために出かけた。サマリアはひどい飢饉に襲われていた。この時、王妃イゼベルは多くの主の預言者たちを切り殺していたのです。そんな危機的状況下で、18:21 エリヤはすべての民に近づいて言った。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」民はひと言も答えなかった。22 エリヤは更に民に向かって言った。「わたしはただ一人、主の預言者として残った。バアルの預言者は四百五十人もいる。
主なる神の指示に従ったエリヤは、アハズ王に呼び集められた450人のバアルの預言者たちと戦いました。彼らはカルメル山でバアルの神に焼き尽くす献げもの、燔祭の雄牛を祭壇に準備して、狂ったように叫び続けて彼らの神が火を降すことを待ちました。しかし、バアルの神は彼らの願いに答えません。そこで、エリヤは主の祭壇を築いて燔祭をささげる準備を整えてから祈りました。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。」(18:36,37)
すると、天から主の火が降って燔祭の献げものを焼き尽くしたのです。さらにエリヤは、干ばつの為に飢饉に苦しんでいた北イスラエルに激しい雨を降らせるとの神様のお考えを告げました。 そうするうちに、空は厚い雲に覆われて暗くなり、風も出て来て、激しい雨になった。(列王記上18:45)
イスラエル王国の多くの者は、エリヤの神こそが真の神だと知り、バアルを離れて主なる神に立ち返ったのです。主なる神への祈りが聞かれ、450人のバアルの預言者との戦いにたった一人で勝利したエリヤです。高揚感に浸っていたに違いありません。
しかし、本日与えられた19章は次の様に始まります。19:1 アハブは、エリヤの行ったすべての事、預言者を剣で皆殺しにした次第をすべてイゼベルに告げた。2 イゼベルは、エリヤに使者を送ってこう言わせた。「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。」エリヤは偶像バアルに仕える預言たちを滅ぼしたのですが、すべての出来事をアハブ王は王妃イゼベルに告げました。それを聞いたイゼベルは「エリヤを必ず殺す」とバアルの神に誓ったのです。3節以下では、これを伝え聞いたエリヤの反応と、神様がそのエリヤに何をなさったのかが語られています。3 それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた。権力者、王妃イザベルからの殺害予告です。エリヤがいかに恐れたかが 直ちに逃げたことから知られます。そこにはたった一人で450人のバアルの預言者と戦って勝利した雄姿はありません。エリヤの祈りを聞き届けて力を与えてくださった神様への信頼も見られません。彼が祈る姿はないのです。やっとのことで追手から逃げることが出来たエリヤは自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」 
ここでエリヤが言う先祖とは、モーセであり、その後継者ヨシュアです。神様に選ばれたイスラエル民族を奴隷となっていたエジプトから導き出す大きな働きをしました。ダビデ王です。 み心に添わないバテシバとの情事を深く悔い改めて神様に立ち返りました。イスラエルの歴史における最高の王であり、その末に救い主の誕生が約束されました。さらに、主に従った多くの士師であり、預言者であり信仰者たちです。彼らに比べてエリヤが自分の弱さを思い知った理由が19章10節にあります。 「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」カルメル山で主なる神が祈りを聞き届けてくださった結果、450人ものバアルの預言者に劇的な大勝利を収めることが出来たのです。
しかし、その高揚感の反動でしょうか、燃え尽き症候群の中で、イゼベルの殺害予告の恐怖に襲われたエリヤです。死を願うほどの緊張のあまりに、疲れ果て横になって眠ってしまった彼の姿が、一本のえにしだの木の下にありました。どれほどの時間が経ったのでしょうか、主のみ使いが現れて告げました。「起きて食べよ。」 見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。
先ほど、殺害予告を受けたエリヤが祈ることなく直ちに逃げ出したことを指摘しました。そんなエリヤに神様はパン菓子と水を与えてくださったのです。私はなぜか、小さな子供のころ「自分の願いが叶わないので」親にダダをこねて泣きじゃくり、疲れて寝てしまった。そんな情景が重なります。しばらくして母親がお菓子を持ってきて「これ食べなさい。」 少し心が落ち着くとまた寝てしまった。そんな情景です。エリヤの思いと行い、その全てを神様はご存知なのです。そして3000年近くの時を隔てた現代においても、神様は私たちの思いと行いの全てをご存知です。
7節。主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。私たちの歩む人生の旅路は長く、また耐えがたいことも起こるでしょう。「起きて食べよ。」私は、この言葉に聖餐式で与えられるパンとぶどう酒、すなわち主イエスの血と肉をいただき、そして立ち上がる。主のご用の為に立ち上がり、主に用いていただく。こんな幸せな人生を描くのです。そしてここにこそ、いやここにだけ、私たちを襲う様々な恐れに対しての根本的な解決があるのです。
確かに私たちには、様々な恐れが襲い、心の重荷が増す時があるでしょう。5節と7節に「起きて食べよ。」と言う言葉が繰り返されています。しかも二度とも主のみ使いはエリヤに触れて語っています。主の聖餐に与るたびごとに、聖餐のパンとぶどう酒は私たちの内面に触れて主の愛を伝えてくれるのです。
旧約聖書の中に苦しみが多く語られています。詩篇42篇です。昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。
ルツ記です。ナオミは言った。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。(ルツ記1:20)
すすり泣く預言者と呼ばれるエレミヤの言葉です。それゆえわたしは泣く。わたしの目よ、わたしの目よ 涙を流すがよい。慰め励ましてくれる者は、遠く去った。敵は勢いを増し わたしの子らは荒廃に落ちてゆく。(哀歌1:16)
また、大きな魚に飲み込まれたヨナの言葉です。主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。(ヨナ書4:3)
2024年に生を受けている私たちは、昨今の自然災害や戦乱、様々な悲しみ苦しみ。理解し合えなかったり、心が通わなかったり、いじめや差別、ギスギスして余裕のない社会では大きなストレスが溜まる現実があります。
ここで、最初に読んでいただいたマルコ福音書14章32節以下です。小見出しに「ゲッセマネで祈る」とある様に、主は十字架の前の晩、使徒たちとの最後の晩餐を終えられると、祈るために静かな場所へと出て行かれました。この時、12使徒は園の入り口に8人残り、ペトロ、ヤコブ、ヨハネは主と共に園の中に、そしてイスカリオテのユダは祭司長たちのところに行って銀貨30枚で主を売り渡していたのです。(マタイ26:14,15) 主イエスのことを理解していた人は誰もいませんでした。イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
「仮現説」と言う神学の言葉がありますが、主イエスがどの様な方なのかに関しての異端を紹介します。「イエスは地上にいらっしゃる間、実際に肉体を取られたのではなく、幻として存在したのだ。」とか、「イエスが本当の神だとは認めるが、本当の人だったことは否定して、イエスの人間性は仮面であり、その下にある真の神の姿を覆っていただけだ」とするのです。「神が苦しみを味わうはずがない。」と言う聖書が語っていない、極めて人間的な発想です。しかし、私たちの主イエスは、「真の神」であると同時に「真の人」です。マリアとマルタが兄弟ラザロの死を悲しむ時、涙を流され(ヨハネ11:35)、死の持つ非情さに憤りを覚えて興奮された方です。犯したことの無い罪のために、理不尽な死が迫って来ることを「ひどく恐れてもだえ始め」さらに、後を託す弟子たちの不甲斐ない姿も含めて「わたしは死ぬばかりに悲しい。」とおっしゃるのです。主イエス・キリストは、「真の神」であると同時に、恐れ、憤り、悲しみ涙を流す「真の人」です。私たちの悲しみ、苦しみ、重荷を私たち以上に味わわれた方がいつも私たちと共にいてくださるのです。そのお方の言葉がマルコ福音書14章34節にあります。「目を覚ましていなさい。」
この言葉を覚えて、列王記上、預言者エリヤの物語に戻りましょう。19章8節。エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。 
私たちも今四十日四十夜のレントの期間を歩いています。神の山ホレブは、かつて出エジプトのリーダー・モーセが十戒を与えられた山です。神様が近くにおられることを表す自然現象が次々起こったのですが、そこに神はいらっしゃいません。12節。エリヤは静かにささやく声を聞きました。そして15節以下で主はエリヤに果たすべき新しい3つの仕事を与えられます。それは二人に油を注いで王として立てることと、エリシャに油を注いでエリヤの後継者にすることでした。彼らは異端の神バアルと戦うことになりました。油注ぎは神様のご命令によって王や預言者を立てる儀式です。私たちにとっての洗礼式を考えれば良いでしょう。
そしてバアルにひざまずかず、これに口づけしなかった七千人。これが現代のクリスチャンなのです。従うのは「真の神」であり、「真の人」主イエス・キリストだけです。
今私たちが歩んでいるレントの時に有って、2つのことに注目していただきたいと思います。「今年のレントの期間に有って神様は私に何を語り掛けていらっしゃるのか。」と「神様は私に何を期待なさっているのか。」この二つです。「でも波多野先生。そんなこと言われたって、私は忙しいし、力がないし、年寄りだし・・・」では伺いましょう。「あなたは祈ることが出来るんじゃないですか? 

詩篇116篇の詩人は歌います。わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。 死の綱がわたしにからみつき 陰府の脅威にさらされ 苦しみと嘆きを前にして 主の御名をわたしは呼ぶ。 あなたは、たとえ死の床にあっても隣人のため、教会のために祈ることが出来るんです。」 

主の大いなる愛、私たちの「罪」のための十字架で示された主の大いなる愛を感謝して過ごす40日間です。ぜひ「神様は私に何を語り掛け、何を期待なさっているのか。」 耳を傾けていただきたいと思います。
神様の静かにささやく声を聞きましょう。ささやく声に耳を傾けた先輩方がいらっしゃいます。エリヤは燃え尽き症候群と王妃イゼベルの脅迫から、死を願う様になりました。残念なことですが現代においてもその様な事は起こります。しかし、私たちの為に命を捧げてくださった主の愛を知るほどに、人の命の大切さを思い、「山形いのちの電話」の創立とその活動に尽力された先輩方と共に、多くの教会員が祈り支えてきた歴史が山形六日町教会にはあります。
それだけではありません。今日は主のみ言葉が詰まった聖書を山形の地に届ける働きを長きに渡って続けているギデオン協会の兄弟も一緒に礼拝に集ってくださいました。後程活動報告をしていただきたいと思います。千歳認定こども園では職員の方々が幼い子供たちに、そしてその家庭に主の愛を届けるために、山形六日町教会のCSと祈りを合わせています。
変化が大変速く大きくなっている現代です。そんな中で育ち、そして生きて行く子供たちです。どんな時にあっても変わることの無い主の愛の中をしっかりと歩に、心も体も大きく成長出来る様に祈りたいと思います。地域にあるキリスト教主義の高校、山形学院のためにも祈りが必要です。
もちろん日々の生活の中で「神様が何を語り掛け、何を期待なさっているのか。」を聞くのですから様々なことが聞こえるでしょう。雑音であり悪魔のささやきが混じることもあるでしょう。それに惑わされない方法があります。そうです。主のご命令を通して聞くのです。「神様と、自分と、隣人を愛しなさい。」これに反する声が聞こえたとしたらそれは悪魔のささやきです。「みんなもやっている。チョットだけなら良いだろう。」危険ですね。預言者エリヤは一人で450人のバアルの預言者と戦い、王妃イザベルの殺害予告におびえました。彼がそれに気づくまで時間がかかったのですが「起きて食べよ」と言ってくださる神様の愛の中にズーっと置かれていたのです。
私たちは違います。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28:20)とおっしゃった復活の主を知って人生を歩んでいるからです。繰り返します。40日間のレントにあって「神様は私に何を語り掛け、何を期待なさっているのか。」を祈りの中で神様の静かにささやく声を聞く日々を過ごしたいと思います。 祈りましょう。