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山形六日町教会

2024年2月11日

聖書:箴言18章20~21節 ヤコブの手紙3章5~10節
「ことばが世界を創る」波多野保夫牧師

1月の月報でご案内したように、今年のイースターは3月31日になります。主の十字架と復活の出来事は過越しの祭りの際に起きました。1000年以上前に、イスラエルの人たちが奴隷となっていたエジプトから救い出された時のことです。イスラエルの人たちは、鴨居に羊の血を塗った家を神様が過ぎ越されたことで災いに合うことなく守られました。この恵みを忘れることが無いようにと続けられた過越しの祭りは、ユダヤの暦(こよみ)に依りますから私たちの太陽暦では、月日が移動します。イースターは伝統的に「春分の日の後の最初の満月の次に迎える日曜日」とされています。今年は3月31日になります。そして、教会は古くから復活祭前日までの40日間をレント、あるいは四旬節とか受難節呼んで、主の十字架の出来事が私たちの罪を代わりに負ってのことだったと深く思い、祈りの内に過ごす期間としたのです。但しその間にある6回の日曜日は、主の復活を覚える喜びの日ですから勘定にいれません。ですから3月31日、イースターの46日前は今週の水曜日2月14日になり「灰の水曜日」と呼ばれます。なぜ40日間なのかは、主イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた後の出来事に依ります。さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。(ルカ福音書4:1,2) 
私たちプロテスタント教会は、西暦1500年代にカトリック教会が形式主義に陥って堕落したのに対抗して誕生した教会ですから、形式的なものを極力排除します。そんな歴史的な背景から聖書に多く語られている「断食」を求めることは稀です。もちろんこの「断食」はいわゆる「願掛け」とは全く違います。「願掛け」は「これだけ苦しんだのだから願い事をかなえてください」と迫るものですが、聖書の断食は心を神様に向けるためのものです。ですからプロテスタント教会も主の十字架の時を心の準備もって迎えることを失ってはいけません。古くから教会の中で受け継がれてきた「断食」について、ローマ・カトリック教会が記す「断食についての勧め」を週報に記しました。お読みします。
【断食については、現在では完全に食事を断つというよりも、十分な食事をひかえることと考えられていて、以下のように「大斎(たいさい)・小斎」があります。大斎と小斎を両方守る日は、灰の水曜日、これは今週の水曜日2月14日ですね。それと聖金曜日、これは復活祭直前の金曜日、主の十字架の日ですから今年は3月29日です。そして小斎を守る日は祭日を除く毎週の金曜日です。
大斎 :1日に1回だけの十分な食事とそのほかに朝ともう1回わずかな食事をとることができ、満18歳以上満60歳未満の信者が守ります。
小斎 : 肉類を食べないことですが、各自の判断で償いの他の形式、とくに愛徳のわざ、信心業、節制のわざの実行をもって代えることができ、満14歳以上の信者が守ります。(大斎も小斎も、病気や妊娠などの理由がある人は免除されます)】カトリック教会の勧めですが、主のみ言葉が思い起されます。
『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイ福音書6:31-34)こんなみ言葉を思い出してしまうのは、私が食いしん坊のせいなのでしょう。しかし、私は毎年レントの時になるとダニエルの断食をお勧めしています。旧約聖書ダニエル書には3種類の断食が記されています。1章12節の断食は野菜と水だけをとります。現代のダイエットに通じます。9章3節は水だけのいわゆる断食です。そして10章3節では美食、ここでは肉とワインを断つ断食です。「ダニエルの断食」としてお勧めしているのは最後の10章の断食です。日数や何を断つかは自分で決めます。それを食べたい飲みたいと、自分の欲望に行き当たる度に、主イエスの苦しみを思い起こすのです。
これは生活の中で十字架の恵みを思い起こし感謝する一つの方法なので、誰にも知らせる必要はありませんし、また達成できたからと言って誇るものでもありません。ダニエル書9章3節以下をお読みします。 9:3 わたしは主なる神を仰いで断食し、粗布をまとい、灰をかぶって祈りをささげ、嘆願した。4 わたしは主なる神に祈り、罪を告白してこう言った。「主よ、畏るべき偉大な神よ、主を愛しその戒めに従う者には契約を守って慈しみを施される神よ、5 わたしたちは罪を犯し悪行を重ね、背き逆らって、あなたの戒めと裁きから離れ去りました。
レントの期間、特に独り子を惜しむことなく私たちに与えてくださった神様に心を向け、その愛を思い起しながら過ごす日々は、私たちの心を喜びで満たしてくれるに違いありません。そして40日間のレントの最初の日は「灰の水曜日」と呼ばれます。灰はダニエル書に わたしは主なる神を仰いで断食し、粗布をまとい、灰をかぶって祈りをささげ、嘆願した。4 わたしは主なる神に祈り、罪を告白してこう言った。この様に悔い改めの印(しるし)です。私たちはカトリック教会の様に、額に灰で十字架を描くことはしませんが、同じように悔い改めの思いを持って過ごしたいと思います。
さて、先ほど司式の長老に箴言18章20節以下とヤコブの手紙3章5節以下を読んでいただきました。どちらも「舌」が中心にある聖句です。今まで話して来たこととあまり関係ない様に思われたかも知れませんが、私に「ダニエルの断食」を教えてくれた牧師が、40日間「ダニエルの断食」に取り組んだ際に何を断ったのかに関係しているのです。 
この牧師は言いました。【 わたしは不平不満を40日間言わないことにしたんだ。なぜって、ここ何年か教会の状況や、政治やひとびとのモラルなどに不満ばかり溜って来てつい愚痴が出てしまう。友人に言うだけでは済まなくて祈りの中でも言ってしまうんだ。君もそうだろうけど毎週の説教準備は聖霊の導きを祈りながら進めるよね。語るべき聖書箇所が与えられたら、釈義と言って聖書が伝えようとしていることを正確に深く理解することから始める。聖書原典に当たったり、註解書や先輩牧師の説教集を読んだり、最近ではネット上にある説教を聞いたりもする。そして聖書が自分に語り掛けてくれる様になったら実際に自分の言葉にしてみるんだ。一応説教原稿が出来たら何回か読み直して修正する。そして日曜日には30分ほど語る。いわば聖書の言葉の受け売りなんだけどね。説教は。深く聖書のみ言葉を知るほどに、イエスの愛の大きさを感じて行くのは大きな喜びなんだけれど、最近友人が「現代において、イエスの言葉は新車の皮張りのシートみたいだ」って言ったんだ。なぜって聞いたら、「とっても素晴らしいんだけど、どうしてもなければいけないってもんじゃない。」こう言うんだ。みんな自分の心の中にイエスの言葉とは違った世界を作り上げていて、毎日の生活の中でそっちの方を優先しているって言いたいんだよ、彼は。まあ、日曜日に礼拝に来ればその時だけはチョットはマシなんだけどね。 家族や友人、職場や学校、隣組みやいろいろな趣味のグループ、それから政治の世界もそうだし、国と国、残念だけど教会もそうかも知れない。お互いに非難することから始まって、本当に争いが絶えないんだ。】
この話を聞いて少なからずショックを受けました。現代において、イエスの言葉は新車の皮張りのシートみたいだ。なぜなら、「とっても素晴らしいんだけど、どうしてもなければならないってもんじゃない。」私は、自分にとって主イエスはどうなんだろうか? 聖書のみ言葉が本当に生きて行くのに無くてはならないものになっているのだろうか? そして友人の牧師が「ダニエルの断食」を「40日間、不平不満を言わないこと」としたのに共感を覚えたのです。
前置きが長くなりましたが、山口長老に読んでいただいた箴言とヤコブ書には「舌」の働きについて多く語られていました。カルヴァンに次の言葉があります。「体の小さな部分が邪悪な世界の全てを含んでいる。」小さな部分とは正に「舌」ですが、舌が何か悪さをするわけではありません。主イエスのみ言葉です。マタイ福音書15章11節。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。主が「口から出て来るもの」とおっしゃり、箴言を語った伝道者やヤコブが「舌」と呼び、カルヴァンが「体の小さな部分」と呼んだものは、人の心に住む悪魔、あるいは悪魔の働きと言うことが出来ます。主が次の様におっしゃっているからです。口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。(マタイ福音書15:18,19)
私が10年ほど前に六日町教会に赴任してまずお願いしたのは、うわさ話禁止でした。「うわさばなしは蜜の味」などと言われますが、これによってお互いの信頼関係が失われて残念な結果に至った教会は少なくありません。しかし、主にある兄弟姉妹の安否を問うことと「うわさばなし」はまったく違います。その違いは祈りを伴うかどうかです。ハッキリしています。旧約聖書詩篇とそれに続く箴言には「舌」に関連した忠告が沢山あります。いくつかをお読みしますので聞いてください。
彼らの口は正しいことを語らず、舌は滑らかで 喉は開いた墓、腹は滅びの淵。(詩5:10) キリストが来てくださる1000年近く前の詩でしょうか? 主の十字架と復活の出来事を知る現代においても状況はあまり変わらない様です。
主よ、すべて滅してください 滑らかな唇と威張って語る舌を。彼らは言います。「舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない。」(詩12:4,5) 神様と自分と隣人の前で謙虚さを失った姿です。
それに対して、詩篇35篇28節。わたしの舌があなたの正しさを歌い 絶えることなくあなたを賛美さんびしますように。これが私たちの舌の正しい用い方です。さらに詩人は歌うのです。わたしの舌はあなたの仰せを歌うでしょう あなたの戒いましめはことごとく正しいのですから。(詩119:172)
箴言は鋭く人の罪を指摘するのです。 軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す。真実を語かたる唇はいつまでも確かなもの。うそをつく舌は一瞬。(箴言12:18,19)さらに言います。 曲がった言葉をあなたの口から退け ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ。(箴言4:24)「ダニエルの断食」として「40日間、不平不満を言わない」とした牧師の思いもここにあったのではないでしょうか。レントの期間中、「不平不満を言わないこと」で、主の恵みを見えにくくしてしまう否定的な思いを避けるのです。
本日与えられたヤコブの手紙を丁寧に見ましょう。舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は「不義の世界」です。 ここで「舌」とは、先ほど聞いた主の言葉にあったように、私たちの心から出る言葉であり、行いです。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。 悪魔の力、私たちを主の愛から離れさせようといつも狙っている悪魔の力が「舌」に大きな力を与えるのです。家族であり、友人であり、学校・職場・地域の仲間、教会においても例外ではありません。隣人との愛の関係が壊れるチャンスを悪魔は狙っています。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。私たちは残念ながら悪魔に打ち勝つ力を持ち合わせていないのです。そしてその結果として、 わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。 ヤコブの指摘する様に主を賛美する一方で隣人を呪う。すなわち隣人を愛することにおいて欠けが有るのだとしたら、それは神様を賛美しているつもりになっていること自体が偽りなのです。
しかし、逆に言えばここに可能性があるのではないでしょうか? 少なくとも舌で、父である主を賛美しているのです。いつも語っている様に、父を賛美する最良の方法は礼拝に加わることです。 主イエスはおっしゃいます。わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。(ルカ福音書6:27,28) 使徒パウロの言葉です。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。(ロマ書12:14) 敵を愛しなさい。私たちにとって大変難しい言葉です。私はいつも申し上げています。繰り返しましょう。あなたの苦手な人、いやなヤツが波多野だとしましょう。あなたと私は三角形の底辺の角におり、心は遠く離れています。神様はこの三角形の頂点にいらっしゃいます。あなたは神様に祈るのです。「あの嫌いな波多野が神様に近づきます様に。アーメン」敵を愛して祈ったあなたは主のみ言葉にしたがったのですから、神様に近づきます。祈られた波多野も神様に近づくでしょう。この時あなたと波多野の心も近づくのです。敵を愛し敵の為に祈ることで、あなたと波多野が最終的に出会う場所は神様のみ許以外にはありません。
心理学に「確証バイアス」と言う言葉があるそうです。一旦正しいと信じ込むと、その信念を強化して新しい情報に対して偏見を持つ様になるそうです。自分に都合の良い話には耳を貸すが、都合の悪いことには耳を塞ぐのです。「私に限ってそんな「確証バイアス」なんて変なものを持ったりしない。」と思うかも知れませんが、大なり小なり人間にはこの傾向があるのだそうです。日々、五感を通して入って来るおびただしい情報の中で、心の平安を保つために私たちの脳に植え付けられた一つの特徴、それが「確証バイアス」だそうです。
わたしは思うのです。悪魔が心の中に入って来て「確証バイアス」なんて作られちゃったら大変です。カルトが正にこの例でしょう。アルコールや薬物中毒も脳の思考方法を変えてしまうそうです。出世や成績が第一だとか、この世の富に心を支配されることもそうでしょう。
しかし、これに対して最高の対処法があります。この後、讃美歌297番を賛美しますがその1節です。「栄の主イェスの 十字架を仰げば、世の富、ほまれは 塵にぞひとしき。」「栄の主イェスの十字架」とは、時間の流れとは逆に主の復活を通して十字架の出来事を見ると言うのでしょう。その時、私たちの心は、神様のご計画のすばらしさを讃え、主の愛で満たされることでしょう。その時、悪魔の入り込む隙間はありません。「世の富、ほまれは 塵にぞひとしき。」です。 悪魔が心の中に入り込む前に、主イエスの愛で心が満たされている。これこそが幸せな人生を手にする秘訣なのです。
今週の水曜日からレントの期間に入ります。主の十字架を思い、主の愛に感謝しての日々です。その思いを忘れないために、より強く感じるために「ダニエルの断食」をお勧めしています。祈りましょう。