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山形六日町教会

2024年2月4日

聖書:イザヤ書9章5~6節 使徒言行録4章5~12節
「何の権威で語るのか」波多野保夫牧師

説教シリーズ「使徒の働き」の3回目です。第1回では使徒言行録8章から、 エルサレム教会に大迫害が起こった際に、多くの信者がユダヤとサマリア地方に散って行った様子を見ました。彼らはそれぞれの地で福音を宣べ伝えながら巡り歩いたのです。大迫害と言う大きなマイナスを神様は伝道の機会として用いられました。現在、この日本で、そして世界で起こっている様々なマイナスの出来事を、主が用いてくださる様にと願います。
第2回は使徒言行録の最初に戻って、初代教会の様子を見ました。物語は主が十字架に架ってから3日目に復活なさり、40日に渡って使徒たちに現れたことから始まりました。そして神様の御許に帰られる際に、見送る弟子たちにおっしゃったのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」その10日後、ペンテコステの日に聖霊が降って、教会が誕生したのですが、使徒を始めとした弟子たちは、「地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」とのみ言葉に忠実に従いました。そして、そのことの証人が実は私たちなのです。地球の裏側の山形で2000年後にこの様に礼拝を献げることが出来ているからです。誕生したばかりの教会で、ペトロは声を張り上げて預言者ヨエルの言葉を語り始めたのです。
最初の説教です。『主の名を呼び求める者は皆、救われる。』 これを私たちの言葉で言えば、「主イエス・キリストを救い主と信じて従う者は、罪のない者と見なしていただけるのだ。」この様になり、正に救いの宣言です。ペトロは続けます。神様は私たちの罪を負って十字架に架ってくださった このイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。(使徒言行録2:32,33) 私たちは今、聖霊の働きによって書かれ、編纂された書物。聖書を通してペトロの証言を聞きます。説教者は聖霊の導きによって聖書の伝えるみ言葉を解き明かすのです。
そして、 人々はペトロの証言 を聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに答えました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(2:37,38)
このペトロの勧めは、まさしく現代に生きる私たちに向けてのものです。まだ洗礼に至ってらっしゃらない方、聖霊を受けることで与えられる平安と希望に満ちた人生をご一緒に歩みたいと思います。すでに洗礼を受けた方。もしも平安と希望の灯火(ともしび)に陰りがみられるとしたら、一緒に祈りたいと思います。ぜひ連絡してください。これはいつも申し上げていますが、灯火(ともしび)を輝かし続ける最良の方法、それは週ごとの礼拝を一緒に守ることです。
アルファーコースの中で、ニッキー・ガンベル牧師が話してくれました。【いろいろなことが上手く行かなくて落ち込んでいた青年が、年配のクリスチャンの家を訪ねました。老人は青年を居間の暖炉の前に招き二人は椅子に腰を下ろしました。何も言わずにいた老人はしばらくしてから立ち上がり、暖炉に近づくと真っ赤になっている炭火を火箸で拾い上げて、わきに置きました。数分経つと、さっきまで真っ赤だった炭が、どんどんその輝きを失っていったのです。しばらくして、老人はその炭を再び拾いあげ、火の中に戻してやったのです。すると輝きを失っていた炭はすぐに真っ赤に燃え始めたのです。】 
いかがでしょうか。確かに私たちの人生には厳しさが伴います。心が冷えてしまうことも起こるでしょう。そんな時、一番強く主イエス・キリストの愛を感じられるのは、主にある兄弟姉妹と共に守るこの礼拝の時ではないでしょうか? 独り反れてではありません。いっしょに主の愛を感じていっしょに心が燃えるのです。
命の危険の中で戦った宗教改革者マルティン・ルターの日記に次の言葉があるそうです。「家にいるときには熱心さも気力もない。けれど教会に行って皆が一緒に集まる礼拝に加わると、炎が私の心の内に燃え上がり、すみずみまで燃え広がるのだ」。
私は「礼拝を休んではいけません!」と律法的には言いません。「礼拝を休むと損ですよ。」この様に言います。ぜひ礼拝を中心とした生活を楽しんでいただきたいと思います。礼拝は、主にある兄弟姉妹がいっしょに、み言葉に聞き、祈り、賛美し、献げる大いなる喜びの時だからです。だからこそ大いなる喜びの時を共に出来ない方の為の祈りを忘れてはいけないのです。
大分振り返りが長くなってしまいましたが、もう少し続けましょう。前回は2章42節以下からみ言葉を聞きました。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。クリスチャンが恵みに感謝して過ごす日々です。私たちもこのようでありたいと思います。続く2章43節以下にはペンテコステの日の興奮と感激の中で始めた原始共産制と呼ばれる暮らしがあります。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。主が十字架へ架けられてから50日ほどのことです。迫害の恐れを感じつつ主にある兄弟姉妹を愛する思いから、皆が寄り添い分かち合う生活を始めたのでしょう。
しかし聖書は人間の抱える弱さを隠そうとしません。アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。ペトロに不正を指摘された夫妻は息が絶えたとあります。現代において、この様なみ言葉と祈りに導かれての共同生活を送っているのは、修道院でしょう。プロテスタントの教会員は修道院に籠って祈りの生活をするのではなく、社会にあって教会生活を守ります。その意義は、まだ主を知らない大勢の人の側(かたわら)にあって主の愛を届けることにあるのではないでしょうか。隣人を愛する行いの一つは、私たちが頂いた最高のもの、主を信じる信仰を分かち合うことです。そして何よりも私たちの生活の原点には使徒の教え、これは私たちにとっては聖書の教えですが、さらに 相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。すなわち礼拝があるのです。
使徒言行録3章では、神殿で出会った足の不自由な男にペトロは「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」この様に言って癒しを与えました。そしてこれを見た人に向かって あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。(3:15)この様に語り 自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。(3:19)と続けたのです。
4章4節。ペトロとヨハネの語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。 宗教国家イスラエルでは律法が法律でしたが律法学者や神殿の祭司たち、宗教指導者が語る言葉は、自分たちに都合の良い教えだったのに対して、ペトロやヨハネが語る主イエス・キリストの福音は、民衆を律法の縄目から解き放ち自由を与える、正に新しい福音でした。ペンテコステの日に三千人、この日に五千人です。おびただしい人がキリストの福音を信じたのです。この出来事に脅威を感じた最高法院の議員たち、これまで民衆に尊敬されて来た長老、律法の隅々まで知り尽くし裁判官の役目も担っていた律法学者、そして神殿の祭儀を取り仕切る大祭司たちは自分たちの権威がないがしろにされる危険を感じて最高法院に集まったのです。彼らは使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。のです。「ああいうことをしたのか」とは、神殿と言う神様が宿られる神聖な場所で、イエスと言う処刑された犯罪者を救い主だ、メシアだと言い放ち、さらにそのイエスが復活したのだと証言したことを指します。
さらに、9節のペトロの答えに有るように病人に対する善い行い、すなわち神殿で出会った足の不自由な男に「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」この様に言って癒しを与えたことです。彼らはペトロに、だれの名によって癒しを行ったのか? と問いただしています。ペトロはガリラヤと言う片田舎の漁師だった人間だから無学で聖書も読めるはずがない。医者でもない彼が自分の力で癒(いや)しを行うなんてあるはずがない。いったい何の権威によって、だれの名によって癒しを行ったのだ? この様に問うのです。「だれかの権威の下に行われたに違いない。」と気付いていることにとなります。
本日の説教題を「何の権威で語るのか?」としました。まず、ペトロの答えを聞きましょう10節。あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。 議員たちの問いに対して、ひるむことなく語ったペトロの答えは現代においても変わりません。教会はキリストの権威によって語り、キリストの権威によって行うのです。
最初に読んでいただいたイザヤ書9章5節6節は、主イエスが誕生される700年以上前に預言者イザヤが伝えた神様のご計画です。9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。クリスマスの出来事が預言されています。私たちを愛する故に私たちの罪を負って十字架に架ってくださった方、三日目に復活なさった方の誕生です。この方こそがこの世の全ての権威の源です。ユダヤの世界は「名は体を表す」すなわち「その者の本当の姿・ありのままの姿が名前に表れている」と理解する社会ですから、ここでその名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられると言われている言葉を解釈すると、「主イエスは、人を正しい道に導く指導者、三位一体の神です。永遠にわたしたちを愛してくださる方。その正しい指導に服する時にこの世に真の平和がもたらされます。」この様になります。
6節。ダビデの王座とその王国に権威は増し 平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。ダビデ王の末に主イエスは誕生しました。そして今日、最初に見たように復活されて40日目に昇天された際の約束に従って、50日目に聖霊を送ってくださり教会が誕生したのです。従って、ダビデ王の権威は主イエスによって教会に受け継がれていると理解できます。
しかし、私たちの世界に平和が実現しているとは言えない現実があります。それどころか「2000年の間、戦火が絶えることが無かった。」この様に言うことが出来るでしょう。人と人、国と国は本当に争うことが好きなんですね。しかし、ここで平和と訳されている旧約聖書原典の言葉シャローム(שָׁלֽוֹם)は、平和だけでなく繁栄あるいは成功、心の平安であり体の健康、友情とか好意、救済など大変広い意味を持っている言葉です。そのいくつかを私たちは現実に手にしているのではないでしょうか? そしてそれは主の熱意がこれを成し遂げてくださっていると言うことができるでしょう。独り子をも惜しまないで私たちに与えてくださると言う神様の大いなる愛。これが主の熱意です。しかし、戦争の無い状態、すべての人が平和に暮らす状態とは程遠い現実があります。神様のみ心とかけ離れた現実です。
それでは戦いの無い状態、皆が愛し合う時はいつ来るのでしょうか? 究極的には終末の時に主イエスが再び来てくださり、裁きを行ってくださることで真の平和が実現します。ただし、主はおっしゃいました。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」(マルコ福音書13:32,33)
それではキリストの愛を知る私たちは目を覚まして何をするのでしょうか? 週ごとの礼拝を覚え神様を愛する。私たちが与えられた最良のものを隣人と分かち合い、隣人を愛する。信仰は分け合うと減るのではなく増えるのです。
そして神様と隣人を愛する生活こそが自分を愛することなのです。伝道は現代において困難なことですが、イザヤ書9章6節が伝えるように、万軍の主の熱意がこれを成し遂げてくださるのです。私たちの祈りと努力を良しとして用いてくださるに違い無いのです。
使徒言行録4章7節に戻りましょう。宗教指導者たちは「お前たちは何の権威によって」と厳しく尋問します。権威と翻訳されている言葉は聖書原典ではδύναμις(デュナミス)と言うギリシャ語で、力、能力、権力あるいはそれらを持った者と言う意味です。私たちはこの権威が主イエス・キリストの権威だと知っています。預言者イザヤの告げた通りです。それでは私たちは主イエス・キリストの「権威」をどの様に受け止めているのでしょうか?
現代において、権威に強い、あるいは弱い、権威主義とか権威筋などとも言われます。辞書によれば、「権威とは、他者を服従させる威力、ある分野で知識・技術が優れていると信頼されていること、またそのような人。」とありますが、もう一つの辞書には「ひとに自発的に服従を促すような能力や関係のこと」この様にありました。私たちが主イエスに見る「権威」はこちらの方がピッタリする様です。
主イエス・キリストに自然に心が向き、自然に服従してしまう。これほど幸せな人生は他には無いでしょう。主の愛の中をひたすらに生きる人生です。そして実はこれこそが主イエス・キリストが私たちに与えてくださる「救い」そのものなのです。主のご命令は幸せの法則でもあります。「神様と自分と隣人を愛して」の人生です。
しかし、そこから離れてしまうこと、悪魔の誘惑に負けてしまうことが「罪」の本質でした。悪魔をも服従させる「主の権威」は私たちに「自発的に服従を促す権威」です。私たちを「罪」から立ち直らせてくださる力に満ちた「権威」なのです。
4章12節でペトロは言います。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。 ご一緒に主を礼拝し、お互いに祈り合う。主の愛の中にある幸せな人生をご一緒に歩んで参りましょう。この後守ります主の聖餐は正にその幸せを目に見える形で示してくれます。まだ聖餐に与ることの出来ない方も共に主の愛の中を共に歩む仲間に加わっていただきたいと思います。祈りましょう。