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山形六日町教会

2024年1月21日

聖書:イザヤ書52章13~15節 ローマの信徒への手紙15章14~21節
「神のために働く誇り」波多野保夫牧師

先週の週報では、本日の聖書箇所を「ローマの信徒への手紙」15章33節までとご案内したのですが、説教準備を進める段階で22節以下のみ言葉は回をあらためて聞きたいと思いました。「波多野先生!」「久々の登場ですね。なんでしょう?」「ローマの信徒への手紙ってパウロが書いたんでしょう。だからパウロの言葉であって「み言葉」って呼ぶのはチョットどうなんですか?」「確かに、主イエスがなさったことを「み業」と言いますし、教えられたことを「み言葉」って言うけど、パウロのやったことや話したことは、そう呼ばないですね。」「これは、テモテへの第二の手紙3章16節に 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。 この様にあるからです。聖書は聖霊の働きを受けて人が書いたのです。」「でも、波多野先生。テモテへの手紙が書かれたのは西暦100年ころと言う説が有力だから、このころに「聖書」と言えば私たちの言う旧約聖書のことじゃないですか?」「よく勉強してますね。歴史の流れに沿って理解すると、確かにその通りです。しかし、私たちの大切にしている日本基督教団信仰告白は最初に言っています。“我らは信じかつ告白す。旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠よるべき唯一の正典なり”。これは教会の2000年の歴史の中にある様々な教会会議や信仰告白を踏まえて、1954年の教団総会で採択された信仰告白です。「ローマの信徒への手紙」も聖霊の導きによって書かれたのです。」「じゃあ、パウロが書いた手紙も聖書にあると言うことで「み言葉」と呼んで良いんですね?」「そうです。安心してください。今日も一緒にみ言葉を聞いて行きましょう。」
実はパウロは15章13節までで、ローマの教会に集う人たちに主の福音を正しく理解してもらうために必要なことを語りつくしたようです。16章には「個人的な挨拶」と「神への賛美」言う小見出しがあり、先立つ15章14節から21節は「宣教者パウロの使命」となっています。ここでパウロは、まだ会ったことの無いローマ教会に宛てて手紙を書かざるを得なかった深い思いを語るので、14節から21節には注意して聞きたい言葉、キーワードがちりばめられています。
14節。兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。ローマ教会の中に対立があったことを思い起してください。14章1節には信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。とありました。主イエスが既に律法を完成してくださったのですから、律法の食物規定に縛られて野菜だけしか食べない人は、何でも食べてもかまわないと理解している人たちから見れば、信仰の弱い人と呼ぶにふさわしいと言う訳です。
15章1節には、私たち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。この様にありました。ここでは律法に定められている割礼の有無が問題にされています。旧約聖書の時代に神様に選ばれた民族だと言う誇りに生きていたユダヤ人クリスチャンと、かつては他の神々を信じて礼拝していた異邦人クリスチャンの間に対立があったのです。それは主の福音の理解に関しての対立でした。いつの時代に有っても教会内部や教団内部の対立は根深いものがあります。聖書のみ言葉と言う鋭い刃物を振り回して、お互いに戦うからです。
パウロは続けました。忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。(15:5,6) この種の争いはお互いが主のもとに立ち返る以外に解決方法はないのです。
これらの対立を踏まえて、今日与えられた15章14節のパウロの言葉があるのです。兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。
最初のキーワードは「知識」です。旧約聖書箴言は 聡明な心は知識を求め 愚か者の口は無知を友とする。(15:14)と言いますが、続くコヘレトの言葉には 熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。知恵が深まれば悩みも深まり 知識が増せば痛みも増す。(1:17,18)この様にあります。確かに自分の博識を誇り、人の無知を馬鹿にするようならば嫌われ者になるでしょう。
新約聖書にあるパウロが若き伝道者に送った手紙です。テモテ、あなたにゆだねられているものを守り、俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論とを避けなさい。 その知識を鼻にかけ、信仰の道を踏み外してしまった者もいます。恵みがあなたがたと共にあるように。(テモテへの手紙Ⅰ6:20,21)「知識」自体に、あるいは「知識」の用い方に2種類あるようです。口語訳聖書でお読みします。神の御旨を深く知り、主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである。(コロサイ人への手紙1:9b,10:口語訳)
このみ言葉を下敷きにして「ローマの信徒への手紙」15章14節を読んで見ましょう。「主の福音の理解でいがみ合っているローマ教会の兄弟たち、あなた方は主イエス・キリストが十字架で示してくださった大いなる愛を知っているではないか。それこそが私たちに与えられている最高の「知識」なんだ。
だったら、あなた方はお互いにいがみ合うのではなく、相手の言葉に耳を傾けて主のご命令「神様と、自分と、隣人を愛しなさい」このご命令から離れてしまっていることを、互いに戒め合うことが出来るはずじゃないか。」この様にパウロは言うのです。私たちにとって何よりも大切な知識は「主の愛を知る知識」です。
次のキーワードは「確信しています」です。皆さんは何を確信しているのでしょうか? 「確信」とは「固く信じて疑わないこと」ですから、変な確信を持ってしまうとやっかいです。振込め詐欺など、あれだけ警察が注意しろと言っていても「息子の危機を何とかしてあげなければ」といって振込んでしまう訳です。私たちの持つべき確信は「固く信じて疑う」必要のない「確信」です。
パウロの言葉です。 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(ローマの信徒への手紙8:38,39) 私たちの「確信」はかなり怪しい所がありますが、この「確信」は絶対大丈夫です。なぜだか分かりますか? 何よりもまず、主イエス・キリストがわたしたちを愛してくださった。そして今日も愛してくださっているからです。悪魔に負けることなんてないんです。
15節。記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。3番目は「記憶を新たに」です。私たちの記憶は脳の働きなのですが、神様が創造された仕組みの一つです。私は最近記憶力の低下を強く感じています。何を取りにここに来たのだろうなんてことはしょっちゅうで、特に思い出せないのが名前です。失礼があった場合はお許し願いたいと思います。そんな私ですが、過去に辛かったことや恨んだことは結構覚えているのです。イエス様は「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」とおっしゃるのですが、なかなかそうは行きません。その一方で、今こうしていられる様になるまでには、神様の愛に満ちた恵みと導きがあったに違い無いのですが、覚えていないことが多いのです。記憶を保つための最良の方法は「思い起すこと」だそうです。イスラエルの人たちは何千年もの間、出エジプトの出来事を忘れませんでした。神殿の祭儀と旧約聖書の言葉によって思い起し、記憶を書き換えるのです。私たちが自分に与えられた、そして与えてくださっている神様の愛を忘れない最良の方法、「記憶を新たにする方法」。それは、週ごとの礼拝に集うことです。七日に一度、記憶を書き換えるのです。さらに日々聖書に接して祈る。いつも神様の愛を感じながら過ごす幸せな人生がそこにあります。
次のキーワードは「思い切って」です。パウロは勇気を出して、どうしても言わなければならないことを書いたと言います。ローマの教会には奴隷もいれば、家の教会として人が集まる場所を提供できる人もいました。ユダヤ人もいればギリシャ人もいました。律法の定める食物規定に縛られている人、気にしない人。そんな人たちが対立していたローマ教会のクリスチャンに向かって、「思い切って」真理を語ったのです。ある先輩牧師は「説教と言うのはまったくお節介な言葉だ」と言うのです。「自分はそこそこ幸せだし、善人ではないかも知れないけど罪人だとは思っていない。そんな人に向かって、「あなたは罪びとだ、幸せになるために反省してイエスを信じて従いなさい!」こんなことを毎週語り続けるのが説教なのだから。」 この先輩牧師の苦労がにじみ出た言葉だと思って聞きました。自分の確信している主の愛、十字架の出来事で示された主の愛を勇気をもって「思い切って」語り続ける。しかし、日本の多くの教会で礼拝出席者が減少している現実を突きつけられた時、確かにこの牧師の言葉に感じるところがあるのです。
そんな時に勇気を与えてくれるものの一つは、説教の後で声を合わせて賛美する元気な歌声です。この後賛美します513番は、[主は命を 惜しまず捨て その身を裂き 血を流した。 この犠牲こそが 人を生かす。 その主に私は どう応えよう。] この様に賛美します。ご一緒に主の愛に応えて行こうとの賛美は、語る者に勇気を与えてくれるのです。
異邦人に福音を伝える役目を与えられたパウロは言います。17節です。そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。5番目のキーワードは「誇り」です。最初のキーワード「知識」のところで 言いました。「確かに自分の博識を誇り、人の無知を馬鹿にするようならば嫌われ者になるでしょう。」ですから「誇る」こと自体にはプラス・マイナスがあり、どの様な態度で「誇る」のか。何を「誇る」のかが問われます。 それでは、何を「誇る」のでしょうか? 3番目のキーワードは「記憶を新たに」でした。パウロはコリント教会のクリスチャンに向かって、そして私たちに向かってハッキリいいます。あなた方がクリスチャンになった時のことを思い起してみなさい。多くは力の弱い者だったじゃないか。それは人間的に見て知恵のある者や、能力のある者や、家柄のよい者がだれ一人、神様の前で誇ることがないようにするためだったのだ。だから「誇る者は主を誇りなさい。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ1:24-29)
17節で、あなた方は神様の為に働くことを誇りとしなさい。神様に使っていただくことを誇りとしなさい。この様にパウロは言います。教会で何か仕事や役目を頼まれた時に、「私にはとても出来ません。他にもっと上手な人がいます。」この様に言ってしまうことが有るのではないでしょうか。上手くいかないと恥ずかしい、上手くいかないと変な風に思われる。すぐ引き受けると出しゃばりだと思われないか。他人の目から自分がどの様に見えるかを気にして、腰が引けたり、卑屈になったりするのでしょう。神様は出エジプトのリーダー・モーセの後を継ぐようにヨシュアを召しておっしゃいました。「強く、また雄々しくあれ。わたしはいつもあなたと共にいる。」(申命記31:23)  勇気を与えてくれるこの神様の言葉を思い起す、すなわち「記憶を新たにする」時に17節のパウロの言葉。わたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。この言葉が私たちの心の中で生き生きとして来るのではないでしょうか。「神様に感謝して大胆に挑戦して大胆に失敗する。」素敵じゃないですか。成功すればさらにステキです。祈りをもってチャレンジすれば、神様は捨てて置かれないでしょう。逆に神様の前で、あるいは日々の生活の中で謙遜さを失いそうになっている自分に気づいた時にはパウロが言う様に「誇る者は主を誇る」のです。
実はこれは旧約聖書にある言葉です。エレミヤ書9章22,23節。 主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい 目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事 その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。 この聖書の言葉を下敷きにしてパウロは「誇るものは主を誇れ」といいます。私たちはこの言葉を心に覚えて、神様と人の前で謙遜な者でありたいと思います。ここまで五つのキーワード「知識」と「確信しています」 「記憶を新たに」 「思い切って」そして「誇り」でした。私たちの中心にいらっしゃる 主イエス・キリストと私たちはどの様な関係を築いていくのでしょうか。その大切なことにかかわる五つのキーワードです。
さて、最初に読んでいただいた旧約聖書は主イエスが誕生なさる500年ほど前に預言者イザヤが伝えた神様のみ言葉です。見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。 古くからここに主イエス・キリストの3つの姿が表わされているのだと言われています。復活の主、神様の御許へと昇って行かれた主、そして神の右に座していらっしゃる主です。
かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように。かつてモーセに導かれてエジプトでの奴隷の生活から解放された人々は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響くシナイ山にやって来ました。神様はそこで人々が幸せに暮らすための戒め、十戒を与えられるのですが、モーセは民衆に告げました。 「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである。」 それから千年以上が経ち、主イエスの十字架の姿を見上げた民衆は目にしました。 彼の姿は損なわれ、人とは見えず もはや人の子の面影はない。15 それほどに、彼は多くの民を驚かせる。みなさんは今この空(から)の十字架を見て礼拝を献げてらっしゃいます。私はこの空(から)の十字架を背にして、み言葉の解き明かしを語っています。
主を知る「知識」のすばらしさ。主の愛を「確信」できる。私に与えてくださった数々の恵みの「記憶を新たにする」。「思い切って」主に仕えていく喜び。そして私の罪の為に十字架に架ってくださった主。「誇る者はその主を誇れ!」です。本日の説教題を「神の為に働く誇り」としました。これらすべての思いが詰まった週ごとの礼拝の時から始め、主に仕え主の為に働く、喜びの人生を共に歩みたいと思います。この後、主に感謝して、讃美歌513番を賛美しましょう。 祈ります