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山形六日町教会

2024年1月14日

聖書:申命記15章7~8節 使徒言行録2章43~47節
「私たちが共有するもの」波多野保夫牧師

説教シリーズ「使徒のはたらき」の2回目です。第1回では使徒言行録8章から、エルサレム教会に大迫害が起こった結果、多くの信者がユダヤとサマリア地方に散って行った様子を見ました。散らされて行った人たちはそれぞれの地で福音を宣べ伝えながら巡り歩きました。大迫害と言うマイナスを神様は伝道の機会として用いてくださったのです。今、この日本で、そして世界で起こっている様々なマイナスの出来事を、主が用いてくださる様に祈りたいと思います。
さて本日は使徒言行録の1章から始めて、初代教会の様子を見て行きたいと思います。
物語は主が十字架に架り3日目に復活なさり、そして40日に渡って使徒たちに現れたことから始まります。1章8節。イエスは言われた。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終えると主は天に帰って行かれました。この後、主を裏切ったイスカリオテのユダの代わりに、マティアを選びました。その選び方は、二人の候補者を立て、相応しい者が与えられるように祈り、くじを引いたのです。私たちは教会総会で長老選挙を行いますが、同数だった場合、祈ってくじを引きます。この出来事に倣(なら)ってのことです。
2章に進むと、主が復活されてから50日目に聖霊が降りました。五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(2:1-4) 各地からエルサレムに集まっていた主に従うユダヤ人たちは、福音が語られるのを自分の出身地の言葉で聞いたのです。当時ユダヤ人は地中海沿岸地方だけでなくエジプトにも住んでいましたし、バビロン捕囚から解放された後もペルシャに住み続けた人達もいました。 彼らはそれぞれの地域の言葉とヘブライ語を理解し独りの神を礼拝しました。律法は他の民族との結婚を禁じていましたから一つの民族です。お互に強く信頼し合うことで、交易代金の決済に欠かせない金融業を独占できたのだと言われています。ユダヤ人は今でも世界の金融界をも支配しているそうです。主イエスは「地の果てに至るまで福音を宣べ伝える様に」とおっしゃったのですが、この日エルサレムで主の福音を聞いた人たちは、国に帰りその土地の言葉で福音を語り伝えたことでしょう。「主の山に備えあり」でしょう。
私たちは今、福音の出来事、すなわち主イエスが人として来て下さったこと。私たちの罪を負って十字架に架って下さったこと。復活されたこと。主に従う者に永遠の命を与えてくださること。この福音を日本語の聖書によって知ることが出来ます。聖書の解き明かしを日本語の説教で聞くことが出来ます。「地の果てに至るまで福音を宣べ伝える」準備が整えられているのです。山形六日町教会に集う私たちは、この年もまた主のご命令に忠実な者でありたい思います。
さて、ペトロは声を張り上げて 『主の名を呼び求める者は皆、救われる。』と言う預言者ヨエルの言葉から語り始めます。神様は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、主イエスをあなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたユダヤ人は律法を知らない者たちの手、すなわちローマ人の手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。 ペトロの説教です。
私たちは主を十字架に付ける「罪」を犯したユダヤ人ではないのですが、主のご命令「神様と自分と隣人を愛しなさい」このご命令に逆らうこと。すなわち「罪」と無縁ではありません。しかし、主が十字架に架って神様の罰を引き受けてくださったことで、私たちの犯す「罪」は既に清算されているのです。主イエスに従うことで「罪」の無い者と見なしていただけるのです。
ここには私たちの常識を超えてたことが2つあります。
一つは、「罪」を犯したことの無い方が私の「罪」を負ってくださったことです。パウロは言うのです。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(ローマの信徒への手紙5:7,8) この神様の大きな愛で私たちは包まれているのです。
もう一つは、私たちが罪を犯す2000年も前に、既に私たちの「罪」の清算がされてしまっていることですが、すべてを創られた神様は時間をも創られた方なのです。「罪」を犯す前に清算されている事は問題ではなく、主を信じて従えば良いだけなのです。
ペトロは続けて言います。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。(使徒言行録2:32,33)これこそが聖霊を受けた教会の誕生です。そして、 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(2:37,38)

いかがでしょうか? ペトロは「わたしたちはどうしたらよいのですか」と問う人たちに答えて言うのです。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」 私たちも聖霊を受けることで与えられる平安と希望に満ちた人生をご一緒に歩みたいと思います。神様は私たちを愛したくてしょうがない方なのです。
続く2章42節は2000年間変わることの無い教会員の姿です。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。「使徒の教え」は聖書が語る主のみ言葉ですが、後ほどご一緒に唱えます「使徒信条」にハッキリと表されています。「相互の交わり」は主イエス・キリストが中心にいてくださる愛に満ちた交わりです。「パンを裂き」は聖餐式、私たちの罪を負って十字架に架ってくださった方の愛を思い起すのです。「祈ることに熱心であった。」これは私たちの日々の姿であり、礼拝の姿です。
さて、司式の長老に読んでいただいた43節以下です。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。とあります。現在、被災地ではこれに近い形でお互いに助け合い厳しい環境に耐えてらっしゃることが報道されており、祈りの内に覚えたいと思います。しかし、ほとんどのプロテスタント教会で、この様な姿は無いでしょう。 
教会の歴史の中で13世紀の初めのころの教会は、広大な領地を持つなどして堕落していたのですが、これを正そうとする修道会が立てられました。「フランシスコ会」や「ドミニコ会」はローマ教皇に忠誠を尽くし、清く貧しい生活を旨として、修道士に一切の持ち物の放棄を求めました。日々の食物は托鉢によって得たのです。物質的な欲望を断ち切ることで、心を神にだけ向けようとしたのです。使徒言行録2章43節以下に近い生活です。
一方、16世紀初頭に「免罪符の販売」などで堕落していたローマ・カトリック教会に対抗した宗教改革者マルティン・ルターは、修道院生活ではなく、個々の信者が職業や家庭生活の中で信仰を実践し、神の栄光を表すことが大切だと考え、世俗の生活の中に有って神の栄光を表すように求めたのです。(『キリスト者の自由』(1520年)) ジャン・カルヴァンは、「真の信仰は良い働きを生むものでなければならない」(『キリスト教の懸念』)とし、職業や仕事を通じて神に仕えること、すなわち日常の生活の中で誠実に働くことが信仰生活に欠かせないとしたのです。 余談になりますが、20世紀の初めにマックス・ウェーバーと言う経済学者は指摘しました。「カルヴァンの考えに従って、自分の仕事に責任感を持って勤勉に働き、無駄遣いをしない生活は富の蓄積に繋がった。そしてその富は投資に用いられ資本主義が形づくられて行ったのだ。」としたのです。(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)なるほどと思わせる説明ですが、現代の資本主義は「神様の栄光を人の世界に表すために誠実に働きなさい」と言う基本が軽んじられ、利益の追求にばかり目が行っている様に感じられます。私たちの働き、これは社会や家庭ばかりでなく教会にあっても、祈りを忘れてはならないと思うのです。
いずれにせよ、プロテスタント教会の歩みは初代教会とは異なっている様です。初代教会は、神を愛し隣人を愛するために財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。のですが全く異なった目的の為に同じような行動を求めた団体があります。
かつて世間を騒がせたオウム真理教は教団内での生活を重視し、信徒に家族や友人との関係を断ち切ることと全財産を教団に献げることを求めました。彼らが犯した犯罪と悲惨な結果を忘れることは出来ません。また統一教会の問題は現在進行形として被害者を苦しめています。この様な団体は使徒言行録2章46節47節にある初代教会の姿とは別物です。毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。
それでは初代教会はその後どの様に歩んで行ったのでしょうか? 使徒言行録を追って行きましょう。3章で、ペトロは神殿で出会った生まれつき足の不自由な男を主の名によって癒し、さらに大勢の人に向かって主イエスの出来事を説教しました。神殿は、主を十字架に架けたユダヤ人たちが集うところです。逮捕されたペトロとヨハネは、「今後イエスの名で話したり教えたりしない様に」と言い渡されて釈放されたのですが、彼らがそれを止めるはずはありません。
4章32節以下には次の様にあります。 信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。ペンテコステの日以来の麗しい共同生活が続いていたのですが、続く5章で悲劇が起こります。アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。ペトロに不正を指摘された夫妻は息が絶えたとあります。ペンテコステの日に聖霊が降りペトロが語る福音の説教を聞き、高揚感の中で始まった原始共産制と呼ばれすべてを共有して来た初代教会の中に、悪魔が忍び込んで来たのです。自分だけが良くなりたいと言う思い、「その位ならわからないよ!」と言う悪魔のささやきに対して、人はアダムと同じ弱さを抱えているのです。主は「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』『隣人を自分のように愛しなさい。』」とおっしゃいました。(マタイ福音書22:37-40)これに反することが「罪」だと申し上げています。アナニアとサフィラが執着した「富」について主イエスがどの様におっしゃっていたか聞いてみましょう。 
徴税人の頭で金持ちのザアカイが「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。」と言った時に「今日、救いがこの家を訪れた。」とおっしゃいました。(ルカ福音書19:8) 財産の半分と言っても相当の金額なのでしょうが全額ではありません。山上の説教の中で「思い悩むな、神の国を求めなさい」とおっしゃった主は「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさないあなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」(ルカ福音書12:33,34) この様に語られました。
これら二つのことから、「この世の富に心を支配されてないけない。しかし、私はあなた方の抱える弱さを知っている。だから、あなたの隣人を愛する心、愛する行いはたとえ不完全でも私は喜んで受け入れる。」この様におっしゃってくださっているのではないでしょうか。この原始共産制の生活がその後どの様になって行ったのか、聖書はハッキリと語っていません。しかし西暦36年ころに回心してキリストに従う者となったパウロに関連していくらかは知ることが出来ます。
フィリピの町でのことです。ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待た。(使徒言行録16:14,15)エフェソ教会の長老たちに別れを告げる際に「私は公衆の面前でも、あなた方の家でも福音を伝えて来ました。」この様に語っています。リディアも長老たちも自分の家に住んでいました。パウロが「ローマの信徒への手紙」を書き送ったローマの教会は「家の教会」と呼ばれ、信徒の家で礼拝を守っていたのです。持ち物を売り払ったのではなく、「持ち物」すなわち神様が与えてくださったものを大切に用いる様になっていたのです。
聖書には、ルツの母ナオミであり、レプトン銅貨2枚を献金したり、裁判官にしつこく裁きを願ったりした大勢の寡婦(やもめ)が登場します。ユダヤでは相続は男性だけにしか許されなかったので子供がいない寡婦(やもめ)は生活の糧を得る術がありませんでした。クリスチャンの愛の業が不可欠でした。
一方、現在の日本では行政が健康で文化的な生活を保障することになっています。社会全体の進歩として良いでしょう。しかし、様々な面でクリスチャンのさらなる働きが必要とされている私たちの社会です。
最後にマタイによる福音書25章31節から46節までをお読みします。聞いてください。25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、33 羊を右に、山羊を左に置く。34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」主イエス・キリストがわたしたちを愛してくださっている様に、私たちも隣人を愛する者でありたいと思います。 祈ります。