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山形六日町教会

2024年1月7日

聖書:イザヤ書11章1~5節 ローマの信徒への手紙15章1~13節
「希望の源である神」波多野保夫牧師

大変なスタートとなった2024年です。大きな苦しみ・悲しみの中にある方々の上に主の豊かな慰めと癒しが与えられます様に、人の手による支援が速やかに届きます様にお祈りします。 被災地にある教会が主の日の礼拝を守るために篤くしている祈りを聞き届けてください。私たちはこの様に共に集い主のみ言葉を聞き祈り賛美し献げる礼拝を変わることなく続ける事が許されていることを、あらためて感謝いたします。そして、変わることの無い主の愛を見失うことなく歩む2024年でありたいと思います。山形六日町教会に集う一人一人の上に、共に集うことに困難さを覚える者の上に、聖霊が恵みと導きと喜びを与えてください。
さて、今日は12月31日の礼拝でお話しした公現日、東の国からやって来た博士たちが主イエスを訪れた記念日にあたります。博士たちは私たちと同じ異邦人、即ちユダヤ人ではなかったのですが、神様から選ばれた選民としての誇りに生きていた多くのユダヤ人に先だって、主イエスを礼拝したのです。この顕現日までを降誕節としてみ子の誕生を感謝して過ごします。少し大げさな言い方をすれば、「この日を境として私たち異邦人にも主イエス・キリストを信じ従うことで神様の愛が直接届く様になった」この様に言うことが出来ます。先ほど賛美した讃美歌367番は「偉大なみ神の み手に支えられ、この年 始めよう、暮れゆく時まで。」と歌いました。私たちも、諸先輩がたと同じ様に、この思いをもって新しい年を歩み始めたいと思います。
さて、本日与えられたローマの信徒への手紙15章1節から13節ですが、前半の6節までのみ言葉は11月19日の礼拝でご一緒に聞きました。待降節とクリスマスをはさみ2か月ほどの時が経ってしまいましたので、あらためて読んでいただきました。復習から始めましょう。 15:1 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。2 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。 私は皆さんに「あなたは強いですか?」とお尋ねしたのですが、私の答えは「強い時もあれば、弱い時もある」でした。続いて、アメリカの作家、レイモンド・チャンドラーの言葉「強くなければ生きられない。優しくなれなければ生きている価値がない。」を紹介し、「なかなかの名言だと思うのですが、クリスチャンにとって「強い」とは、権力や財力、あるいは強靭な肉体を意味するのではありませんし、学校の成績でもありません。もちろんそれらがあって悪いわけではありませんが、私たちをおごり高ぶらせる危険が常にあります。」この様に語りました。確かに複雑化した現代においてある種の強さが望まれます。
主は出エジプトのリーダー、ヨシュアにおっしゃいました。わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。(ヨシュア1:9)詩人は歌います。主を待ち望め 雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。(詩篇27:14)
パウロは主のみ心を伝えます。 主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。(エフェソ6:10)私たちクリスチャンの本当の強さ、それは共にいてくださる主に感謝し、主に委ね、主に依り頼むことにあります。その為にはみ言葉に聞き、祈ることが不可欠です。さらに賛美を共にし、献げていく。これは正にこの礼拝の時ですね。
チョット不謹慎かもしれませんが、仕事や勉強や家事等々、この世のことで鈍くなって切れ味が鈍くなった包丁を持って来て、礼拝の中で研ぎ直していただくみたいに感じます。もちろん日々聖書のみ言葉に接し祈りの時を持つことは大きな喜びです。
本日与えられた旧約聖書イザヤ書11章1節以下には「平和の王」と小見出しが付けられています。主イエスの誕生なさる800年近く前にダビデ王の父エッサイの家系に聖霊に満たされた方が生まれると神様のご計画を語ります。3節4節。目に見えるところによって裁きを行わず 耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。 主イエスは私たちの心の底までお見通しです。見た目を飾っても意味ありません。口の鞭をもって とあります。語られたみ言葉が真理なるが故に、私たちの歪んだ心を鞭打つことで正してくださる。逆らう者 とは「神様と自分と隣人を愛」さない者、罪に負けてしまっている者で、それは魂の死です。
「あなたは強いですか?」との問いに「強い時もあれば、弱い時もある」と答えましたが、「罪」の誘惑に負けてしまう時が弱い時です。それでは強い時はどんな時なのでしょうか? それは5節。 正義をその腰の帯とし 真実をその身に帯びる。方、主イエス・キリストに従う時、共に主がいてくださることを強く感じ感謝している時です。少なくともこの礼拝の時に私たちは強いのです。
先ほど、「切れ味が鈍くなった包丁を研ぎ直していただく」と申しましたが、、鋭くなった包丁を人を裁くために用いてはいけません。多くの方に美味しい料理を振舞うために用いるのです。聖書はパウロの勧めを伝えます。 6:12わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 確かに私たちを「神様と自分と隣人を愛す」ことから離そうとする悪魔の力は強力です。パウロは続けます。 13 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。14 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、15 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。16 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。17 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。18 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。(エフェソの信徒への手紙6:12-18)
2023年が2024年に移り変わっても、絶えず目を覚まして根気よく祈り続ける私たちでありましょう。ローマの信徒への手紙15章に戻ります。5節6節は昨年、説教の最後にお読みした祈りです。忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。パウロが「同じ思いで声を合わせて」とこの様に祈る背景には実はローマの教会に深刻な分裂があったからです。そしてそれはユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間にある福音理解の違いでした。
7節。だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。 残念なことに私たちの世界であり、私たちの周りには分裂や争いは耐えません。主イエス・キリストの時代は、初代ローマ皇帝アウグストゥスから200年間平和が続いた「ローマの平和」と呼ばれる時代でした。しかし、この平和はローマ帝国に反乱を起こさせない平和であり、征服した国で人口調査を行って、安定して税金を取り立てた上での平和でした。
現代においても、職場で、学校で、地域で、家庭で、あるいは教会で原因は様々でしょうが争いが起きます。お互いに軽んじ合い、非難し合い、裁き合うことが起こりますが、解決に至る道は多くは無いでしょう。お互いに至らなさを認め合い、互いに相手を受け入れる以外に真の解決はありません。裁判所の調停では遺恨を残さないことは難しいのです。そして、そのことを一番よく知っているのが、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったことを知るクリスチャンです。そして、そのことを目に見える形で示してくれるのが、後程行われる聖餐式です。聖餐式では「これは私の体であり、これは私の血による新しい契約です。私の記念として行いなさい。」とのみ言葉に従ってパンと杯を分かちます。聖霊の働きによって主の十字架の出来事、私たちの罪の為に犠牲となってくださった出来事を、目に見、口で味わうことで十字架の出来事を思い起すのです。その時、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださった ことを感じざるを得ません。聖霊が導いてくださるからです。あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。
主イエスは、隣人を愛しなさい。敵を愛しなさいとおっしゃいました。さらに 敵を愛し憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り侮辱する者のために祈りなさい。(ルカ福音書6:27-36)とおっしゃいました。 礼拝に集うこと、信仰を与えられて主の聖餐に与ることによって、 神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださった ことを深く理解し、感謝して 互いに相手を受け入れ ることが出来るのではないでしょうか。逆に言えばこれなしにはなかなか難しいことなのではないでしょうか。
15章8節から10節の割礼に関しての問題は、主イエス・キリストを救い主と信じる者たちが次第に増え、ユダヤ教の小さな一派と考えられていた時代からキリスト教会へと発展していくに際して大問題となっていたのです。 異教からクリスチャンになった人に、律法が定める割礼を求めるか否かです。この2024年を迎えた私たち異邦人、すなわちユダヤ人以外の者も、主の大いなる恵みの許に招かれていますが、割礼は必要ありません。使徒言行録15章が伝えます「エルサレムの使徒会議」すでに決着が付いていました。使徒会議の様子を伝えます使徒言行録15章5節以下をお読みします。聞いてください。ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。ペトロが立って彼らに言った。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」
2024年を生きる異邦人の私たちは主イエスの一方的な恵みによって救われます。それでは、現代に生きる私たちに割礼であり、そのもととなった律法はもう古臭いだけで、どうでも良いものなのでしょうか? 聖書の言葉を2つお読みしましょう。
割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。(コリントの信徒への手紙Ⅰ7:19) 律法を完成してくださった主イエス・キリストの御命令「神様と、自分と隣人を愛しなさい」私たちは、このご命令を守るのです。
かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。(使徒言行録7:51) 心と耳に割礼を受けるとは、み言葉に聞き従い頑なな心を砕いて、主イエスをお招きして歩む人生です。旧約聖書の世界においては、割礼が主に従う者の目に見えるしるしでした。主イエス・キリストに従う者のしるし、それは洗礼です。 主に導かれ、主に従う幸せな人生をご一緒に歩みたいと思います。
さて、現代にあって日本の教会が抱える最大の問題は、会員の減少であり礼拝出席者の減少でしょう。さらにそこから派生する様々な問題があります。これが現実です。私たちはまだ主を知らない方、かつて礼拝を共にした者の足が向かない方を覚えて、15章6節でパウロが祈ったように祈ります。 キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。 私たちはこの様に祈り様々に行います。愛をもって接します。しかし、多くの教会において問題は深刻さを増しています。山形六日町教会も例外ではありません。砂漠の中で食糧不足が深刻な時に 主はモーセに言われた。「主の手が短いというのか。わたしの言葉どおりになるかならないか、今、あなたに見せよう。」(民数記11:23) この後、ウズラの大群が与えられたのです。教会の現状を神様に生にすることは出来ません。
この2024年の初めにあって私たちのなすべきこと、それは主を信頼して私たちのなすべきことをなして行くことではないでしょうか。 パウロは言います。人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。(Ⅰコリント4:1,2) 神様の計画をゆだねられた管理者とは山形六日町教会であり、集う私たちです。更に語ります。こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。(Ⅱコリント4:1)辞書によれば「ゆだねる」とは「すっかり任せる」と言う意味です。聖書は、今読んだ神様が私たちに委ねていらっしゃることを告げるだけではありません。私たちが神様に委ねなさいとも語るのです。
詩編37編 主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。主に自らをゆだねよ 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にまかせよ。(37:3-5) 
詩篇55編 あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え とこしえに動揺しないように計らってくださる。(55:23)
箴言16章 人間の道は自分の目に清く見えるが 主はその精神を調べられる。あなたの業を主にゆだねれば 計らうことは固く立つ。(16:2,3)
年の初めにあって、私たちの抱える課題、会員の減少であり礼拝出席者の減少に目を背けることは出来ません。その上で様々な聖書の言葉を読んできました。
 ・主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
・絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。
・神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。
・敵を愛し憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り侮辱する者のために祈りなさい。
最後になりますが私たちが忘れてはならないことがあります。十字架に架ってまでわたしたちを愛してくださった主イエス・キリストが変わることなくわたしたちを愛してくださっていることです。そのことを覚える時、パウロの祈りは私たちの祈りとなるのです。15章13節。希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。祈りましょう。