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山形六日町教会

2023年12月31日

聖書:申命記28章64~67節 ルカによる福音書2章1~7節
「心に主をお迎えするスペースを」波多野保夫牧師

2023年最後の日に、この様に皆さんと一緒に教会に集って礼拝を捧げられますことを神様に感謝します。そして、今日家に帰られましたら、この2023年にご自分に起こったこと、起こっていることを思い起していただきたいと思います。それは楽しいこと嬉しいことだけではないでしょう。しかし、それぞれの中に神様の恵みと導きを見ることが出来るはずです。なぜなら主は私たちの友となってくださり、主の大いなる愛は変わることが無いからです。それは死の向こう側にまで続く愛だからです。
旧約聖書詩篇23編が思い起されます。晩年のダビデ王が息子の反乱によって窮地に陥った際に、神様の大いなる愛に目覚めて読んだ詩だと言われています。(Ⅱサムエル17:24-29)
お聞きください。23:1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。2 主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。4 死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。5 わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。6 命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。

さて、先ほど柿崎長老にルカによる福音書2章1節以下を読んでいただいたのですが、「クリスマス礼拝は先週だったのにチョット変だな」と思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか? 確かにこの聖書箇所は24日の夕方に持たれたキャンドルサービスでも読んでいただきました。 しかし、先週の説教原稿と間違えてここに持ってきてしまったわけではありません。実は2章7節。初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。今日はこの聖書の言葉に注目したいのですが、何でしばしばクリスマスに読まれるこの聖書箇所なのか、言い訳を二つさせてください。
一つは、私が子供の頃にCSの先生から聞いた「私たちが心を開いてイエス様をお迎えするのならば、毎日がクリスマスです。」と言う言葉を待降節第二週に紹介しました。この意味では今日12月31日も明日1月1日もクリスマスです。
もう一つは、カトリック教会や聖公会あるいはルーテル教会で大切に覚えられている公現日あるいは顕現日と呼ばれる祝日です。もともとはクリスマスの12日後の1月6日に祝われたのですが、最近ではまじかの日曜日に祝う国も多いそうです。これは来週の日曜日となるので、今日はその中間です。 何を祝う日かと言うと、星に導かれて東の国からやって来た学者たちが主イエスに黄金、乳香、没薬を献げて礼拝した日を祝います。(マタイ2:1-12)そしてこの公現日までを降誕節、即ちイエス様の誕生を感謝し祝う日々とするのです。
山形では花笠の最後に清掃部隊がついて行って、祭が終わった時には道路の清掃も終わってもとに戻っていることに驚かされるのですが、今年は、クリスマスの飾りを来週礼拝後の愛餐会を終えてから、片付ける予定になっています。新年を主イエス・キリストをお迎えした喜びを味わいながら迎えるのもよろしいのではないでしょうか。

さて、2つの疑問が湧きます。なぜ学者たちが訪れて礼拝した日を公現日、あるいは顕現日と呼ぶのでしょうか? そして、なぜクリスマスより2週間近く後に祝うのでしょうか? 子供たちの演じてくれたページェントでは、赤ちゃんイエス様を囲んで、マリアやヨセフ、羊飼いたちだけでなく学者たちも一緒でした。週報にこの様子を描いた有名な絵画を二つ記しました。チョット見にくいかも知れませんが、頭にターバンを巻いた学者や、肌の色が違う学者が描かれています。不思議な星に導かれて東の国から来た学者たちはユダヤ人ではありません。羊飼いたちに現れた天使は「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカ福音書2:10-12)この様に神様のご計画を告げました。
み子イエス・キリストは民全体、即ちユダヤ人だけではなく異邦人と呼ばれる全世界の人々の為に誕生されたのです。そしてユダヤ人以外の人に初めてイエス様が公に現れた日を公現日と呼び、その姿をハッキリと現(あらわ)してくださったことから顕現日とも呼ぶのです。
旧約聖書の世界では神様はユダヤ人を選んで恵みを与えられたので、私たちから見ればユダヤ人への依怙贔屓(えこひいき)に見えますが、異教徒の学者たちが主イエス・キリストに礼拝を献げたことから、神様の独り子が私たちのために与えられたことがハッキリするのです。
次に、何でその祝いがクリスマスの日ではないのかとの疑問です。実は聖書の語るところに依れば、この博士たちの訪問は御子の誕生からかなり時間が経ってのことになります。
キャンドルサービスで読んでいただいたマタイ福音書2章12節には礼拝を済ませた学者は「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。 とあり、愚かなヘロデ大王によって悲劇が起こされました。2:16 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。ヘロデ大王は顕現日がクリスマスから2年以内だと考えたわけです。クリスマスの翌週に「イエスの誕生」と小見出しが付けられている聖書箇所からみ言葉を聞く理由を、長々としゃべってしまいました。
クリスマスの日に天使が告げた民全体に与えられる大きな喜びが、年の瀬の慌ただしさに押し流されない様にしたいと思い、讃美歌271番を最初に賛美しました。「神のひとり子が この世に生まれて わたしの兄弟となられた」この「喜びをむねに」ルカによる福音書2章1節以下を読んで行きましょう。2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
アウグストゥスは紀元前27年から紀元14年までの40年以上に渡って初代ローマ皇帝の地位にありました。彼の時代から200年ほど続いた平和はパクスロマーナ、「ローマの平和」と呼ばれますが、これはローマ帝国にとって平和だったと言うだけで、征服された国々が打ちのめされて抵抗できない状態が長く続いた平和でした。飼い葉桶に寝かされた赤ちゃんイエスがもたらしてくださった真の平和とは全く違った平和です。そしてこの平和な時代にローマ帝国の各地で繰り返された住民登録、即ち今日で言う人口調査の目的は、住民一人一人に収めさせる税金の金額を決めることでした。ローマ帝国の財政を安定化させ、ローマの平和を保つのに不可欠な仕組みでしたから、すべての人は自分の出身地に戻って登録することが厳しく求められました。
4節5節。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。イスラエル神殿のそびえる政治・文化・経済の中心地エルサレムから見ると、140キロほど北方に位置します辺境の地、ガリラヤ地方の小さな村ナザレでヨセフは大工として働いていたのですが、身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に、エルサレムの南7キロほどにある、ダビデ王が生まれたベツレヘムへと旅をしなければならなかったのです。まだ結婚していない婚約者と一緒に住民登録をしなければいけないと言うのはチョット不思議ですが、住民登録では夫婦と同じ扱いを受けたのでしょう。宗教国家イスラエルではモーセの十戒と、十戒を神殿の祭儀や生活の中で守るために細かい取り決めが定められた律法が法律でした。婚約に際して花婿は花嫁の父にモーハルと呼ばれる結納金を現金か労働によって支払う必要があり、婚約期間は12か月でその間花嫁は父のもとで処女として過ごすことが厳しく求められました。ローマが求めた住民登録はそれに優先したのです。
ルカ福音書は次の様に語っています。1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。37 神にできないことは何一つない。」38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。天使が突然現れて語った言葉をマリアはまったく理解できませんでした。しかし、暫らくして混乱が収まり、語られたことの重大さが分かって来るとともに、恐怖が襲ってきたことでしょう。
結婚前に子を宿すことは石打の刑に値する重大な律法違反です。天使がマリアに「神にできないことは何一つない。」と告げると、彼女は様々な出来事であり、教えを思い浮かべその一つ一つに納得して行きました。どれほどの時間が必要だったのでしょうか、マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
マタイ福音書は次の様に語っています。 1:18母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」クリスマスの出来事は、律法を守ることが厳しく求められていた宗教国家において、何よりも神様のみ心に忠実であったマリアとヨセフの信仰、即ち神様のみ心に従う勇気に支えられていたことを知ります。
神様のみ心に従う勇気として思い出されることがあります。バルメン宣言です。ナチスドイツとそれを支持するようになってしまっていた多くの教会はユダヤ人を教会から追放するようになりました。これに対して、政治が教会を支配することを否定した「告白教会」に属していたカール・バルト牧師が中心になって書かれたのがバルメン宣言です。聖書が伝える神のみ言葉以外のものは、思想や政治的なもの、富や様々な欲望などその全てを退ける宣言です。ナチス政権下にあって「告白教会」に属した人たちは、マリアやヨセフと同じように、信仰、即ち神様のみ心に従う勇気に支えられ、神様のみ心だけにしたがったことが知られます。そして、私たちにもマリアやヨセフ、ナチス政権下でのカール・バルトを始めとする「告白教会」に連なった人たちと同じ恵みが神様から与えられ、同じように主が愛してくださっているのです。なぜなら、羊飼いたちに現れた天使の言葉「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」 この言葉は聖書を通して私たちに今日も語られているからです。
さて、主イエスが誕生される以前を伝えます旧約聖書の世界では、神様がアブラハムの子孫に当たるユダヤ民族を選んで恵みを与えられた話が記されており、えこひいきなさっているのではないかと感じられる、先ほどこの様に申しました。
最初に読んでいただいた旧約聖書申命記ですが、28章1節以下には「神の祝福」と言う小見出しが付けられています。小見出しは聖書原典には無い言葉ですが内容を短い言葉で要約しています。ここでは、戒めを守ることで神様が与えてくださる数々の恵みが記されています。主は恵みの倉である天を開いて、季節ごとにあなたの土地に雨を降らせ、あなたの手の業すべてを祝福される。(28:12) 私たちもこの祝福に与りたいと思いますが、残念ながらこれは律法を守ったユダヤ民族に与えられる祝福の約束です。
申命記28章15節以下には「神の呪い」と言う小見出しが付けられています。律法を守らないユダヤ民族に主はおっしゃいます。あなたは何をしても成功せず、常に蹂躙(じゅうりん)され、かすめ取られてだれ一人助ける者はない。(28:29)さらに律法を守らなかった場合に与えられる様々な苦しみが警告され、その末に申命記28章64節以下で、神様に従わないで偶像に仕えていることが厳しく指摘されているのです。ですから、ユダヤ人を依怙贔屓しているのでは、と申しましたが、神様の愛は猫可愛がりの愛、底の浅い愛ではありません。そうではなく、試練を与えて鍛えてくださる愛です。そしてこれは2023年を終わろうとしている私たちに対しても変わりません。最初に、「今日家に帰ったら2023年に起こったことを思い起してください。それは楽しいこと嬉しいことだけではないでしょう。」この様に語りました。聖書は言います。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、 主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、 鞭打たれるからである。」 ヘブライ人への手紙12章5節6節です。
さて、旧約聖書が語る紀元前のユダヤの人にとって、幸せに生きるキーワードは、神様が与えてくださった十戒と多くの律法に従って生きることだったのですが、彼らが律法に従って生きることはありませんでした。ですから、神様が言われた呪いを受けるのは当然でした。しかし、2000年前に奇跡が起きたのです。神の独り子、主イエス・キリストの誕生、そして言葉と奇跡を通しての教え、十字架と復活の出来事です。しかもこの出来事は民全体に与えられる大きな喜びです。ユダヤ人限定ではありません。そしてその全ての出来事を聖書を通して知る私たちです。聖霊の働きによって日々の生活の中で知るわたしたちです。その私たちにとって、幸せに生きるキーワードは、主イエス・キリストを救い主と信じ、主のご命令「神様と、自分と、隣人を愛して生きる」ことに他なりません。そしてこの愛に欠けがあることを聖書は「罪」と呼びます。「今日家に帰って2023年に起こったことを思い起す」際に、それではどれほど愛すことが出来たのか、言い方を変えればどれほど「罪」を犯してしまったのかを思い起してください。その時に、クリスマスの出来事、主の生涯、そして十字架と復活の出来事が、いかに私に注がれている大きな愛なのかが感じられるに違いないのです。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。と聖書は語ります。 主イエスをお迎えする場所が無かったと語るのです。私たちがそうであってはなりません。説教題を「心に主をお迎えするスペース」としました。

心の大掃除は今からでも遅くありません。ガラテヤの信徒への手紙5章19節以下です。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。こんなものは捨ててしまいましょう。そして心に主をお迎えするのです。
この後賛美します讃美歌18番は「心を高くあげよ!」主のみ声にしたがい、ただ主のみを見上げて、こころをたかくあげよう。と歌います。大掃除の歌なのかも知れません、毎日がクリスマスの歌なのかも知れません。祈りましょう。