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山形六日町教会

2023年12月24日

聖書:イザヤ書9章5~6節 ヨハネによる福音書1章11~14節
「神のことばを受けた私」波多野保夫牧師

クリスマスおめでとうございます!12月3日からアドベントの礼拝を守って来ましたが、今日はクランツの4本の赤いロウソクと共に中心にあります白いロウソクが灯されています。「キリストのロウソク」と呼ばれ、主イエス・キリストの地上における生涯を表すのだと言われています。白は純潔を表し、罪を犯すことが全く無かった救い主に相応しい色です。そして心の扉を開いて主イエス・キリストを救い主としてお迎えすること。すなわち信仰によって、私たちもキリストに似た者、雪よりも白い罪のない者と見なしていただけるのです。これが喜びの知らせ、福音です。
最初に読んでいただいたイザヤ書ですが、預言者イザヤはイエス様が誕生される750年ほど前に、神様から南ユダ王国に遣わされました。紀元前1000年ころ、ダビデ王によって栄えたイスラエルは息子ソロモン王の時代に絶頂期を迎えたものの、彼の死と共に北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してしまいました。その250年後にイザヤが神様の言葉を宣べ伝えたころの南ユダ王国には、神様に仕えた王と、逆に神殿に偶像を建ててしまう様な王が現れていたのですが、国力は衰えアッシリア帝国の属国へと成り下がって行きました。さらにその150年ほど後、にはバビロニア帝国によってエルサレムが徹底的に破壊され、いわゆるバビロン捕囚が始まりました。ユダヤ人たちは、そんな厳しい歴史の流れの中に置かれていたのです。しかし、預言者イザヤが伝えた神様の言葉を聞いた人々は、主イエス・キリストが誕生するまでの750年にも及ぶ月日を、何代にも渡って救い主が与えられる約束を語り伝えたのです。そして希望を失うことなく待ち続けたのです。
イザヤ書9章5節6節。9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。6 ダビデの王座とその王国に権威は増し 平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。私たちは、権威が彼の肩にあり、その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と呼ばれるみどりごが、この世に来られてから2000年後の世界に生きています。
イザヤの預言には、ダビデの王座とその王国に権威は増し 平和は絶えることがない。この様にあります。ダビデ王の王座と王国とは、ダビデ王の家系でありましょう。主イエス・キリストに至り、その主イエスは十字架と復活の出来事から40日目に天に帰られる際、弟子たちに聖霊が与えられるとの言葉を残されました。その約束通り10日目に聖霊が降り教会が誕生したのです。
そして2000年後の今、私たちはこの様に教会に集いクリスマス礼拝を献げています。ですから、ダビデ王の王国の権威は主イエス・キリストを通して、主イエスに従う者たち・クリスチャンと、従う者へと呼び集められている者たち、すなわち私たちが集う、この山形六日町教会へと受け継がれているのです。しかし、この2023年に於いて 平和は絶えることがない。と言えるのでしょうか。私たちは今、赤い4本のロウソクに囲まれ中心にあります白いロウソクが灯されたクランツからあふれる光を眺めながら讃美歌267番を賛美しました。2節です。「マリアを母とし 生まれたみ子 星々かがやけ 語り告げよ。みつかい歌え この喜び、「神にはみ栄え、地に平和」と。」この様に賛美しました。私たちの礼拝でのこの賛美に偽りはありません。この礼拝にある平和は正に万軍の主の熱意がこれを成し遂げてくださっているのです。しかし、一歩教会を出るとそこには冷たいこの世の風が吹きつけており、クリスマスの出来事の本当の意味を知らない、残念な人が大勢いる現実があります。
これは一月ほど前にお話ししたのですが、ある教会の駐車場の出口に建てられた看板に書かれていました。「今、あなたは伝道の地に派遣される。」そうです。礼拝が終わって教会から散って行くとはこういう意味なのです。冷たいこの世の風が吹きつける山形の地に、このクランツに灯されたロウソクの光と暖かさを届けるのです。可能であれば、今日4時半からのキャンドル・サービスに誘ってくださることもよろしいでしょう。キリストに従う人が増えることで、平和が近づくに違いありません。しかし、これは伝道の実がなかなか実らない現代にあって、気の遠くなるような話です。
パウロは、ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが分け隔てなく、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのだと言います。選民意識が抜けないユダヤ人にも、ギリシャ哲学に代表されるようにすべてを人間の知恵で理解しようとするギリシャ人にも、そしてここに“日本人にも”と付け加えることは適切でしょう。すべての人に主イエス・キリストを宣べ伝えるのだと言うのです。なぜ、この様なまだるっこしいことをするのでしょうか? それは真の平和を手にすることが本当に難しいことだからです。
戦争や争いが止むことは当然ですが、それだけでは真の平和とは言えません。でもパウロはそれは可能だと続けて言います。 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。(コリントの信徒への手紙Ⅰ1:24,25)
貧困の極みと言ったカルカッタで働いたマザーテレサは信仰の機微に触れた言葉を多く残していますが、"私たちが自分たちの中に平和を持ち、そして他者に平和をもたらすことができれば、これが真の平和の始まりです。" この様に言いました。このクリスマス礼拝において私たちの心を主の平和で満たす者でありたいと思います。
私たちがクリスマスの日にお迎えした「みどりご」がどの様な方なのかをあらためて確認することから始めましょう。新約聖書「ヨハネによる福音書」1章1節2節です。1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2 この言は、初めに神と共にあった。すべての初めから言葉はこの世界を創造なさった方と一緒にいらっしゃった。言葉は神様なのだ。ヨハネはこの様に語り始めます。私たちは様々な言葉を用いて毎日生活しています。話し言葉、書き言葉、手話、ジェスチャー、目配せもそうでしょうし、ウィンクもそうかも知れません。何らかの意味や感情を伝える表現手段、それらは全て言葉です。
ヨハネは、主イエス・キリストのことを「言」と言うのですが、それは神様がどういうお方なのかを正確に、余すところなく伝えてくださるからです。主イエス・キリストの全生涯が神様のお考え、御心を伝えている。誕生の出来事、様々に語ってくださった教え、癒しを始めとする数々の奇跡、弟子たちやその世話をした女性たちとの日々でありエルサレムへの旅、そして十字架と復活の出来事です。これらは全て神様のみ心、私たちを愛して止まないみ心を語るのです。新約聖書に記されている4つの福音書がその全てを伝えてくれます。
ヨハネによる福音書 1章11節です。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 この時自分の民と言われているのは、「神様に選ばれた民族だと」自負していたユダヤ人たちです。かつて彼らの先祖、アブラハムに神様は「あなたの子孫は空の星、海辺の砂の様に増やそう」(創世記22:16)と言って祝福を与え約束なさいました。アブラハム契約と呼ばれます。そして神様はユダヤ人たちに様々な恵みだけでなく、試練をも与えられ信仰の訓練をされたのです。
エジプトでの奴隷生活とモーセをリーダーとした40年に及ぶ荒野の旅。ダビデ王とソロモン王の時代の繁栄。最初に開いたイザヤ書は神様に従う王様と、エルサレム神殿に偶像を建ててしまう様な王様について神様のみ心を記していました。王様が王様なら民衆も民衆です。多くの不正が行われ、貧富の差が大きく開いていた時代です。神様を信頼しなくなった王国はバビロニア帝国の前に無力でした。しかし、バビロン捕囚から解放された人々は神殿を再建したのです。それから500年ほど経ったユダヤはローマ帝国の支配の下にありました。
ユダヤのたどったこの長い歴史のほとんどは苦しみの歴史だったのですが、神様が与えられたアブラハム契約や、イザヤによって預言された一人のみどりごが与えられるとの約束は、人々に希望を与え続けたのです。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。のですが、まるで受け入れたように見えた時もありました。十字架の出来事が起こる直前の日曜日に主がろばに乗ってエルサレムに到着された時です。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(マタイ1:8,9) それまでの主イエスの働きを伝え聞いていたユダヤの人たちはこの時に、700年も待ち続けた一人のみどりご、即ちユダヤ民族の救い主が来てくださったに違い無いと思って大歓迎をしたのです。
しかし、たった5日後です。民族をローマから解放してくれる救い主に違い無いと期待した主イエスが、ポンテオピラトの法廷で裁かれるに至って、ユダヤの民衆は叫んだのです。「バラバを釈放して、イエスを十字架につけろ!」(マタイ27:21,22)確かに神様はアブラハムの子孫、即ちユダヤ民族を選んで恵みを与えるとおっしゃいました。この意味で私たちの祖先は恵みの外に置かれていたことになります。しかし、山形六日町教会はユダヤ人教会ではありませんが、新約聖書だけではなく旧約聖書も聖典としています。旧約聖書には、ユダヤ民族を神様が依怙贔屓(えこひいき)されているとしか思えない場面が沢山あります。ではなぜ旧約聖書は私たちにとっても聖典なのでしょうか?
ヨハネ福音書に主の言葉があります。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。(ヨハネ5:39) 主イエスの時代に新約聖書はまだありませんから、聖書とは旧約聖書のことです。主イエスを証ししているが故に旧約聖書は私たちの聖典なのです。そして、旧新約聖書が共に聖典なので、週ごとの礼拝においても両方の聖書から聖句を朗読するのです。
さて、旧約聖書にあるユダヤ民族の依怙贔屓(えこひいき)ですが、神様はまずユダヤ民族を選んで大いなる恵みを与え、神様に従って生きる幸せを感じて欲しい。そしてそれを見たユダヤ人以外も悔い改めて神様に従って幸せに生きる者になって欲しい。この様にお考えになったのだろうと説明されます。しかし、そのユダヤ人たちは一向に悔い改めて神様に従おうとはせず「罪」にとらわれてしまっていたのです。そこで、神様は最初に読みましたイザヤを通して告げられたことを実行されました。1章11節です。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。「バラバを釈放して、イエスを十字架につけろ!」と叫んだのです。12節。 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。ここでは、ユダヤ人への依怙贔屓(えこひいき)が消えていることに注目してください。私たちユダヤ人以外の者も神様の子となることが出来るのです。主イエス・キリストを神の独り子、救い主として受け入れることで、神の子としてくださると言うのです。大いなる福音、喜びの知らせがここにあります。私はこの説教を「クリスマスおめでとうございます!」と言って始めましたが、それは私たちも、心を開いて主の福音を受け取ることで神の子としての恵みが与えられることにあるのです。Merry Christmas! の中身はこのことです。
そして13節はその確認です。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。神に愛される者はもはや血筋や民族には依りません。欲望の結果でもありません。神様によって生まれたのです。生まれたとは、肉体の命であり、また魂の命、即ち主イエスを信じる信仰です。
実はこの素晴らしい変化、ユダヤ人だけでなく山形六日町教会にこの様に集う私たちにも神様の福音が届くとの宣言は、既に主の御使によって告げられていました。ルカによる福音書2章8節以下です。2:8 さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。9 すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。10 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。12 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。そうです。御子の誕生はユダヤ人だけではなく すべての民に与えられる大きな喜び なのです。Merry Christmas! です。
ここで一言注意すれば、クリスマスの喜びはすべての民に与えられる大きな喜びです。まだそれを知らない人に告げ知らせる光栄ある仕事は私たちに委ねられているのです。1章14節。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。世界の初めから神様と一緒に存在していらっしゃった主イエス・キリストは、肉体を取って私たちのところに来てくださった。続いてわたしたちはその栄光を見た。この様にありますが、私は主にお会いしたことがありませんし、皆さんもそうでしょう。使徒信条が告白するように、今主イエス・キリストは天上で神様の右の玉座にいらっしゃいます。わたしたちはその栄光を見た。と言うのは、この福音書を書いたヨハネと使徒たちや他の弟子たちであり、多くの群衆であり、ガリラヤからエルサレムまで主と共に旅をし、十字架の出来事を遠く眺めた女性たちであり、復活の出来事の証人たちです。
しかし、信仰を与えられた者にとってわたしたちはその栄光を見た。あるいは、わたしたちはその栄光を見ていると言うのはまさしく適切な表現です。私たちは、主の出来事をまの当たりにした者たちの証言を聖書を通して聞きます。聖霊の働きによって2000年前に起きたこと、神様の大いなる愛を今も感じることが出来ます。この礼拝の時だけではありません。日々の歩みの中で感じることが出来ます。
しかし、新聞を開けば、世界では戦争がたえず、国内では不正な政治の記事であふれています。そんな議員を選んでしまうのはそれなりの理由が有ってのことでしょうが、少なくとも私たちは主イエスが示してくださる真理を判断基準とすべきです。そして具体的な行動は恵みと真理に満ちている方、主がおっしゃった「神様と自分と隣人を愛しなさい。」この戒めを基準とすべきです。
クランツの4本の赤いロウソクと中心にあります白いロウソクの光を見つめながら、神のことばを受けた私たちです。マザーテレサの言葉を再度申し上げます。 "私たちが自分たちの中に平和を持ち、そして他者に平和をもたらすことができれば、これが真の平和の始まりです。"
ここで、ハートフルコースのみなさんに讃美歌「さやかに星はきらめき」を献げていただき、クリスマスの喜びと感謝を共にしましょう。
讃美歌219 「さやかに星はきらめき」
1.さやかに星はきらめき、み子イエス生まれたもう。長くもやみ路をたどりメシヤを待てる民に、あたらしき朝はきたり さかえある日はのぼる。いざ聞け、み使いうたう たえなる天つみ歌を、めでたし、きよしこよい。
2. かがやく星をたよりに旅せし博士のごと、信仰の光によりて われらもみまえに立つ。うまぶねに眠る み子はきみのきみ、主の主なり。われらの重荷をにない、やすきをたまうためにときたれる神の子なり。
3. 「たがいに愛せよ」と説き、平和の道を教え、すべてのくびきをこぼち、自由をあたえたもう。げに主こそ平和の君、たぐいなき愛の人、伝えよ、その福音を、ひろめよ、きよきみわざを、たたえよ、こえのかぎり。
祈りましょう。