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山形六日町教会

2023年12月10日

聖書:イザヤ書7章13~14節 ヨハネの手紙Ⅰ5章9~13節
「神の証し」波多野保夫牧師

アドベント第2週となりました。クリスマス・クランツにCSの礼拝で子供たちが灯してくれたロウソクが2本光を放っています。アドベントの時はまた年末に向かっての時ですから、慌ただしさが増してきます。そのような中で、先ほどご一緒に賛美しました讃美歌252番には「羊はねむれり 草の床に 冴えゆく冬の夜 霜も見えつ はるかにひびくは 風か 水か 否とよ みつかい うたうみうた」この様にありました。歌詞が文語で書かれており、「否とよ」は「いやそうではない」と言う意味だそうですが、冴えわたる星空の下で羊の番をしていた羊飼いたちのところに、突然現れた天使を驚きと疑いの混じった思いで迎えた彼らの心持を歌うのでしょうか。美しい賛美です。その時天の大群が現れ「いと高きところには栄光、神にあれ、 地には平和、御心に適う人にあれ。」この賛美を聞いた羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合って、出かけて行きました。
「波多野先生!」「君ですか、なんでしょう?」「だけどこれって讃美歌の上に、降誕・クリスマス って書いてあるから、クリスマス礼拝で歌う讃美歌じゃないんですか? 今日はまだ、アドベント第二週なんですけど?!」確かに、クリスマス礼拝の賛美に相応しい讃美歌です。しかし、君にとってクリスマスって、どんな日ですか? 「それはイエス様が来てくださった喜びの日です。だから喜びのお裾分けでプレゼントをします。」 プレゼントはともかくとして、私たちが心を開いてイエス様をお迎えする日ですね。
実は、子供のころにCSの先生から聞いた「心を開いてイエス様をお迎えするのならば、毎日がクリスマスです。」と言う言葉が忘れられないんです。神様の愛を感謝をしてイエス様をお迎えするこの日はクリスマス。最初のクリスマスから2000年の間、毎日がクリスマスと言うのはどうでしょう。楽しくなりませんか? 神様は時間も創造された方ですから、時間を超えてらっしゃいます。その神様に心を開く時、聖書は言うのです。愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。(ペトロの手紙Ⅱ3:8)そんなわけで、クリスマスと分類されている讃美歌をアドベントに歌うのを許してください。ですから、説教に続いて讃美歌260番「いざ歌え いざ祝え この恵みの時 救い主 あれらわれぬ。 喜べ、主にある民よ」と、出かけて行った羊飼いたちと一緒に、喜びにあふれて賛美したいと思います。

さて、本日与えられました聖書箇所、まずイザヤ書7章13節14節です。アドベントからクリスマスにかけてしばしば読まれますし、マタイ福音書1章にはマリアが身ごもったと知り、不安に包まれていたヨセフに主のみ使いは夢の中で告げました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。密かに縁を切ろうとしていたヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。預言者イザヤの語ったインマヌエル預言は750年近い時を隔てて、主イエスキリストの誕生によって実現したのです。
イザヤ書7章13節です。 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に もどかしい思いをさせるだけでは足りず わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。“もどかしい”を辞書で引くと「思うようにならずいらいらする。じれったい。はがゆい。」この様にあります。神様にもどかしい思いをさせる とはどういうことなのでしょうか?
7章1節2節です。7:1 ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。2 しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。 聞きなれない名前が沢山出てくるので分かり難いかも知れません。紀元前1000年ころ、ダビデ王によって栄えたイスラエルは息子ソロモン王の時代に絶頂期をむかえたものの、彼の死と共に北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂しました。そしてそれ以降、国力は落ち、エジプトやアッシリアと言う大国の狭間で翻弄され続けた250年ほどの時を過ごして来たのです。
この時ユダ王国はアハズ王が治めていたのですが、敵が攻めて来るとの知らせが届くと 王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した のです。預言者イザヤは主を信頼する様に告げるのですが、アハズ王はそれを拒否してアッシリアと軍事同盟を結びました。これによってユダ王国は敵から逃れることが出来たのですが、大国アッシリアの属国とされ、エルサレムには異教の神の祭壇が造られる様になったのです。(列王記下16:10-)
神様は私たちを愛したくて愛したくて仕方がない方です。幸せになって欲しくて仕方ない方です。そしてその方法をハッキリと示してくださっています。独り子イエス・キリストに従って歩むことです。具体的には「神様と、自分と、隣人を愛する」日々であり、人生です。
これが私たちに約束されている幸せの方程式なのです。 聖書を通してこの方程式を知っている私たちですが、それではどれほど神様にもどかしい思いをさせているのでしょうか? もどかしいとは「思うようにならずいらいらする。じれったい。はがゆい。」と言う意味でした。神様は全知全能の方なのに「思うようにならずいらいらする。」とはどういうことなのでしょうか?「思うようにしちゃえば良いのに」との思いがよぎりますが、イザヤの預言は続きます。
14節 それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。私たちはこの預言が700年以上の時を隔てて主イエス・キリストの誕生によって実現したことを知っています。そして、「なぜ700年も後のことだったのか、すぐに御子を遣わしてくだされば良かったのに」この思いがよぎるのです。
先ほど、今日のアドベントの礼拝で「降誕・クリスマス」と記された賛美歌を賛美する言い訳をしましたが、神様は時間をも創造された方ですから、時間を超えてらっしゃいます。ですから神様にとってクリスマスの時に至る700年は問題ないのでしょうが、その日を待ち続けた人々、苦しみの中に有った人々にとっては長い長い時間でした。神様が約束された男の子は何世代にも渡って与えられないのです。「ダビデの家」と呼ばれダビデ王の末裔に当たるユダ王国には不信仰な王が多く現れました。周りの超大国の狭間に有ってダビデ王の時代の栄光は既に過去のものとなっています。約束された救い主はなかなか来てくださらないのです。
私は、この状況は2023年に生きる私たちに重なる様に思うのです。主イエス・キリストが再び来てくださる時、そして悪を滅ぼしてくださる時、終末の時が私たちに約束されています。それはキリストに従う者の勝利の時です。現在、世界の指導者たちは神様のみ心に従おうとはせず、様々な不正がはびこり大きな経済格差が生じており劣悪な環境に置かれた子供たちがいます。700年間、み子を待ち続けた人々の姿に、終末の時を待ち望む教会とクリスチャンの姿が重なるのです。
救い主が来てくださるまでの700年間を「インマヌエルすなわち「神は我々と共におられる」」この言葉を胸に待ち続けました。その700年の間に、バビロニア帝国との戦いに敗れエルサレム神殿は破壊され、バビロン捕囚の苦しみをも経験したのです。
私たちは既に2000年の間主イエス・キリストの再臨、すなわち最終的な勝利の時、終末の時を待っています。様々な苦しみ、悲しみを経験しています。「ダビデの家の人」と同じ点は「神は我々と共におられる」ことを知っていることです。違う点は、私たちはさらに主イエスの生涯にわたっての出来事、なかでも十字架と復活の出来事を知っていることです。
そんな私たちに聖書は告げるのです。信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(Ⅰコリント13:13) 私たちの知っている「幸せの方程式」は「神様と自分と隣人を愛する」ことでした。その関連を見ましょう。
神様を愛するとは、謙遜な自分になって共にいてくださる神様の愛を受け入れることです。そしてこれこそが信仰です。自分を愛すること。これは希望を持って生きることです。隣人を愛する愛し方は様々でしょう。しかし、忘れてはならないのは隣人に信仰を伝えることです。「我々と共におられる」神様の愛の輪の中に隣人が新たに加えられる喜びを共にしたいと願います。聖霊が支えて下さる 信仰と、希望と、愛 によって「神様と自分と隣人を愛する」と言う人生の「幸せの方程式」を歩むのです。

さて、細矢長老に読んでいただいた新約聖書ヨハネの手紙Ⅰによって、クリスマスの日に与えられた「インマヌエルと呼ばれる方」がどの様な方なのかを聞いて行きましょう。5章9節以下を丁寧に読んで行きます。ヨハネは5:9 わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。この様に語ります。「人の証し」とは裁判での証言ですが、神様がなさる「インマヌエルと呼ばれる方」の証言はどの様になされるのでしょうか? 
ヨハネは直前にあります7節8節でハッキリと述べます。5:7 証しするのは三者で、8 “霊”と水と血です。この三者は一致しています。私たちがクリスマスの日にお迎えする主イエス・キリストがどの様な方なのかは、“霊”と水と血 がハッキリと示しているのだ。ヨハネにこう言われると、私はなんとなく分かるような気がするのですが、老眼でピントがハッキリ合わないような感覚が残ります。他の聖書箇所の助けを借りましょう。
まず“霊”が主イエスについて証ししてくださる点ですが、パウロは言います。 コリントの信徒への手紙12章です。12:2あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。3 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。 私たちに信仰が与えられる以前においては、神様以外のものに心を惹(ひ)かれたこともあったでしょう。しかし、神の霊によって語る人すなわちクリスチャンとなってからは、「イエスは「自分は神だ」と語る新興宗教の指導者に過ぎないじゃないか。「神様から見捨てられて十字架で死んでしまえ。」」なんて言うことは絶対に無い。なぜなら聖霊が私たちに「イエスは主、すなわち神様だ。」と悟らせてくださるのだから。回りくどい言い方ですが、「信仰を持った者は、聖霊によってイエス様が神様だと告白出来る」というのです。
ヨハネの証言に戻れば、キリストについて証しするのは三者で、8 “霊”と水と血です。とありました。 ヨハネ福音書は、十字架上の遺体を兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。(19:34)この様に語っていますから、水と血は主イエス・キリストが十字架の死を遂げてくださったこと、しかもその死は私たちの「罪」を清算してくださる為の死であったことを示しています。私たちを愛したくてしょうがない方は、大切な独り子を世に送り、その独り子を犠牲にすることで「罪」を清算してくださり、主イエスに従う者を「罪のない者と見なしてくださる」と言うのです。信じ従うまでに至っていない者は、幸せの入り口へと招かれていると言うのです。
聖餐式の際に読まれます聖書箇所です。「この杯は私の血による新しい契約である。飲むたびに私の記念としてこの様に行いないなさい。」(Ⅰコリント11:25)血と言うことでチョット注意したいことがあります。最近しばしば報道されています「エホバの証人」と言う宗教団体は、確かに聖書を良く学び、書かれていることを生活の中で実践しようとします。この点は私たちも見習うべきですが、彼らは三位一体の神を否定します。この時点で日本基督教団信仰告白と相いれない異端です。さらに旧約聖書レビ記17章14節に いかなる生き物の血も、決して食べてはならない。とあるのを根拠に信者の子供の輸血を拒否しました。その子は亡くなりました。私たちは近代科学であり近代医学は、神様が創造されたこの世界の仕組みを明らかにしてくださった上に成り立っていると理解します。そして神様から与えられた命は大切にされるべきです。
異端の話をもう一つ紹介します。仮現論と呼ばれるこの異端は、使徒信条が告白します「主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ」と告白するクリスマスの物語を否定します。神の独り子が汚れた人間の姿を取るはずがないと言うのです。そしてイエスがヨルダン川で洗礼を受けられた際、神の霊が鳩の様にくだり「これは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえました。と聖書に書かれていることから、この時信仰深い人間イエスに聖霊が宿った。さらに神が人によって殺されるはずがないとして、十字架の死の直前に聖霊はイエスの体を離れて天に帰ったのだ。この様に説明するのです。分かり易い説明ですが、聖書の証言とは相いれない人の考え出した異端です。「エホバの証人」と仮現説に代表される異端を避けるためには一人で聖書を読むだけではだめです。礼拝に集い聖書を正しく読み解く説教を聴く必要があります。私たちの教会の説教は日本基督教団信仰告白に立って語られ、長老会が教理的なチェックを行っているのです。
ヨハネの手紙Ⅰに戻りましょう。5章10節から12節は“霊”と水と血による証しは主イエス・キリストを信じて従う人に「永遠の命」が与えられていることをハッキリと示してくださるのだ。この様に語り、13節。神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。と結びます。
ここで、ハッキリさせなければならないのは、「永遠の命」はいつかは必ずやって来る私たちの死、その死によって始まるのではないと言うことです。そうではなくて、私たちは既に主が共に歩んでくださる永遠の命の中を生きており、神様のめぐみは死の向こうにまで続くのです。
先ほど、「主イエス・キリストを信じ従う者は救われるのです。信じ従うまでに至っていない者は、幸せの入り口へと招かれているのです。」この様に申しました。
同じことを言い換えましょう。「主イエス・キリストを信じ従う者は永遠の命の中を生きているのです。信じ従うまでに至っていない者は、永遠の命の入り口へと招かれているのです。」この主を待ち望むアドベントの礼拝において、このヨハネの手紙Ⅰ5章の冒頭部分をお読みしたいと思います。聞いてください。
5:1 イエスがメシア(・救い主)であると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。5:2 このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。(神の掟は「神様と自分と隣人を愛す」ことであり、神の子供たちとは私たちの隣人です)5:3 神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。5:4 神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。5:5 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。これがアドベントの時に有ってあたえられた、神の言葉です。祈りましょう。