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山形六日町教会

2023年12月3日

聖書:ミカ書5章1~3節 ローマの信徒への手紙8章1~6節
「罪を取り除くために」波多野保夫牧師

本日から待降節、アドベントに入りました。会堂の入り口には今朝CSの子供たちが飾り付けてくれたクリスマスツリーが光を放ち、このクリスマス・クランツにロウソクが1本灯されています。毎週1本ずつロウソクが増えて行き4本になった時にクリスマスを迎える。まさに、世の光として私たちのところに来てくださった主イエス・キリストをお迎えするのに相応しい準備がなされています。 先日の山形新聞の記事に「近づく聖夜、LEDで彩る」との見出しで、次の様にありました。「山形市の霞城セントラル1階アトリウムで クリスマスシーズンを告げるイルミネーション点灯が始まった。輪を連ねてツリー を表現した高さ約7メートルの装飾が設置され、シャンパンゴールド色の発光ダイオード約1万8千個が会場を照らし、聖夜の雰囲気を演出している。会社員のAさんは「大きなツリーに驚いた。クリスマス当日が楽しみ」と笑顔を見せた。」
クリスマスの本当の意味を知る私たちにとっても、灯されるロウソクが1本ずつ増えて行くアドベントからクリスマスへの日々は、何度経験しても心躍り、喜びを感じる季節です。しかし、教会を一歩出ますと、クリスマス商戦たけなわと言った世界が広がっています。多くの人が明るい気持ちになり、大切な人へプレゼントを贈ることは決して悪いことではないのですが、もったいないと思います。主イエスをお迎えする意味を山形の多くの方々にもぜひ知っていただき、この喜びを分かち合いたいと思います。その為に用いられる山形六日町教会でありたいと思います。

さて、司式の寒河江長老にローマの信徒への手紙8章1節以下を読んでいただいたのですが、特に注目したいのは8章3節の後半です。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。この短い言葉の中に、神様が主イエス・キリストを送ってくださった理由であり目的、すなわちクリスマスの出来事は神様のどの様なお考えでありご計画の表れなのかが、ハッキリと言い表わされています。クリスマスの喜びのエッセンスがここにあるのです。
本日はその神様のお考えをご一緒に確認したいと思います。パウロは、主イエス・キリストの誕生は、神様が私たちすべての者の「罪」を取り除こうとお考えになってなさった出来事なのだと言います。しかも、私たちのところに来てくださった神様の独り子は、「罪」とは全く無縁の方だったにもかかわらず、「罪」に捕われている人間の姿で、すなわち真(まこと)の人として誕生なさったのだと言いうのです。そして、その誕生はご自分を献げるため、十字架上で肉を割き血を流すことで「私たちの罪」のけじめをつけてくださるためだったのだ。この様に言うのです。その為におとめマリアとヨセフが用いられ、羊飼いや占星術の学者やクリスマス・ページェントに登場する者たちが用いられたのだと言うことが出来ます。確かに彼らはそれぞれに重荷を負いました。マリアとヨセフは世間の目には未婚の母と映る重荷を負い、野原で生活する羊飼いたちは自分たちを嫌う人たちが住む町へと向かい、学者たちは強盗に襲われる危険な砂漠を宝物を持って旅をして来たのです。ですから、彼らのことを神様のご計画に忠実に従った幸せな者たちと呼ぶことが出来るでしょう。聖書に彼らの勇気ある行いが記され、2000年の時を隔てた私たちに感動を与えるからです。
しかし、何よりもクリスマスの出来事は、「私たちの犯す罪」のけじめをつけるために、神の独り子が真の人となって来てくださった出来事であり、そこに大いなる神様の愛を見るからこそ、教会は2000年に渡ってクリスマスを祝い続けてきたのです。
さて、8章1節でパウロは、従って、今や、と語り始めています。「過去はそうではなかったのだが、ある出来事によって変わったのだ。」この様に語り始めるのです。実は彼はこの手紙の3章以降、ズーッと語り続けて来たことを踏まえて 従って、今や、と語り始めているのです。
ここで小見出しを追ってみたいと思いますが、小見出しは聖書66巻に付けられた名前や章、あるいは節と同じように聖書原典には書かれていません。ですから注意が必要なのですが、聖書箇所の要約として理解を助けてくれます。
3章です。「正しい者は一人もいない」「信仰による義」。4章に入って「アブラハムの模範」「信仰によって実現される約束」。5章は「信仰によって義とされて」。
6章「罪に死に、キリストに生きる」「義の奴隷」。7章「結婚の比喩」「内在する罪の問題」。そして8章の小見出しが「霊による命」。この様にあります。後程ローマの信徒への手紙を丁寧に読んでいただきたいと思いますが、これらを踏まえて8章で 従って、今や、と語り始めています。パウロは、この3章から8章にかけて、様々な問題を抱えていたローマの教会に、是非理解して欲しかった「信仰義認」について語ります。そしてこの「信仰義認」こそがキリスト教の中心にある教理、すなわち教えであり、神様がなさったことであり、私たちに今もしてくださっていることなのです。
さて「信仰義認」と言いましたが、聖書が言う「義」とは「正しい」と言う意味ですから「義認」とは、神様が私たちの罪をゆるして、あなたは「正しい人」だと認めてくださる。私たちの信仰、主イエス・キリストに従って歩む「信仰だけ」によってです。「信仰だけ」とわざわざ言い切ることで、善い行いを積み重ねたから、そのご褒美に神様が「おまえは正しい人だ、良くやったね。」こう言ってくださるのではないのだと強調しています。「善い行いによって」ではなくて、主イエス・キリストへの信仰を告白する、具体的には洗礼を授けていただき、主に従い教会員に相応しく生活することで「正しい人」だと認めてくださると言うのです。
じゃあ、私たちは善い行いをしなくて良いのでしょうか? そうではありません。神様が「正しい人」と認めてくださった大きな喜びを感じれば感じる程に、善い行い、神様が喜んでくださる行いをするようになってしまうというのです。このことを「聖化」と呼び、「聖なる者に化ける」と漢字で書きますが、「キリストに似た者となる」もっと正確には「聖霊によって、幸せに満ちた人生へと変えていただく。そしてその姿はキリストに似てくる。」これが「聖化」です。

さて、私たちの犯す「罪」とは、いつもお話ししている様に「神様と自分と隣人を愛する」ことから離れてしまうことですが、聖書が語る「罪」を見て行きましょう。
話は遠い遠い昔、人間が初めて犯した「罪」にまで遡ります。旧約聖書、創世記3章が伝えますアダムとエバの物語です。
蛇に唆されて禁じられていた園の中央の木の果実をとって食べたこと。第一の罪です。
神様に見つからない様にと園の木の間に隠れたこと。第二の罪です。
そして、神様に問われると、女が悪い、蛇が悪いと責任のがれをしたこと。第三の罪です。
いかがでしょうか? こんな話は自分とは関係ないと思ってらっしゃるでしょうか? ぜひ関係ない話であって欲しいと思います。しかし、禁断の木の実は、不幸にならないために神様が避けなさいとおっしゃった事柄を指しています。聖書は、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。と言っています。ガラテヤの信徒への手紙5章19節から21節です。それだけではなく神様は現代医学の知識を用いて、暴飲暴食や喫煙や塩分の取り過ぎ、働き過ぎなども警告なさっているのでしょう。すべて私たちを愛する故にです。私たちは聖書が語るより豊かな人生を歩みたいと思います。霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。(ガラテヤ5:22,23)
第二の罪は、私たちが神様に隠れて何か出来ると思うことです。 全てを創られた神様は全てをご存知です。ですから何か後ろめたいことをしているのであれば、これほど恐ろしいことはありません。誤魔化し様がないからです。しかし、苦しみ悩み悲しみの時に主が知っていてくださる、私たちのそばにいて愛していてくださることを知るのであれば、これほどの慰めはありません。全てを創られた神様は私たちの心の中もご存知なのです。
第三の罪は、責任転嫁です。自分は悪くない、環境が悪い、あの人が切掛けを作った。みんなやってるんだからチョットくらい。すべてこの様なことは「神様と、自分と、隣人を愛すること」になりません。アダムとエバから今日の私たちに至るまで、人間の歩んだ歴史は「罪」と無縁ではないのです。
しかし、本日与えられたローマの信徒への手紙8章1節は宣言します。従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 「罪」に定められるのが当然だった私が「罪」に定められること、「罪」に支配されることは、もはや無いのだとの宣言です。なぜなら、2節です。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。そして、2000年間に渡って教会が、そして2023年に生きる私たちがクリスマスを喜びの日とする理由が、先ほどお読みした3節でした。 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。
最初に読んでいただいた旧約聖書ミカ書ですが、預言者ミカは紀元前700年代の終わりころ、ヨタム王、アハズ王、ヒゼキヤ王の時代に南ユダ王国に遣わされました。賄賂などの不正がはびこり極端な貧富の差が生じ、宗教家も堕落の極みに達していた時代に、神様の「裁き」を告げるだけでなく、その先にある「救い」をも預言したのです。ミカ書5章1節。エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。 神様の御計画によってダビデ王の子孫がベツレヘムで誕生するのです。3節。彼は立って、群れを養う 主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり その力が地の果てに及ぶからだ。預言者ミカは、賄賂などの不正がはびこり極端な貧富の差が生じ、宗教家も堕落の極みに達していた時代、「罪」の問題が解決されなければならない時代に、神様のお考えを伝え、神の独り子主イエス・キリストが来てくださることを預言したのです。
ある神学者は、世界的に不正がはびこり極端な貧富の差が生じ、カルト集団がのさばる現代にこそ、ミカの様な預言者が必要なのだと言いました。しかし、これは正しい主張ではありません。なぜなら私たちには既に2000年前のクリスマスの日に、主イエス・キリストが与えられているからです。私たちは、それから30年後に起きた主イエスの十字架と復活の出来事を聖書の証言によって知っているからです。
さて、キリスト・イエスに結ばれている者、すなわち洗礼を受けてクリスチャンとなった者は「罪に定められることはありません」。もはや裁かれることは無いのだ。なぜならキリストが身代わりになってくださったので、喜びの日々、喜びの人生を歩むのだ。まだ洗礼を受けるに至っていない者はこの喜びに与る為に主によって招かれているのだ。聖書はこの事実を宣言しています。それでは、クリスチャンとしていただいた私でありあなたはその確信を持って生きているのでしょうか?
わたしは60才までサラリーマンをしていたのですが、その間自分がクリスチャンだと人に言うことは余りありませんでした。1974年に入社した際、社内報の自己紹介欄にあったモットーと言う項目に「日曜日は教会に行く」と書いたのですが、これは猛烈社員がもてはやされていた時代に休日出勤を逃れるためでした。クリスチャンと言うと「謹厳実直、品行方正で立派な人」と言った世間の目があり、全くそうでない自分にとって重荷だったのです。「クリスチャンのくせに!」と言われたくなかったのです。ある時「当時の私は隠れクリスチャンだった」と言ったところ、家内から「隠れクリスチャンは激しい迫害の中で、必死に信仰を守ったのだから、失礼だ」と叱られてしまいました。 その私が伝道者として用いられ、皆さんに「周りの人を教会に誘ってください。」と呼びかけています。皆さんがそれに一生懸命答えてくださっています。
8章2節3節。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。 弱さを抱える私に聖霊が働いてくださり、用いてくださっているのです。皆さんに聖霊が働き用いてくださっているのです。
さて、先ほどローマの信徒への手紙3章以降で「信仰義認」が重点的に語られているとして、8章までの小見出しを読みました。7章7節には「内在する罪の問題」とありました。15節以下を拾い読みしますので聞いてください。 15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。17 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。 サウロと呼ばれていた時代に一生懸命クリスチャンを迫害していたパウロが、今、自分が経験している「信仰義認」すなわち、イエス・キリストを信じ従うことですべての罪が赦され、主の福音を伝える者として用いられている。この現実への深い深い感謝の言葉です。
でも私はここでチョット疑問が湧くのです。主イエスへの信仰を持つことで罪赦される。しかし、その信仰は聖霊が与えてくださる。私たちはただ心を開いて福音を受け入れるだけです。だとしたらです。「これって三位一体の神様の自作自演じゃないのかな?」と言う疑問です。私たちがしなきゃいけないこと、あるいはしたことって、きっかけは様々ですが、ただ謙虚に心を開いて聖霊を受け入れただけです。 そうなんです、神様は私たちを愛したくて愛したくて仕方ない方なんです。私たちが幸せな日々、幸せな人生を歩んで欲しくて仕方ない方なのです。
本日与えられた8章5節6節です。肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。復活され主イエスは神様の御許へ帰られる際に、弟子たちに聖霊を送ると約束してくださいました。私たちの信仰は「心を開いてその聖霊を受けとる」ことで始まります。そして聖霊の導きによって歩むのです。これが本質を一つとする三位一体の神、父子聖霊なる神様への信仰です。私たちを愛したくて愛したくて仕方ない神様が、御心を目に見える形で示してくださった出来事。その始まりこそがクリスマスの出来事なのです。 
ヨハネは福音書の冒頭で証言します。初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
このクリスマス・クランツに灯された一本の光を見ながら、罪を取り除くためにお生まれになったみどりごの誕生の時、クリスマスに備えて行きたいと思います。そしてこの素晴らしい知らせを隣人に伝えたいと思います。祈りましょう。