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山形六日町教会

2023年11月19日

聖書:ホセア書12章4~7節 ローマの信徒への手紙15章1~6節
「忍耐と慰めの源」波多野保夫牧師

説教シリーズ「あなたへの手紙」の33回です。新約聖書にはヨハネの黙示録を含めて22の手紙がありますが、これらの手紙は当時の教会であり、当時の人々に宛てて書かれただけではなく、2000年後に地球の裏側にあります山形六日町教会とここに集う私たちに宛てた手紙なのです。
現在、使徒パウロがローマの教会に書き送った手紙を読み進めています。本日与えられた15章は私たち強い者と始まっていますが、14章は信仰の弱い人を受け入れなさい。と始まっていました。14:1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。2 何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。こちらから始めましょう。パウロがここで言う信仰の弱い人とは、私のことではありません。律法の縄目にガチガチに縛られてしまっている人のことです。多神教の世界に置かれていたローマの教会では、町中にある偶像に捧げられた肉を手に入れて食べることが問題になっていたのです。
パウロは神学的に正しい答えを次の様に言いました。偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。(Ⅰコリント8:4,10:19) そもそも偶像は神様でも何でもないんだから気にすること自体ナンセンスだ。そんなことにとらわれているのは「信仰が弱い」人だ。確かに律法にはブタなど蹄(ひづめ)の割れていない動物の肉を食べてはいけないなどと書かれている。しかし、主の十字架は信じる者を律法の縄目から自由にしてくれたのだ。だから私たちが守らなくてはいけないことは「神様と自分と隣人を愛すること。」ではないか。神学的に、あるいは理性的に正解ですが、パウロは続けて信仰的に正しい態度を述べます。
14章14節15節。それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。 あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。何を食べたら不信仰だと言うことはない。だけどそのことで傷つく「信仰の弱い人」がいるのなら、躓きにならない様にしなさい。「信仰の弱い人」の為にもキリストは死んでくださったのだから。パウロは偶像に捧げられた肉を食べて良いのかと言う問いについて「ローマの信徒への手紙」14章だけではなく「コリントの信徒への手紙Ⅰ」8章と10章でも繰り返し語っています。
初代教会においてこれはキリスト教信仰とは何かを問う大きな問題だったのです。誕生したばかりのキリスト教はユダヤ教ナザレ派と呼ばれユダヤ教の一派と見なされていました。ユダヤ教は今日に至るまでイエス・キリストを救い主、すなわち私たちが信じて従うべき唯一の方だと認めようとしないで、律法に縛られたままになっています。
ユダヤ教と私たちの信じるキリスト教とはハッキリ違います。その上で、未だに律法に捕らわれている「信仰の弱い」クリスチャンを裁いてはいけない。彼らの妨げになるようなことは避けなさい。なぜならキリストはその「信仰の弱い」クリスチャンのためにも死んでくださったのだから。
私たちはお店で買って来たお肉を普通に美味しく食べていますから、現実感の乏しい話かと思いますが、私はこんなことを思い出します。50年以上前、学園紛争があちこちで起こっていた時代でした。私はある神学生が聖書の上に腰かけるのを見てショックを受けたことが記憶に残っています。たしかに、この聖書は紙の束にインクで文字が印刷されたものです。修道士が一字一字を書き写していた時代と違い、大切にするからと言って毎週金庫に保管する必要はないでしょう。大切にすべきなのは書かれている言葉自体であり、書かれている内容そのものです。この神学生には、幼いころから聖書をうやうやしく奉(たてまつ)るような環境で育ったことへの反発があったのでしょう。理性的に言えば彼の態度はなんら非難される筋合いのものではありません。ですから聖書と言う印刷物にこだわりを持つ私は「信仰の弱い者」となります。しかし、信仰的に彼の態度は正しくありません。少なくとも私の躓きになりかねなかったからです。
自宅に「仏壇や神棚」がある方もいらっしゃるでしょう。神学的に理解すれば「仏壇や神棚」は人間が拵(こしら)えた木製の造り物に過ぎませんし、そこに先祖の霊や神様が宿ることはありません。私たちの神様は天にいらっしゃいますし、信仰の先輩たちの国籍は天にあります。
ですから拝むのであればそれは偶像礼拝に近づきます。今は神様のみ許にある方を偲(しの)ぶ、あるいは神様がその生涯にあって与えてくださった恵みを思い起す。これがパウロの指摘に沿った理解ではないでしょうか。

本日与えられた15章1節2節です。15:1 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。2 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。パウロは、私たち強い者と語り始めていますが、「あなたは強いですか」と問われたらどうでしょうか?そもそも人間としての強さには、筋力や敏捷性などの身体的な強さ。病気にかかりにくいなど免疫力の強さ。ストレスを感じなかったり、強い意志を持ち続ける精神的な強さ。感情面での強さ、これは怒るのに遅く(ヤコブ書1:19)平静を保つ力、最近言われます鈍感力もそうでしょう。 他にも知恵に満ちた強さや金銭的な強さ、社会的な地位や組織内部での強さもあるでしょう。
もちろんパウロがここで言うのは信仰的な強さですが、私たちは肉体と心を持って社会の中で生きているのですから、先に述べた様々な強さが求められることと無縁ではありません。以前、20世紀の中ごろに活躍したアメリカの推理小説作家、レイモンド・チャンドラーの言葉を紹介しました。「強くなければ生きられない。優しくなれなければ生きている価値がない。」 なかなかの名言だと思うのですが、クリスチャンにとって「強い」とは、権力や財力、あるいは強靭な肉体を意味するのではありませんし、学校の成績でもありません。もちろんそれらが有って悪いわけではありませんが、私たちをおごり高ぶらせる危険が常にあります。確かに複雑化した現代においてある種の強さが望まれるでしょう。
パウロは言います。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。エフェソの信徒への手紙6章10節です。旧約聖書ヨシュア記には わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。(ヨシュア1:9)この様にあります。私たちクリスチャンの本当の強さ、それは共にいてくださる主に感謝し、主に委ね、主に依り頼むことにあります。その為にはみ言葉に聞くこと。祈ることが不可欠です。さらに賛美を共にし、献げていく。これは正にこの礼拝の時です。礼拝がいかに大きな恵みなのかを覚えたいと思います。礼拝に共に集えない方の為に祈りたいと思います。集えない時には礼拝の為に祈りたいと思います。
あらためて問いますので心の中で答えてください。あなたは強いですか? 「はい、私は強いです。」この様に答えた方はぜひその強さを保ち続けてください。み言葉と祈りによって保ち続けてください。
他の方の答えは「強い時もあれば弱い時もある」あるいは「わたしは弱い」でしょうか。実はこれは大切なことです。自分の弱さを知るとは自分の「罪深さ」を知ることだからです。自分が「神様と自分と隣人を愛する」ことに欠けがある。このことを知る時、実は強くなる一歩手前にいるのです。パウロは悪魔に与えられたとげを離れ去らせてくださいと祈りました。このとげは、マラリヤだとか激しい片頭痛だとか様々に言われますが良く分かりません。彼をひどく苦しめていたことは確かです。
コリントの信徒への手紙Ⅱ12章8節以下です。12:8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。自分の弱さを知るとは、体力や知恵の限界を知ることも大切ですが、何より自分の「罪深さ」を知ることです。自分が「神様と自分と隣人を愛する」ことに欠けがあることを知る時、私たちは強くなる一歩手前にいます。なぜなら弱さ、すなわち罪深さを知った時、私たちは謙虚にさせられるからです。自分の内側に頼るべきものを見出せないのですから、共にいてくださる主に感謝し、依り頼み委ねる以外にないことを知るのです。
これも以前お話ししたのですが、2013年の夏に私はBruce牧師に連れられてSan Diegoの中心にある教会に向かいました。教会に近づくと厳(いか)つい男たちが教会に入って行きます。週報に写真を載せましたが、何事かと思っていると、ホームレスだった方の一年間の社会復帰プログラムの卒業式でした。このプログラムは食べ物と住居を提供すると共に、ホームレスとなった精神的肉体的原因の解決に加えて、自立していくための訓練を行います。これは数学・英語・怒りへの対処・生活方法・いじめへの対処・親として・金銭管理など社会の中で生きて行くための学びなどです。そして何よりも聖書を学ぶことによって、生まれ変わって新しい人生を歩み始めることを目指したプログラムなのです。式は卒業生の家族に加え、現在プログラムを受講中の人や卒業生など200人以上が参加しました。礼拝に続いて卒業証書授与が行われ、卒業生代表のスピーチが続きました。私はそのスピーチが忘れられません。 父は飲んだくれて薬をやり、ジェイルへ。家族はフードチケットで食いつないでいました。私は幼いときにレイプに合い、やがて薬や売春に手をそめました。友達をAIDSでなくした果てに、ホームレスになったのです。
やがてこのプログラムに参加し聖書の御言葉に接しました。『すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。』コリントの信徒への手紙Ⅱ12章9節のみ言葉に続いて、彼は涙ながらに5章17節を読み上げました。『だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。』 そして「イエス様ありがとー」と締めくくったのです。会場は総立ちで拍手が鳴り止みませんでした。 私は10年前に聞いた、ホームレスだった方の証しを忘れることが出来ません。主を知ること、主の大いなる愛を知ることで強くなったこの人は、聖霊の力強い働きを証ししてくれたのです。そしてその同じ聖霊が、今私たちに働いてくださっているのです。 
もう一度15章1節を読みましょう。15:1 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。聖霊の働きによって、自分の至らなさ、すなわち「罪」を知り主に対して謙遜さを取り戻した私たちは、主により頼み、主に委ね、主に従う時に、強い者となるのです。強い者となる、いや強い者としていただくのです。
それでは、強くしてただいた私たちはどうすべきなのでしょうか? 自分の満足を求める のであれば、不満にばかり目が行っていた弱かったころの自分に戻ってしまいます。そもそもキリストは自分の満足を求めることをなさいませんでした。ではどうなさったのでしょうか? 大いなる愛をもって、強くない者の弱さを担ってくださったのです。私たちの抱える弱さ「神様と自分と隣人を」愛することへの弱さ、すなわち「罪」を十字架での死をもって贖ってくださったのです。私たちのなすべきことは2節。2 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。先ほどホームレスの方の社会復帰プログラムについてお話ししましたが、これはSan Diegoの町にある100ほどの教会、企業、団体、学校がスポンサーになって運営されています。善を行って隣人を喜ばせているのです。
この様な働きはキリスト教国と呼ばれる国だからこそ出来る面が確かにありますが、日本においてもかつて教会が社会に奉仕する働きが盛んにおこなわれていました。教会自体が高齢化と会員減少に苦しんでいる現在、低下していることは否めませんが、キリスト教系のこども園や学校、あるいは各種施設や病院は創設時の篤い思いを受け継いで頑張っています。
私たちに何が出来るのでしょうか? 最近では「親切の押し売り」などと言う言葉も言われますが、人に親切にすること自体難しさがあるのも事実です。いつ、どこで、だれに、何を、どの様にすれば、「キリストが喜んでくださるか」この様に考えることが必要でしょう。迷うことがあれば祈るのです。そして勇気を出して善を行って隣人を喜ばせる。 人の善意はそれを受ける立場になった時には喜んで受けることも大切です。そこにお互いの喜びと祈りが生まれるのであれば最高です。パウロが2節で言う互いの向上とはこの様にして一緒に主に近づく事なのでしょう。ホームレスだった卒業生は「イエス様ありがとー」と心の叫びで締めくくりました。これこそが心からの感謝の祈りに違いありません。
それでは、山形六日町教会としてはどの様に隣人を喜ばせるのでしょうか。これは明白です。教会総会で承認された活動方針に次の様にあります。【 聖書に述べられています、イエス様のご命令 〔神を愛し、隣人を愛し、(マタイ22章)キリストの弟子を作り、洗礼を授け、教える(マタイ28章)〕それらに忠実な教会でありたいと思います。具体的には、礼拝を中心に神様を愛す、奉仕の心を忘れずに隣人を愛す:真に隣人を愛することは信仰に導くことです、キリストの働き人(弟子)を作り、洗礼をさずけ、教会員の霊的成長(イエスに似る)を促すことです。 】
私たち一人一人は、そして山形六日町教会は、主が喜んでくださるに違いないこれら一つ一つの業を祈りを持って行っていくのです。15章5節6節。15:5 忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、6 心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。 これはまさに私たちの礼拝の姿です。そして礼拝が終わると喜びに包まれてそれぞれ生活場へと帰って行きます。先週の週報の裏面に写真と共に在った言葉。「礼拝を終え、教会を出て行くこと。それは伝道の地へ派遣されること。」この言葉を思い出してください。祈りましょう。