HOME » 山形六日町教会 » 説教集 » 2023年11月12日

山形六日町教会

2023年11月12日

聖書:詩編44編9~12節 使徒言行録8章1~6節
「散らされるために集められた」波多野保夫牧師

本日はCS礼拝の中で、こども祝福式を持つことが出来ました。その中で「子供を祝福する」と言う小見出しが付けられています、マルコによる福音書10章13節から16節をお読みしました。10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。 私たちも聖書が伝える神様の言葉を素直に聞き、そして受け入れる者でありたいと思います。主に抱き上げていただき手を置いて祝福していただく者でありたいと思います。
さて、ヨハネの黙示録を読み進めて来ました説教シリーズ「わたしはすぐに来る」は、新約聖書の最後にあります言葉、すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」 アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。 聖書が語るこの希望の言葉を聞くことで閉じました。 今日から新しいシリーズ「使徒の働き」を通して、使徒言行録から初代教会が形づくられてくる際の聖霊の働きと、聖霊を受けたクリスチャンの祈りの姿を見て行きます。現在、説教シリーズ「あなたへの手紙」でローマの信徒への手紙を読み進めており、これと並行してのことになりますが、12月にはアドベントに入りますので、少し間隔があくことになろうかと思います。
今、この説教シリーズで、“聖霊を受けたクリスチャンの祈りの姿を見て行きたい”と申しました。注意していただきたいことが二つあります。一つは、使徒言行録を追うことから、シリーズ名を「使徒の働き」としたのですが、これは教会の働きであり、集うわたしたち一人一人の働きです。 もちろん使徒言行録は使徒ペトロやパウロの働きを中心にして福音の前進、すなわち迫害の中に有って発展していく教会の姿を伝えています。主イエスは あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。(マタイ16:18) この様におっしゃいました。 カトリック教会は使徒ペトロの後継者は歴代の教皇と理解しますが、プロテスタント教会では私たちが使徒ペトロの信仰を受け継ぐ者と理解します。ですから、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白をしたペトロの信仰を受け継ぐのは牧師一人ではなく、教会全体であり、集う私たち全員なのです。ですから、このシリーズは「聖霊を受けた山形六日町教会の働き」であり「聖霊をうけたクリスチャン、すなわち皆さんであり、私の働き」。これがテーマなのです。二つ目は“聖霊の働きと、聖霊を受けたクリスチャンの祈り”と言いました。「聖霊を受けたクリスチャンの働き」としないで「クリスチャンの祈り」としたことです。 もちろん聖霊が働いてくださることで私たちの信仰が養われ、聖霊が働いてくださることで山形六日町教会は136年の歴史を刻んできましたし、これからも前進して行きます。聖霊を受けた私たちも教会も様々なことを行うでしょう。
しかし、聖霊の働きを正しく受け止めるためには祈りが欠かせません。これも今日のCS礼拝に与えられた聖書の言葉なのですが、そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。(ルカ6:12) この様にありました。 この翌日、主は多くの弟子の中から12使徒を選ばれたのです。主は祈りを欠かされませんでした。ましてや私たちです。祈りを伴わない行動であり働きは危険です。自分を中心に置いた行動になってしまう危険が常にあるからです。「神様が何を望んでいらっしゃるのか、どんな判断を喜んでくださるのか」と考え、「神様と自分と隣人」に対して謙虚になること。このために祈りは欠かせません。 「波多野先生、それじゃあ何もしないで祈っていれば良いんですか?」なるほど、そう来ましたか。祈りは神様との対話です。いつも言ってます様に、神様に「ありがとうございます。」「ごめんなさい。」「お願いします。」この様に祈れば必ず答えてくださいます。もし答えが聞こえないのならば、よく耳を掃除してからもう一度祈ってください。必ず答えてくださいます。そして、その答えに従って行動するのです。ただし、聞き違いもありますから注意が必要です。もし神様の答えが「神様と、自分と、隣人を愛すること」から外れているのであれば、それは悪魔のささやきです。牧師や長老さんに相談してください。 「波多野先生、もう一つ。聖霊の働きを受けて“行動しろっ”て言ったけど、病気の時はどうするんですか?」 その時は、隣人と教会と世界の為に祈ってください。祈ることはそれ自体が大切な行動です。
さて、前置きが長くなりましたが、今日与えられた8章1節は、サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。 この様に始まっています。 聖霊が降って教会が誕生してから2年くらい後の西暦32年ころのことです。後にパウロと呼ばれるサウロは、ファリサイ派に属する熱心なユダヤ教徒でイエス・キリストを主と崇めるキリスト教徒を滅ぼすことこそが「神様に忠実なこと」と理解していました。だから一生懸命「神様を冒涜するクリスチャン」を迫害していました。当時のユダヤ人は広く地中海沿岸地方に住み着いていたのですが、多神教の世界に有って唯一の神様だけを信じる彼らは、地域の人と同化しません。その一方でユダヤ人同士はお互いを信じあう絆を強く持っていたのです。この強い信頼関係こそが、ユダヤ人がそれぞれの貨幣と他の地域の貨幣を交換する両替商を営むことが出来た理由だと言われています。これは余談ですが、ベニスの商人の話であり、現代において世界金融をユダヤ人が握っていると言われる原点がここにあります。
さて、使徒言行録6章に依れば、地中海沿岸の各地からやって来たユダヤ人たちはギリシャ語を話したのに対して、生粋のユダヤ人はヘブライ語を話しました。異なった背景をもってユダヤ教徒からクリスチャンとなったユダヤ人同士の間に、食糧配分のことで争いが起きました。初代教会の中にも争いは起きたのです。そこで使徒たちが出した結論は、ステファノたち7人にこの問題の解決を任せて自分たちは、祈りとみ言葉の奉仕に専念すること(使徒6:4)でした。 後の教会、特に改革長老教会では、み言葉に仕える務めを主に牧師が、教会を治める務めを長老たちが担い、隣人を愛する奉仕を執事が担うこととしました。私たちの様に規模の小さな教会では、愛の業は長老さんが中心となってリードし、教会全体で担います。
それではみ言葉を語る務めは牧師だけが担うのかと言うとそうではありません。 使徒言行録7章がステファノの説教を伝えているように、改革長老教会の伝統の中では、長老も説教を語るのです。ステファノは主イエスを救い主と認めようとしないユダヤ教の宗教指導者や民衆の恨みを買って殉教します。7:59 人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。60 それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。(7:59,60)私はこのステファノの言葉を聞くと慰めを感じるのです。主イエスの十字架上での言葉「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」この言葉に重なるからです。主イエスの語られた 敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ:44) この主の言葉は私たちにとって重い課題ですが、実際に行うことが出来た人間がいたことを知るからです。
さて、8章1節は、サウロはこのステファノ殺害に賛成していたと言います。このサウロは続く9章でクリスチャンを迫害するためにダマスコに向かう道で、復活された主イエス・キリストに出会って回心し、パウロと呼ばれる様になるのですが、彼の回心に関しては別の機会のお話ししましょう。今日注目したいのは1節の後半です。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。ここに神様の偉大なご計画、聖霊の豊かな働きを見ることが出来るからです。使徒たちは福音伝道の拠点エルサレムに残り教会を守りました。ステファノが石を投げつけられ殺されたばかりです。使徒たちはそのエルサレムの町に留まって教会を守り福音の灯を守り続ける道を選び取りました。一方、多くのクリスチャンはエルサレムから逃れてユダヤとサマリア地方に散って行き、その地に福音を伝えたのです。
ここで、ユダヤとサマリアの歴史的関係について触れなければなりません。1000年ほど前、ダビデ王とその子ソロモン王の時代に栄華を誇ったイスラエル王国はソロモン王の死と共に紀元前922年頃北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂してしまいましたが、どちらの王国も滅亡に至るほとんどの時代、神様に忠実でなかったのです。多くの預言者が遣わされて悔い改めを迫ったのですが、王たちも民衆も聞く耳を持ちません。イスラエル王国は紀元前722年にアッシリアによって滅ぼされてしまいました。アッシリアは住民に他民族との結婚と異教の神への礼拝を強要してユダヤ人としての純粋性を奪ったのです。北イスラエル王国の都がサマリアに置かれていたので、サマリア人と呼ばれました。一方のユダ王国は、紀元前586年にバビロニアによってエルサレム神殿が破壊され、人々はバビロン捕囚を経験したのですが、多神教の地バビロニアで唯一の神への信仰を懸命に守り抜いたのです。紀元前538年、バビロン捕囚から解放されたユダヤ人は純粋性を失ったサマリア人を蔑(さげす)み交際しようとはしなかったのです。エルサレムに戻った彼らは神殿の再建に取り掛かかったのですが、サマリア人が申し出た協力を断ってしまいました。(エズラ記4:1-3)汚れた者たちには神殿に触れさせないと言うことでしょう。
そんな背景を持って、500年後に主イエスが語られたのは「良きサマリア人」の譬えです。強盗に襲われた男が倒れているのを見て、同胞の祭司やレビ人は道の向こう側を通って行ってしまった。ユダヤ人が蔑んでいるサマリア人だけがその男を助けました。(ルカ福音書10:30-35)主イエスがサマリアを通って旅をされた時のことです。喉が渇いたので井戸に水を汲みに来ていたサマリアの女に「水を飲ませてください。」と言われました。女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。(ヨハネ福音書4:9)ヨハネ福音書はこの様に語っています。そして主は500年以上にも渡る憎しみを乗越える方法を語られるのです。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」ユダヤ人は当然エルサレム神殿で礼拝していました。サマリア人はエルサレム神殿には入れてもらえないので、サマリアにあるゲリジム山で神様を礼拝していました。700年前に純粋な血統と信仰を捨てた人たちだとユダヤ人たちに見下されていたからです。そして主は続けて言われました。4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
私たちは今、霊と真理をもって、主イエス・キリストの父でいらっしゃる神様を礼拝しています。(ヨハネ福音書4:23,24) この礼拝の場は、恵みの場であると同時に和解の場、真の平和の場です。主イエス・キリストが共にいてくださること、そして私たちを愛してくださっていることを一番強く感じるからです。
その一方で「神様と人と隣人を愛しなさい。」このご命令が心に響く場所であり、このご命令を満たすことが出来ない自分が見えてくる場でもあるはずです。礼拝の場は、また自分の罪を感じる場なのです。そして、その罪の為に十字架に架ってまで愛してくださった主イエス・キリストは今、神様の御許に有って従う者に永遠の命を約束してくださっている。恵みを感じ罪を感じさらに深い恵みを感じる。この真理を聖霊が証ししてくださっている。これが主イエスが 24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。 と語られたことの意味なのです。
ユダヤとサマリアの歴史的関係に触れることから長い寄り道をしてしまいましたが、注目したいのは1節の後半でした。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。大迫害の中、教会を守るために使徒たちはエルサレムに留まったのですが、信徒たちはユダヤだけでなくサマリアにも逃げて行きました。
キリストに従う者たちは500年以上に及ぶ、ユダヤとサマリアの壁を乗り越えたのです。そして彼らが行ったこと、それが8章4節です。さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。彼らはサマリアの地でも主イエス・キリストが神の独り子・救い主であることを宣べ伝えたのです。そして5節。フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。 このフィリポは12使徒として主に選ばれたフィリポではなく、ステパノと同じ時に執事として選ばれた7人の一人(使徒6:5)です。現代における牧師ではなく、長老や信徒として愛の業を担っていたのですが、そのフィリポがキリストを宣べ伝えたのです。8:6 群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。フィリポの行ったしるしについて、続く7節は、心の病を癒したり体の不自由な人を癒したことを告げています。私たちは主が与えてくださる多くの癒しの業を現代医学を通して知るのですが、フィリポがどの様にそれを行ったのか、聖書は語っていません。しかし、そこに深い祈りと憐みの心があったことは確かです。フィリポの篤い祈りを主が聞き届けてくださったのも確かです。
今日、私たちは700年に渡るユダヤとサマリアの憎しみ合いが福音によって乗り越えられたことを聞きました。かつて主イエスがサマリアの女に告げられた まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。この言葉がユダヤ人とサマリア人のクリスチャンに実現したのです。最初に読んでいただいた詩篇は、かつてモーセを通して与えられた栄光が敵によって奪い取られ迫害を受けての詩です。44:12 あなたは我らを食い尽くされる羊として 国々の中に散らされました。確かに神様はこのような大きなマイナスを与えられます。私たちの人生も例外ではないでしょう。嬉しいこと、楽しいことだけではありません。思い描いた道が閉ざされる、夢が破れる、理由もなく責められる私は正しいのに。最愛の人との別れ、病の床に臥す。確かに人生に於ける大きなマイナスです。そもそも神様にとって最大のマイナス。それは、最愛の独り子を罪を犯し悔い改めようとしない人間の為の犠牲とすることでした。
今日、ご一緒に読んだ聖書から聞きたいのは、エルサレム教会に起こった大迫害、大きなマイナスを、ユダヤ人とサマリア人の間にある高い壁を乗り越えるためのエネルギーに変えてくださった主の御計画であり、それを受け止めた信徒たちの信仰であり祈りです。私たち一人一人も彼らと同じようにマイナス要因を抱えています。教会に関して言えば、礼拝出席者の減少であり、会員の減少であり、働き人の減少です。神様はこのマイナスをプラスに変えてくださる方です。
2000年の教会の歴史と139年の山形六日町教会の歴史、そして皆さんの経験がそれを証ししているのではないでしょうか。先週の召天者記念礼拝は普段に増して大勢の方と礼拝を共にすることが出来ました。そこでは諸先輩がたの信仰であり、私たちの伝道への志が用いられました。12月に入るとアドベントを迎えます。これは大きなチャンスです。
週報にアメリカの教会の駐車場出口の写真を載せました。「今、あなた方は伝道の地に派遣される。」 本日の説教題を「散らされる為に集められた」としました。喜びと希望を持って散らされて行きましょう。祈ります。