HOME » 山形六日町教会 » 説教集 » 2023年11月5日

山形六日町教会

2023年11月5日

聖書:詩編27編1~3節 ローマの信徒への手紙14章13~23節
「確信に基づかないことは罪」波多野保夫牧師

司式の長老が祈ってくださった様に、本日は既に神様の御許へ召され、今は天上の礼拝に集ってらっしゃる諸先輩がたを覚えて礼拝を守っています。 また礼拝後には、ご一緒に教会墓地に行き生涯を導いてくださった主に感謝し、祈りの時を持ちたいと思います。さらにお手元の週報の表紙にあります様に、今週の金曜日11月10日は1887年に山形六日町教会の前身、一致教会山形講義所が創立された日に当たります。この136年間の歩みにあって六日町教会は幾多の困難を乗越えて来ました。山形の大火にあっては会堂を失い、戦時中には軍部の干渉を受け、数年前は厳しいコロナ禍に見舞われました。時々に有って、先輩方であり私たちの祈りを聞き届けてくださったことをあらためて覚え、主に感謝します。

さて、本日は説教シリーズ「あなたへの手紙」の32回です。先輩方も礼拝の中でみ言葉を聞いたに違い無い「ローマの信徒への手紙」は、使徒パウロがキリスト教信仰の神髄をローマにある教会に書き送った手紙と言われています。説教題を「確信に基づかないことは罪」としましたが、「確信犯は罪に問われない」と言う話ではありません。キリスト教の言う「罪」から始めましょう。一口で言えば「罪」とは律法に反することです。日本の法律に反すれば逮捕されるのに似ていますが実は大きく違います。律法の基は「モーセの十戒」です。「全知全能の神様を聖としなさい、崇めなさい」と始まり、「父母を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、隣人の財産、隣人の妻を欲してはならない。」と続く10の戒めです。3000年前の社会は戦争に勝って奪い取ることが一種の産業と言った様な社会でしたが、そんな時代にあって神様が与えてくださった幸せを得るための規範。それが十戒です。しかし、時代と共に社会が複雑化するのに伴って様々な律法が加わり、その数はなんと613に及ぶそうです。
主イエスが活躍された時代、2000年前の宗教指導者たちは、例えば「安息日を聖としなさい」と言う戒めを、安息日に働いてはいけない、労働してはいけないとしました。確かに仕事に心を奪われているのであれば、神様の愛であり恵みに思い至ることはありません。この状況は私たちの時代に於いても同じです。しかし、当時の宗教指導者たちは「安息日に穴に落ちた人を助けるのは労働だからしてはいけない。」と言っていたのです。一事が万事、人々の幸せのために与えられた律法を、人々を縛り付け自由を奪うものとしてしまっていたのです。こんな時代にあって613の律法の神髄を主イエスはズバっとおっしゃいました。「神様と自分と隣人を愛しなさい。」そして、これに反することがキリスト教の「罪」です。殺すことはもちろん、姦淫も、盗みも、偽証も、隣人の財産、隣人の妻を欲しがることも決して人を幸せにしませんし「隣人を愛する」ことにはなりません。
ですから「罪」です。しかし、「隣人を愛すること」はそれだけに留まりません。もっと積極的です。敵を愛し、自分を迫害する者の為に祈りなさい。(マタイ5:34)いかがでしょうか、実際に行うのは難しい言葉ですが、主イエス・キリストは正にこの言葉の通りになさった方です。そして、これこそが主に従って行く先輩たちの、そして私たちの目指すべき姿勢なのです。
前回お読みした、「ローマの信徒への手紙」14章1節から12節の復習から始めましょう。「兄弟姉妹を裁くな」と小見出しが付いていました。西暦50年代半ばにローマ教会の内部では、ユダヤ教から転向したクリスチャンと他の宗教からクリスチャンになった者との間に、信仰上の対立が起こっていました。パウロは「食物規程」、なかでも偶像に備えられた肉を問題にする人たちや「特別の祝祭日を重んじる」人たち、すなわち律法の細かい規定や先祖から伝えられしきたりに忠実であろうとする人たちを「信仰の弱い人」と呼び、次の様に言っています。
偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。(Ⅰコリント8:4,10:19)「そもそも偶像なんて何の意味もない。電信柱と同じじゃないか。気にする方がおかしい。」と言う訳です。ですから主の福音を正しく理解するのであれば、特定の食べ物や特定の日を気にする必要などない。しかし、「そういった本質的でない問題に対しては寛容でいなさい。」この様に言うのです。しかし、律法の定めにがんじがらめになっている人を裁いてはいけない。なぜならば、その人の福音理解は狭すぎるけれど、一生懸命神様の言葉に忠実であろうとしているのだから。
以前ある教会で起こった話です。一人の御婦人が礼拝中帽子をずっとかぶっていらっしゃいました。礼拝が終わると、司式を担当した長老さんがその婦人の許に行き、「礼拝中は帽子を取りなさい」と言ったそうです。その言い方がチョットきつかったのでしょうか、次の週の礼拝にそのご婦人の姿はありませんでした。このご婦人は、長い間のイギリス暮らしから帰国されて始めてこの教会の礼拝に出席されたのだそうです。イギリスではエリザベス女王がウエストミンスター寺院での礼拝で帽子を付けてらっしゃる姿が報じられていたように、婦人が礼拝で帽子をかぶるのは身づくろいを整えることなのです。聖書の言葉です。女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。(コリントの信徒への手紙一 11:5)この時、司式の長老さんも、帽子をかぶった婦人もどちらも真剣に礼拝を守ろうとしていたことは確かなのですが、すれ違いが起きてしまいました。わたしがアロハシャツで講壇に立てば皆さんは説教を聞く前に心を乱すかも知れませんが、アロハはハワイでは正装です。「気配り」とか「郷に入っては郷に従え」と言うことも必要なのでしょう。
しかし、聖書が「好色、わいせつ、姦淫、泥酔」など(ガラテヤ5:19-21)を避けなさいと言っているのに、「郷に入っては郷に従えだ。」などと言い分けの言葉に使ってはいけません。人の至らなさや良くない点には気づきます。その人を愛する故に注意してあげたいと思っても、それは難しいことです。もちろん無関心を決め込むことは隣人愛することではありません。クリスチャンどうしであっても難しさはかわりません。普段からの人間関係であり信頼関係が問題になります。さらに、注意する方、される方が主イエスを見つめていることであり、お互いが主と隣人に対して傲慢にならない、へりくだった者であることが求められます。
前回、大作曲家、バッハやヘンデルが楽譜にS.D.G.と書き残したことをお話ししました。『ラテン語でSoli Deo Gloria「ただ神にのみ栄光を」と言う意味です。彼らの様に素晴らしい作品を生み出すことは出来ないかも知れませんが、私たちも心の中にS.D.G. 「ただ神にのみ栄光を」と書き記す日々を過ごしたいと思います。神様と自分と隣人の前で謙虚な者でありたいと思います。』 この半月ほどのみなさんの日々はいかがだったでしょうか? 心の中にS.D.G. 「ただ神にのみ栄光を」と書き記す日々だったでしょうか?その様な日々は喜びに満ちた日々に違いありません。なぜなら私たちが、神様と自分と隣人に対して、謙遜になるほどに主イエスの愛がハッキリと見えてくるからです。

さて、ここまで前回の復習をしてきましたが、パウロはこれをまとめて14章13節で語ります。従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。お互いに信仰の弱さを抱えた私たちです。お互いのつまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟姉妹の前に置いてはいけないのです。確かに主は「何を食べようか、何を着ようかと言って思い煩うな」とおっしいましたが、私がTシャツでみ言葉を語れば多くの方のつまずきになるでしょう。避けるべきです。それからこれはいつも言っていますが、うわさ話はダメです。「うわさ話は蜜の味」などと言いますが人を傷つけます。しかし、うわさ話と安否を問うこととはまったく違います。祈りを伴うかどうかです。全く違うのです。 
14章14節以下を読んで行きましょう。 それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。パウロはこれを主イエスの教えから知ったのだと言います。
マルコによる福音書7章が伝えています。 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」(マルコ福音書7:18,19)食物が人の心を汚すのではありません。それでは何が人を汚すのでしょうか? 
イエスは20: 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(マルコ:20-23)主がここに並べられた様なことは私とは無関係だとおっしゃるでしょう。ぜひそうであってください。しかし私の場合、後の方にある ねたみ、悪口、傲慢、無分別 などになると結構怪しくなります。無分別とは、自分にとらわれてしまうこと。後先を考えないことです。ねたみは人をうらやましく思うあまり、あら捜しをしたり、自己中心になる。その本質は、隣人への愛が欠けていることですから、周囲から疎まれる自分になり、結果として自分自身を愛していないことに通じます。少し回りくどくなりましたが、パウロはイエス様のことば、「食べ物が人を汚すことは無いのだ。」この言葉を14節で思い起しているのです。
15節。あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。主イエス・キリストの十字架での死、これは律法を乗越える出来事でしたから、クリスチャンは主に従うことで律法から自由になります。しかし、ユダヤ教から回心したクリスチャンは、幼い時から家庭で律法を叩き込まれて育ってきていたので、偶像に捧げられた肉を平気で食べている人たちを見て心を痛めたのです。そんな、信仰の本質的ではない部分にとらわれてしまっている人たちをパウロは「弱い人」と呼びましたが、その様な人もキリストにある兄弟姉妹なんだ。だから裁いたり馬鹿にしたりしてはいけない。なぜならキリストはその人をも愛し、その人のためにも死んでくださったのだから。
16節。ですから主の福音を信じて律法の規定を乗越えることが出来るあなたがたは正しいし、善いことをしている。しかし、律法にとらわれたままの弱い人を裁いたり苦しめたりするのであれば、それは間違っている。17 神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。神の国が地上に到来して、この世の全ての悪が滅ぼされるのは終末の時を待たなければなりません。しかし、その先駆けとしての教会があります。聖霊によってその教会に呼び集められて、礼拝を捧げる私たちがいます。かつて礼拝に集った諸先輩がいました。クリスチャンは聖霊によって与えられる義と平和と喜びを知って、喜びに包まれた生涯を送ります。そして主が与えてくださる喜びを分かち合います。これが伝道です。ですから、私たち自身がまず喜んでいる必要があります。「波多野先生、それじゃクリスチャンには悲しみや苦しみはないのですか?」信仰を持っていても持っていなくても、人生に於いて起きる出来事はほとんど変わらないでしょう。しかし、変わることがあります。それは苦労を苦労と感じるのかどうかであり、苦労の中にその意義であり希望を見出すことが出来るかどうかです。
ピラミッドを造らされたエジプトの奴隷たちには3種類の人たちがいたそうです。 ①毎日毎日が辛い仕事の連続だ、もうイヤダ ②今日の監督はチョットとろい。上手く取り入って少しでも楽をしよう ③私は何千年も残るピラミッドを造っているのだ。頑張って善いものをつくろう!  誰の人生が幸せだったのでしょうか? さらに4番目の奴隷たちがいました。アメリカの黒人奴隷たちです。 ④奴隷と言う絶望的な環境の中でアメージング・グレース(くすしき(不思議な・驚くべき)み恵み)を歌い希望を持ち続けたのです。 彼らだけではありません。アウシュビッツの聖人と呼ばれたコルベ神父であり、マザーテレサもそうです。十字架で示された愛を知る多くの人は希望を持って生きることが出来るのです。 そして、主はおっしいました。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ福音書28:20) この事実を知った先輩たち、そして私たちも希望を持って生きることが出来ます。
18節19節。 このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。 だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。ローマの信徒への手紙14章を通してパウロは言うのです。「本質的でない問題に対しては寛容でいなさい。躓く者がいるのならばそれを避けなさい。」
そして22節23節です。 あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。確信を持っていない人と確信を持っている人について語りましょう。確信を持っていない人です。週報の裏面にイソップ物語にあります「ロバを売りに行く親子」を記しました。ろばを市場に売りに行く親子の話ですが、周囲の人に「ロバに誰も乗せないで歩いているなんてもったいない。」と言われると父親は息子をロバに乗せ、「元気な若者が楽をして親を歩かせるなんて、ひどいじゃないか。」と言われると、今度は父親がロバにまたがり「自分だけ楽をして子供を歩かせるとは、悪い親だ。いっしょにロバに乗ればいいだろう。」「2人も乗るなんて、重くてロバがかわいそうだ。楽にしてやれ。」と言われて、棒にロバの両足をくくりつけて吊り上げ、2人で担いで歩いて行くと、不自然な姿勢を嫌がったロバが暴れだし、川に落ちて死んでしまった。と言う話です。周りの人に言われることにばかり気を遣う人、確信を持っていない人です。

最初に読んでいただいた詩篇27編では多くの試練を経験したダビデ王が、主への信頼を歌っています。27:1 【ダビデの詩。】主はわたしの光、わたしの救い わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦 わたしは誰の前におののくことがあろう。2 さいなむ者が迫り わたしの肉を食い尽くそうとするが わたしを苦しめるその敵こそ、かえって よろめき倒れるであろう。3 彼らがわたしに対して陣を敷いても わたしの心は恐れない。わたしに向かって戦いを挑んで来ても わたしには確信がある。本日の説教題を「確信に基づかないことは罪」としました。
キリスト教の信仰は主イエス・キリストの愛を信じて従うことです。そしてこの信仰には恐れを乗越える力があります。希望を持って生きる力です。残念ですがクリスチャンも「罪」と無縁ではありません。「神様と自分と隣人を愛すること」がぐらついてしまうことがあります。
でも、そんな時に立ち返るところを知っているのがクリスチャンです。十字架に架り復活された主イエス・キリストです。諸先輩方に注がれた主の愛は今日私たちに注がれています。神様は私たちを愛したくて、愛したくてしょうがない方なのです。この愛への信頼、この愛への確信をもってご一緒に喜びの人生を歩んで参りましょう。祈ります。