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山形六日町教会

2023年10月15日

聖書:レビ記19章17~18節 ローマの信徒への手紙14章1~12節
「兄弟姉妹を裁くな」波多野保夫牧師

この説教シリーズ「あなたへの手紙」は、新約聖書にあります2000年前に書かれた21の手紙は、当時の教会とそこに集うクリスチャンに宛てて書かれただけではなく、2023年に生きる私たちにも豊かな主のみ心を伝えてくれている。この事実を確認して感謝をもって読み進めていますが、現在は使徒パウロが書き送った「ローマの信徒への手紙」です。
当時、世界の政治・経済・文化の中心地として栄えていたローマ帝国の首都ローマには多くのユダヤ人が住んでいました。
初期のキリスト教はユダヤ教の一派と見なされていたこともあって、西暦30年ころ、すなわちペンテコステの日に聖霊が降って教会が誕生してから程なくして、ローマにも主の福音が伝えられたのではないかと言われています。
使徒言行録2章には、各地からエルサレムにやって来ていた人たちが、自分たちの生まれ故郷の言葉で、弟子たちが語る主の福音を聞いて驚き怪しんだ。(2:1-13)とあり、そこにはローマからやって来て滞在中の者(2:11)もいました。その日に、ペトロの説教を聞いて三千人程が洗礼を受け仲間に加わっり(2:41)、彼らの何人かが遠くローマに主の福音を伝えたのでしょう。いずれにしろ西暦50年ころには、ローマに「家の教会」と呼ばれます有力者の家で主の日ごとに礼拝を守る、都市教会連合が出来ていただろうと言われています。
聖書(使徒・Ⅰコリント)には、伝道者アポロがエフェソやコリントで福音を伝えたとあります。ローマに「家の教会」が多く生まれたのも、アポロの様な伝道者たちの努力があったからに違いありません。しかし、使徒言行録18章25節は次の様に言います。アポロは主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。西暦50年代の半ばにコリント教会で活動していたパウロは、ローマから来たクリスチャンによって「家の教会」の様子を聞いたのですが、主の福音を正しく理解して、健全な教会を形作っていくうえで甘さがあることを知ったのです。そこで、ローマ教会を訪問することにしたのですが、パウロにはエルサレム教会に献金を届ける大切な仕事があったので、まずはキリスト教信仰の神髄、すなわち主の福音を丁寧に書き送ったのが、この「ローマの信徒への手紙」なのです。その中心にあるのは、人は主イエス・キリストへの信仰のみによって罪が赦され救われる。いわゆる「信仰義認」です。しかし、異教のなかで礼拝を守る「家の教会」は、ユダヤ教から転向したユダヤ人クリスチャンと、異教からキリストを信じるようになった人たちの間に、根深い対立がありました。
本日与えられた14章1節以下の小見出しに「兄弟を裁いてはならない」とあるのは、教会の中に、「裁き合い」があったことを示しています。パウロはその「裁き合い」を乗越えるにはどの様にしなければならないのかを語るのです。1節:信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。ローマ教会で起きていた裁き合いを乗越えるために欠かせない命令です。
ところで先ほど司式の市川長老に12節までを読んでいただいたのですが、皆さんどこかひっかかるところ、なかったでしょうか?私は14章7節8節です。 14:7 わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。8 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。私たちは厳しい世の中に有って、他の人に迷惑をかけないためにも、自分の生活を守ることで精いっぱいと言う面があるのではないでしょうか。さらに、私利私欲に駆られて他人のことなど心に留めない人が目に付きます。様々なことで余裕がなくなりギスギスした社会になっていますが、少なくともキリストの愛を知る私たちは、それほどエゴイストではないはずです。しかし、あなたはキリストの為に毎日を喜んで生きていますか?「神様と自分と隣人」を愛していますか?そんなことを聞かれたら答えに困ってしまいます。
ヨハネによる福音書21章15節以下は復活された主とペトロとの会話を伝えています。21:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。 そして同じ問いと答えが3度繰り返されました。キリストの大いなる愛、十字架の愛を知る私たちに、主はペトロと同じこの質問を向けられるのです。「私を愛しているか」この主の問いを覚えてローマの信徒への手紙14章を読んで行きましょう。
ローマ教会の中に起こっていた対立の原因として、パウロは2つのことを問題とします。「何を食べても良いのかいけないのか」いわゆる「食物規定」の問題と、「ある日を他の日よりも尊ぶことの是非」です。 
先ほど、ローマ教会にはユダヤ教から転向したユダヤ人クリスチャンと、異教からキリストを信じるようになった人たちとの間に対立があったと言いましたが、ユダヤ教から転向したユダヤ人クリスチャンは、何世代にも渡って幼いころから家庭でハラハと呼ばれるユダヤ法に従う教育を受けてきた人たちです。ハラハには、創世記やレビ記が述べる宗教的な規定や生活のあり方に関する詳細な指示があります。レビ記11章にある食事の規定です。ユダヤ教では「カシュルート」と呼び、豚肉や甲殻類は食べてはいけないとされ、乳製品と肉製品を同時に食べることも禁じられています。安息日(シャバット)は金曜日の日没から土曜日の日没までとされています。この期間中、仕事や家事をせず、祈りや家族との時間を静かに過ごすのです。キリスト教ではイエス様が復活された日、日曜日を主の日とします。最近は大分緩くなった様ですが、ドイツでは閉店法と言う法律で日曜日に小売店は閉店になります。
私たちは週ごとの礼拝を生活の中心とすべきです。しかし、今は様々な職業がありますから、日曜日の礼拝出席が不可能な方の為に特別の配慮をすることも必要かもしれません。キリスト教の3大祝祭日と言えば、クリスマス、イースター、ペンテコステですが、ユダヤ教では、過越の祭り(ペサハ)、五旬節(シャブオート)、仮庵の祭り(スコート)です。他にも神様に従うために、各家庭で子供たちに多くのことが教えられました。申命記6章6節7節です。 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。日本は異教の国ですから、各家庭で福音を伝える難しさがあります。教会学校であり、千歳認定こども園であり、山形学院高校がその務めを担っているのですが、次の世代への信仰継承は山形六日町教会の大切な祈りの課題です。
14章2節。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。 現代の菜食主義は主(おも)に健康的な理由でしょうが、この「菜食主義者」は宗教的な理由を見出している人たちで、幼いころからユダヤ教の信仰教育を受けて育ち、最近になってキリストの福音に接してクリスチャンになった人たちです。「波多野先生!」「なんですか?」「さっきカシュートには、豚肉や甲殻類は食べてはいけないとあるって言いましたし、実際レビ記11章には、反芻しなかったり、ひずめが分かれていない動物は食べてはいけないってあります。だけど、菜食主義にまでなる必要はないんじゃないですか?」「聖書を良く読んでますね。鋭い質問です。確かにレビ記11章からはそう言えます。しかし創世記1章29節で神様はアダムとエバにおっしゃいました。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。」創世記9章3節4節で洪水の後、ノアと息子たちに語られました。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。菜食主義の人はパラダイスで神様と共にいることが出来た時代にアダムとエバに与えられた神様の言葉を大切にしていたのでしょう。菜食主義は食物規定に反していません。」 
その一方で、何を食べてもよいと言って、律法で禁じられていた豚肉を食べる人もいたのですが、問題になったのはクリスチャンが偶像礼拝に備えられた肉を食べることです。ローマは多神教ですから沢山の偶像があり、偶像礼拝では動物の肉も備えられました。そしてその肉は偶像礼拝の後、今でいう肉屋さんで買うことが出来ました。しかし、パウロはここで菜食主義者の方を「信仰の弱い人」と呼んでいます。
チョット不思議ですが彼は「コリントの信徒への手紙Ⅰ」でこの理由を語っています。8章4節です。偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。10章19節では、偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。 この様に言います。「そもそも偶像なんて何の意味もない。電信柱と同じじゃないか。気にする方がおかしい。」と言う訳です。
「波多野先生、だけど使徒言行録にパウロの言葉があります。わたしたちは異邦人で信者になった人たちに、「偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように。」と手紙を書き送おくりました。(21:25) これって矛盾してません?」 聖書を良く読んでますね。これはパウロがエルサレムで逮捕される直前のことですから、ローマに手紙を送った時よりも後のことです。 パウロはそれが信仰の本質ではないものの、クリスチャンになって日の浅い人に異教の習慣から離れるように勧めているのです。「愛の勧告」と呼ぶのが相応しいでしょう。14章5節以下で指摘されている「ある日を他の日よりも尊ぶ人」について見て行くことでハッキリします。
先ほど旧約聖書の世界では、過越の祭り、五旬節、仮庵の祭りを、新約聖書の世界ではクリスマス、イースター、ペンテコステを挙げました。他にも、誕生日や新しく生まれた二度目の誕生日、受洗日ですね。結婚記念日や愛する人が召された日など沢山あるでしょう。そもそも日曜日は主日礼拝の日として普段と違った過ごし方をします。主を身近に感じる「喜びの日」と言う方も多いでしょう。
日本ではクリスマスに洗礼を受ける方が多いのですが、欧米では圧倒的にイースターです。主の復活の日が洗礼によって新しい命が与えられるのに相応しいとの理解でしょう。洗礼は特別な場合を除いて主日礼拝の中で授けられますが、どの礼拝の中で授けられても差はありません。罪が赦されキリストと共に歩む新しい人生が始まり、教会員として祈りの輪に加わるのです。この恵みはどの主日礼拝においての受洗でも変わりありません。多神教の日本にあって、喜びの日を忘れないで感謝し続けると言う、かなり人間的な理由でクリスマスが多いのでしょう。それも悪いことではありません。
ここでパウロが強調しているのは、二つのことです。14章5節と6節です。14:5 ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。14:6 特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。特定の日を大切にしようがしまいが、何を食べようが食べなかろうがそんなことは大切なことではない。各自が神様に感謝して決めればそれで良い。しかし、自分と考え方が違う人を軽蔑したり、あるいはあの人は不信仰だなどと言って裁いてはいけない。なぜなら、神様はどちらの人も愛してらっしゃるし、裁きは神様だけがなさるのだから。パウロは「本質的でない問題に対しては寛容でいなさい。」と言うのです。
しかし、何が本質的であり、何が本質的ではないのか? これって結構難しいですね。イエス様はおっしゃいました。人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。(ルカ12:10) 人の子とはイエス様のことで隣人ではありません。疑問は、「聖霊を冒涜するとはどういうことか?」に移りますが、これは私たちの場合、「日本基督教団信仰告白」に反すること、さらにそれを実際の教会の歩みに当てはめるための「教憲教規」と言う規則に反することです。もちろんこれらは教会会議で聖霊の導きを祈って決めたものですから、不都合が見つかれば教会会議での変更は可能です。しかし、教会とそこに集う私たちを導いてくださる聖霊を冒涜しないために従い守る必要があります。
難しいことを言いましたけれども、クリスチャンはお互いの違いを強調するのではなく、お互いの共通点をみるべきです。神様に愛されていること、豊かな恵みをいただいている事、そして喜んで主イエスに従って行くこと、これらで一致することが絶対に必要です。なぜなら、神様は「神様と自分と隣人を愛すること」を求めていらっしゃるからです。
それでは、チョット変なことをやっている人に対してどうするのか? 例えば、シャツの裾がズボンから出ていたら注意してあげれば良いのですが、人に注意することはとても難しいことです。普段からの人間関係であり信頼関係が問われます。「そんなこと止めなさい。止めた方がいいよ。止めて見れば。」ありがとうと言って素直に聞き入れてくれるか、うるさいなと嫌がられるのか。これはクリスチャンどうしであっても、難しさはかわりません。注意する方、される方が主イエスを見つめているかが問われます。もちろん聖霊を冒涜するのであれば、長老会は規則に基づいて戒規を執行します。
今日与えられた聖書箇所で、最初に感じた違和感です。7節8節。わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。 確かに主はおっしゃいました。 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(15:12,13)
確かに主はこの言葉の通りに私たちの罪を負って十字架で亡くなられました。大きな愛を示してくださいました。パウロは主イエスと同じことを言っているのですが、それでは私たちはどうなんでしょうか? 
心臓移植を必要とする友の為に心臓を提供するのでしょうか? 1941年、ナチスに獄中で餓死の刑罰を与えられた者の身代わりとなったマキシミリアノ・コルベ神父は「アウシュヴィッツの聖者」と呼ばれています。私たちはコルベ神父にはなれないかも知れません。しかし、友の為に祈ることは出来ます。敵の為に祈る必要があります。特にこのギスギスした現代において、私たちが主の愛の中を生きて行くために、み言葉と祈りと礼拝の時は欠かせません。
14章10節。それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。
写真を週報の裏面に載せましたが、音楽史上に輝く大作曲家、バッハやヘンデルは楽譜にS.D.G.と書き残しました。ラテン語でSoli Deo Gloria「ただ神にのみ栄光を」と言う意味です。彼らの様に素晴らしい作品を生み出すことは出来ないかも知れません。しかし、私たちも心の中にS.D.G. 「ただ神にのみ栄光を」と書き記す日々を過ごしたいと思います。神様と自分と隣人の前で謙虚な者でありたいと思います。その時わたしたちは「本質的でない問題に対しては寛容でいなさい。」このパウロの命令に従うことが出来るのです。S.D.G. 「ただ神にのみ栄光を」です。祈りましょう。