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山形六日町教会

2023年10月1日

聖書:イザヤ書55章1~3節 ヨハネの黙示録22章1~21節
「主イエスよ、来てください」波多野保夫牧師

説教シリーズ「わたしはすぐに来る」の14回目です。このシリーズでは、聖書全体の最後にありますヨハネの黙示録を読み進めて来ました。今回が最終回になりますが、8月からは夏期説教シリーズ23となっていた関係で、前回から3か月ほど間が開きました。振り返りから始めたいと思います。
そもそも黙示とは「覆いを取って、隠されていた真理を明らかにする」と言った意味の言葉です。似た言葉に神様の言葉を預かって人々に告げる預言があり、旧約聖書にはイザヤを始め多くの預言者が登場します。両者の違いは、預言は現在の状況、すなわち神様に逆らい続ける堕落した状況を指摘し、それに対しての神様の怒りを語ります。
イザヤ書の冒頭には次の言葉があります。 天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。牛は飼い主を知り ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず わたしの民は見分けない。(1:2,3)お前たちの地は荒廃し、町々は焼き払われ 田畑の実りは、お前たちの目の前で 異国の民が食い尽くし 異国の民に覆されて、荒廃している。(1:7)
しかし、預言者が伝える神様の言葉はそれだけではありません。最初に読んでいただいたイザヤ書55章1節以下です。渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い 飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば 良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。(55:1,2)神様は、逆らい続けるイスラエルの民を、そして私たちを「愛したくてしょうがない」方なのです。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。(55:3)ダビデ王の子孫として主イエスは誕生されました。そして今、教会は主が送ってくださった聖霊によって生かされ導かれています。ですから、私たちは神様が一方的な愛のゆえに結んでくださったとこしえの契約のもとにあります。(サムエル記下7章、詩篇89篇)預言は神様の恵みをいただいている信仰者の背き、すなわち「罪」を鋭く指摘しその裁きを語りますが、それだけでは終わりません。罪の裁きは、旧約聖書においてはバビロン捕囚に代表され、新約聖書では私たちの罪を負ってくださった、主イエス・キリストの十字架の出来事です。
しかし、私たちの罪を負って裁きを受けてくださった主は復活されたのです。死に勝利されたのです。この方に従うことで私たちは罪のない者と見なしていただき幸せな人生を過ごすことが出来ます。これが主の福音であり揺らぐことはありません。
しかし、しかしです。私たちの周りには悪魔が元気に働いている現実があることを認めざるを得ないのです。この世には多くの悪が存在しますし、主の福音を知っている私はいまだに「罪」を犯してしまう現実があるのです。
このヨハネの黙示録は、直接的には西暦90年代に、神様に従う故にローマ帝国による迫害が迫って来ている人たちに、あるいは厳しい環境の中で信仰が薄らいでしまった人たちに対して、真の救いは主イエス・キリストに従う以外にはないのだ。そして必ずや主イエスがこの世の悪を滅ぼしてくださる。だから希望を失わずに主に従って行こう。この様に語り掛けるのです。
今「厳しい環境」と言いましたが、それは戦乱や貧困、あるいは病や失恋、仕事や人付き合いなど、現実が自分の願い思いと大きく違うだけではありません。逆に思い描いた通りにことが進み、それが自分の才覚であったり努力の結果だと思い込むのであれば、神様の前に出るに際して、「厳しい環境」に置かれていることになります。なぜなら神様に対して、自分に対して、あるいは隣人に対してへりくだることを難しくするからです。ヨハネは、「厳しい環境」にある私たちの目には隠されているが、覆いを取るとそこには神様の勝利の計画があるのだ。終わりの日に、主イエスが再び地上に来てくださり、全てを裁かれることで、この世の悪が完全に滅ぼされるのだと語ります。だからどんなに厳しい現実に有っても、主への信頼、すなわち信仰を守り抜く様にと励ますのです。2023年に生きる私たちに、ローマ帝国の迫害はありません。しかし、悲しみであり苦しみであり重荷を担う私たちに様々な困難があることに変わりありません。黙示録は究極的な裁きを語ることで、悪魔の挑戦の前に無力な信仰者には希望を、信仰を持たない者たちや国家には神様に立ち返ることを求めるのです。
ややこしい話をして来ましたが、アダムとエバ以来、私たちを含めすべての人には、すべてを創造された神様に逆らい続ける現実があり、「罪」を犯します。一方、神様は聖なる方ですから「罪」を捨て置かれません。しかし、人間を愛したくて愛したくてしょうがない方です。この矛盾を、神様は独り子主イエス・キリストを十字架に架けることで解決なさいました。そして、主イエス・キリストを信じ従う者を「罪のない者」と見なしてくださるのです。
しかし、この世に巣くう様々な悪は主に従う者、まだ従うに至らない者双方を苦しめます。この悪魔を滅ぼし、「神様の国」が地上において完全に実現する。それが、終末の時なのです。そして、終末に至るこの世の姿であり神様の働きかけを語るのが黙示録なのです。
2022年4月24日から読み進めて来たその全体を振り返りましょう。1章から3章でヨハネは、ローマ皇帝ドミティアヌスによってエーゲ海に浮かぶパトモス島に幽閉された際に、神様が幻を用いて与えられた黙示を、それぞれに問題を抱えるアジア州の七つの教会に書き送ったことを語ります。
4章にはヨハネが目にした天上の礼拝の様子があります。私たちの先輩たちが集う天上の礼拝です。「主よ、わたしたちの神よ、 あなたこそ、 栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、 御心によって万物は存在し、 また創造されたからです。」(4:11) この賛美が私たちのこの礼拝の賛美と響き合うのです。
5章の小見出しには「子羊こそ巻物を開くにふさわしい」とあります。神様から与えられた7つの巻物は封印されており、それを開くことが出来るのは、血だらけの子羊として描かれている主イエスだけです。
6章から7章にかけて、順に6つの封印が解かれ巻物が開かれました。神様に従う故に苦しみに会っても、証しを止めなかった人たちの賛美が7章12節にあります。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、 誉れ、力、威力が、 世々限りなくわたしたちの神にありますように、 アーメン。」
8章1節で小羊が7つ目の封印を解くと、7人の天使が7つのラッパを持って立っていました。ラッパが吹かれるたびに大きな災難が襲います。出エジプト記でモーセが告げる神様のみ心に従おうとしないファラオを襲った災難のことが思い起こされます。モーセは悔い改めて神様に立ち返る様に告げるのですが、神様に従おうとはしません。これは現代においても同じですが、福音の宣教が山形六日町教会に委ねられていることを忘れてはいけません。
12章では天上の竜が地上に投げ落とされました。悪魔は堕落した天使だと言われます。かつて天上で神様に仕えていた天使が堕落して竜となり地上に投げ落とされたのです。この悪魔はバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた主イエスを荒れ野で誘惑した際に、旧約聖書の言葉を用いています。堕落する前は神様に仕えていたのですから、聖書の言葉を良く知っています。最近新聞紙上を賑わせている宗教団体は聖書の言葉を都合よく用いますが、私たちは日本基督教団信仰告白に基づいて正しく聖書を読み解釈する必要があるのです。
13章は地上に現れた2頭の獣です。一頭は暴力で人を服従させ、もう一頭は財力で人を服従させます。これもまた極めて現代的です。この獣は人の額と手に666と言う刻印を押すことを要求します。本来手と額に付ける印はシェマと呼ばれ、申命記6章4節以下に述べられています。週報の裏面に記しました。4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。6 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、7 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。8 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、9 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。このようにあり、シェマは あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛するしるしです。それを2頭の獣、すなわち悪魔は服従の印として求めたのです。こんな刻印を額に押されてはかないません。しかし、気づかないうちに神様と自分と隣人に対して謙遜さを失い、悪魔の奴隷になっていないか。後で鏡を見て自分の額に666の刻印がないかチェックして下さい。 実はこの獣は悪名高いローマ皇帝ネロを象徴的に表していると言われますが、それだけではありません。バビロン捕囚の時代はバビロニア、その後ペルシャ、ギリシャと続き、ローマに至りました。そして現代の覇権国に至るまでその歴史は続いています。それだけではありません。額に記しが付いているとしたら私も獣です。しかし主イエス・キリストは悪魔に勝利されたので、悪魔はキリストに従う者の額に666の刻印を付けることは出来ません。私たちは子羊に従って額をきれいにしていただくのか、悪魔に従って666の刻印を押されるのか選択を迫られます。悪魔は私たちの額を狙っています。
15章16章でヨハネは、神様の怒りを盛った7つの鉢について語ります。最後の7つの裁きです。これまでに子羊が封印を解いた7つの巻物と、天使たちの吹いた7つのラッパがもたらした様々な出来事によって多くは悔い改めに至ったのですが、神様を冒涜し続けて悔い改めようとしない者がいるのです。
17章の小見出しには「大淫婦が裁かれる」とあります。天使に導かれたヨハネはこの大淫婦を目にしました。17章3節から5節。この天使は“霊”に満たされたわたしを荒れ野に連れて行った。わたしは、赤い獣にまたがっている一人の女を見た。この獣は、全身至るところ神を冒涜する数々の名で覆われており、七つの頭と十本の角があった。女は紫と赤の衣を着て、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものや、自分のみだらな行いの汚れで満ちた金の杯を手に持っていた。その額には、秘められた意味の名が記されていたが、それは、「大バビロン、みだらな女たちや、地上の忌まわしい者たちの母」という名である。おどろおどろしい悪魔の真の姿です。こんなものに心を奪われる者などいるはずがないのですが、私たちが主から目を反らしていると、絶世の美人に見えてしまうのでしょうか? 残念なことですが、私たちは主の御命令。「神様と、自分と、隣人を愛しなさい。」このご命令に背くこと、すなわち「罪」を犯します。その時、この気持ちの悪い大淫婦はニヤッとするのです。
終わりの日にこの大淫婦が滅びることは決まっています。19章1節以下です。1 その後、わたしは、大群衆の大声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。2 その裁きは真実で正しいからである。みだらな行いで 地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、御自分の僕たちの流した血の復讐を、 彼女になさったからである。」3 また、こうも言った。「ハレルヤ。大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」4 そこで、二十四人の長老と四つの生き物とはひれ伏して、玉座に座っておられる神を礼拝して言った。「アーメン、ハレルヤ。」悪魔が最終的に滅びる者であることは事実ですが、この2023年に於いて多くの者の心を惑わしていますし、私たちクリスチャンも惑わされることがあります。しかし、信仰を持つ者には違いがあります。自分の「罪」に気づく機会があることです。週ごとのこの礼拝が何よりのその恵みの場です。そして「罪」に気づいた時に立ち返る場所、すなわち主の十字架を知っていることです。17章4節です。大淫婦とその手下どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める。終末において悪魔が完全に滅ぼされる以前において私たちが悪魔に負けない方法、すなわち救いは主イエス・キリストと共にあること以外にありません。主イエスの十字架に立ち返ること以外にありません。週ごとの礼拝は神様が与えてくださる大きな恵みに違いないのです。
18章と19章でバビロンの滅亡が告げられますが、これは歴史上に現れたすべての悪の帝国であり、私たちの心に入り込もうとする悪魔そのものの滅亡が宣言されているのです。19章11節以下で、白馬にまたがり「神の言葉」と呼ばれる騎手が、血に染まった衣を身にまとって天から現れ、正義をもって裁き、また戦ってくださいます。そして、獣や偽預言者は滅ぼされ、悪魔は捕らえられて隔離され、もはや人を惑わすことが出来なくなります。 神様の正義が地上において完全に実現するのです。私たちの世界には、「なんでこんなことが許されるのだろう。」と憤りを覚えることが、個人的にも、社会的にも教会においてもあります。悔し涙に暮れることも残念ながら起こります。そんな、私たちにパウロは旧約聖書の言葉を引用して言います。ローマの信徒への手紙12章19節です。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。確かに神様は終末に於いて復讐してくださるのです。「だけど、それが何時やって来るのかわからない終末の日だなんて。とても待てない!」もしその思いが心を支配するのならば、12章20節21節のパウロの言葉をすぐに実行するべきです。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。 なぜならば、主イエスが私に対して正にそうしてくださっているからです。主のみ言葉です。わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)
ヨハネの黙示録21章22章で彼は、聖なる都、新しいエルサレムが神様の許を離れて地上にやって来る幻を見ました。神の国が地上に実現するのです。エルサレムは神殿が立つ聖なる都のはずでした。しかし、その神殿は、犯した罪を赦してもらうために犠牲として献げる動物を売ったり、献金に用いる銀貨に両替する商売の場所となってしまい、祈りの場ではありませんでした。エルサレムは最高法院の議員たちの権謀術策の町であり、何よりも神の独り子を十字架に架けた罪の極みと呼べる町でした。そんなエルサレムが全く新しく聖い町へと変えられて地上にやって来る。新しいエデンの園の到来はまさに天と地の結婚式です。
創世記1章1節には、初めに、神は天地を創造された。とあります。そして、2000年前のクリスマスの日に神の独り子、主イエスキリストは真の神・真の人として来てくださいました。その30数年後、主イエスは人間の罪を負って十字架上で死なれました。人間が神様と正しい関係を回復するためです。パウロは言います。わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(ローマ5:8)3日後に主は死に勝利し復活されました。50日後に聖霊が降り誕生した教会、神の国のひな型である教会に、私たちは招かれて集い礼拝を献げています。そして、今聖書の最後にあるヨハネの黙示録によって歴史の行き着くところ。主イエス・キリストの裁きによって悪が滅ぼされ、地上に神の国が完全に実現することを知るのです。どんな状況にあっても、キリストに従う者に勝利がもたらされることを知るのです。
聖書が最後に告げる言葉、ヨハネの黙示録22章16節以下をご一緒に読みたいと思います。新約聖書480ページです。22:16 わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」22:17 “霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。22:18 この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。22:19 また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。22:20 以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。22:21 主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。主イエスに従って歩む者には最後の勝利が約束されています。希望をもって歩んでいきましょう。祈ります。