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山形六日町教会

2023年9月17日

聖書:イザヤ書1章11~13節 マタイによる福音書6章19~21節
「富は天に積みなさい」波多野保夫牧師

9月も中旬となりましたが、今年の猛暑は未だ去ろうとしません。本日は日本一の芋煮会が開かれていますが、「食欲の秋」にはまだ早い様です。涼しさが戻り、聖書に親しむ「読書の秋」が待たれます。
本日は夏期説教シリーズ23の6回目、最終回となりますが第1回から3回では、主イエス・キリストが十字架を前にした晩にゲッセマネの園で祈られた祈り、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」(マルコ14:36)この祈りに注目したのですが、主が祈られた通りには聞き届けられませんでした。十字架の上の主は、3時になると「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と大声で叫ばれて亡くなられたのです。
しかし、私たちは知っています。神様の御計画はここで終わりではなかったのです。日曜日の朝のことでした。マグダラのマリアが墓に行くと石が取りのけてあり中は空だったのです。そうです。神様の御計画は主イエス・キリストの復活の出来事にありました。しかし、神様の御計画はここで終わりではありません。「神様と自分と隣人を愛すること」との隔たり、すなわち「罪」から離れられない私たちが、復活の主に従う時に、私たちを「罪のない者」と見なしてくださり、主イエスと共にある永遠の命を約束してくださっているのです。
私たちの人生には様々なことが起きます。楽しいこと嬉しいことが沢山あることでしょう。反対に辛いこと悲しいことも確かにありますが、絶望の淵に立たされた時に、思い出すべきことがあります。それは、既に同じ経験をした人がいることです。その人は理不尽なことで鞭うたれ死への道を歩まされました。そしてその人があなたを愛し、あなたの傍らにいてくれることです。
歴史上、多くの人がこの事実を思い起すことで苦難を乗越えました。同じ様な経験を持ってらっしゃる方もいらっしゃるでしょう。劇的なことでなければ私は何回か経験しましたし、恐らく皆さんもそうでしょう。神様は私が激しい苦難には耐えられないことをご存知の上で避けてくださっているに違いありません。パウロの言葉です。あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(Ⅰコリント10:13)主イエス・キリストの「聞き届けられなかった祈り」は復活の出来事によって100%聞き届けられたのです。私たちの祈りは復活の主により頼む時に100%「聞き届けられる」のです。
この事実をシリーズ第4回で、ペトロの手紙一2章10節。 あなたがたは、 「かつては神の民ではなかったが、 今は神の民であり、 憐れみを受けなかったが、 今は憐れみを受けている」のです。 このみ言葉によって確認しました。
第5回ではマルコ福音書10章35節以下から、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」 この様に願い出たのに対しての主の答え、あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 
このみ言葉を通して私たちが「神様と自分と隣人」に対して謙遜でなければいけない事を学びました。自分に対して謙遜であることも忘れてはいけません。主は最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗ってくださった方です。さらに主は、私とあなたの罪の為に己を低くしてくださったのです。
パウロは語ります。 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(フィリピ2:6-8)この事実を知る私たちは「神様と自分と隣人」に対して謙遜であることを忘れてはいけません。

さて、本日はそんな私たちの「ささげもの」についてみ言葉を聞きたいと思います。「ささげもの」については、最近宗教団体と称する者たちの常軌を逸した行動のせいで、語りにくい話題となっています。しかし、そんな時だからこそキチンと聖書のみ言葉を聞くことが大切だと思います。 最初に読んでいただいたイザヤ書1章11節から13節です。 お前たちのささげる多くのいけにえが わたしにとって何になろうか、と主は言われる。 イスラエルの民が遊牧生活を送っていた時代、レビ記、民数記、申命記には幕屋での礼拝で献げる「いけにえ」についての詳しい規定が書かれています。
それから500年ほどが経ったのでしょう。イザヤが語るこの時代、牛や羊や山羊をいけにえとして献げることは神殿祭儀の中心となっていました。しかし、形だけの物となってしまっていた祭儀を神様は喜ばないとおっしゃるのです。12節に、わたしの顔を仰ぎ見に来る とありますが、私たちにとっては日曜日ごとの礼拝です。むなしい献げ物を再び持って来るな。とは喜びの伴わない儀礼的な献金を始めとする献げものでしょう。
これだけ献げたんですから願い事をかなえてください。願い事をかなえてくれれば沢山献げます。こんな思いは私たちには無縁ですが、真心の伴わない礼拝であれば 災いを伴う集いにわたしは耐ええない。と言われてしまいます。
こんな話を聞いたことがあります。重い病いにかかり余命宣告を受けた人が祈りました。「神様、助けてください。助けてくだされば全財産を献げます。」現代医学の進歩は著(いちじる)しいものがあります。特効薬が開発され病は快方に向かいました。すると半分献げます。4分の1献げます。1割献げます。・・・。彼は半年後に退院できたそうです。

さて、先ほど新約聖書マタイによる福音書6章19節から21節を読んでいただいたのですが、「天に富を積みなさい」と小見出しにあります。 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」 主は あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。とおっしゃり、私たちが心をどこに向けるのかを問われます。「私にとって富とは聖書であり、主の語られた言葉です。」こうおっしゃる方もいらっしゃるかも知れません。素晴らしいことです。しかし、お金であり財産に対する関心が古来多くの人の心を占めて来たことは、旧約聖書が「富」に関して多く語っていることからも明らかです。 
週報の裏面に記しました。いくつかをお読みします。
申命記 8章:17節18節。 あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。
サムエル記上 2:7 主は貧しくし、また富ませ 低くし、また高めてくださる。
列王記上 3:11 神はこう言われた。「あなた(ソロモン)は自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分わける知恵を求めた。13 わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。
ヨブ記 20:15 呑み込んだ富は吐き出さなければならない。神は彼の腹からそれを取り上げられる。
詩編 37:16 主に従う人が持っている物は僅かでも 主に逆らう者、権力ある者の富にまさる。
箴言 23:4,5 富を得ようとして労するな 分別をもって、やめておくがよい。目をそらすや否や、富は消え去る。鷲のように翼を生やして、天に飛び去る。
コヘレトの言葉 5:9 銀を愛する者は銀に飽くことなく 富を愛する者は収益に満足しない。これまた空しいことだ。
エレミヤ書 9:22 主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。
エゼキエル書 28:5 お前は取り引きに知恵を大いに働かせて富を増し加え、お前の心は富のゆえに高慢になった。
日本のプロテスタント教会は明治以降海外からの宣教師たちによって伝えられ、信仰を与えられた者たちが伝道者として、あるいは社会活動の奉仕者として活躍しました。多くの信徒が祈りを持って彼らを支えました。
山形六日町教会と千歳幼稚園もその例に漏れません。モール宣教師、押川牧師、斎藤牧師、クリーテ宣教師夫妻、アメリカの宣教師派遣団体を支えたアメリカの多くの信徒たち。六日町教会のルーツ、一致教会山形講義所の最初の礼拝は1887年に持たれましたが、10名ほどが出席したと記されています。翌1888年3月4日の礼拝において4名の方の受洗が記されています。そして2023年9月17日に至るまで、この礼拝堂を始めとして多くの宝が献げられて来ました。私たちは諸先輩がたと共に「天に宝を積んでいる」のです。
歴史をたどれば、明治時代以降信仰を与えられた者たちは、さまざまな社会活動に取り組み特に社会の影の部分に光を届けて来ました。
1. 教育機関の創設: 東北学院に加え、遅れていた子女教育に力を入れました。千歳幼稚園、宮城学院、彼らの祈りの結果です。
2. 慈善活動: 孤児院、老人ホーム、病院などの慈善施設を設立し、社会的な弱者にキリストの愛を届けました。
3. 平和活動や人権運動、環境保護などに尽力しました。売春防止法の成立や禁酒運動、さらに「山形いのちの電話」の設立。
一つ一つの働きが重荷を担うのもであったことは確実です。現在に至るまで「天に宝を積んでいる」のです。そして、最後になりましたが、これらの働きに祈りは欠かせません。「神様と自分と隣人」を愛する祈りです。社会の影の部分に光を届けることは、隣人を愛する祈りから生まれます。この祈りを欠いた働きが危険なことは、残念ですが歴史が証明しています。
もう一つの隣人を愛する大切な祈り。それは信仰を伝えることに他なりません。私たちがいただいた最も価値のあるもの、最高のものを分かち合う、それが伝道だからです。いつも申し上げています。信仰は分かち合うと減ってしまうのではなく増えるのです。
最初に本日は「ささげもの」についてみ言葉を聞きたいと申しました。「やもめの献金」と小見出しが付けられているルカ福音書21章1節以下が気になります。イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。 そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。 あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」 わたしは献金の時にイエス様が見てらっしゃったら、財布の中からいくら取り出すのだろうか? と考えてしまいます。でも、これは悩んでも無駄です。神様は全てをご存知なのです。 
レプトン銅貨2枚は120円ほどですが、強調点は「持っているお金を全てを献金しましょう。」と言うのではなく「有り余る中からラッパの形をした神殿の献金箱に音を立てて献金した金持ち」とやもめの信仰を問うているのです。
旧約聖書にあります、神様に逆らうようになったサウル王の後継者を選ぶために預言者サウルが遣わされたシーンが思い起こされます。旧約聖書サムエル記上16章7節です。主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」この様におっしゃり、ダビデが選ばれたのです。神様は私たちの心を見られるのです。でもこれって結構困ったことです。私にとっては。皆さんはいかがでしょうか?
主イエスは神殿でやもめと金持ちの心の中をご覧になったのです。私たちの心の内をご存知なのです。ですから、私にとって唯一の救い、それは「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえる」方、主イエス・キリストに従う時に、「罪」のないものと見なしてくださり、永遠の命に与る希望を与えてくださることです。
キリスト教系女子大の宗教学の先生が学生に出した課題について聞きました。教会の礼拝に出席し礼拝後教会員に「イエス・キリストを信じて生きて行くって、あなたにとってどういうことですか?」とインタビューしてレポートにまとめ、提出するのだそうです。「イエス・キリストを信じて生きて行くって、あなたにとってどういうことですか?」皆さんはどの様に答えられるのでしょうか?
本日は「ささげもの」がテーマですが、聖書の言葉を自由に操るカルト集団の信者は高価なツボを購入したり、高額の献金をしても騙されたと訴える人は少ないそうです。家族が常軌を逸した行いに気づき声をあげる場合が多いと報道されています。
私は献金について問われた時は「喜びの範囲で献げてください。ただし献金は余ったからするものではありません。ですからチョットだけ無理をしてください。その無理を神様が喜びに変えてくださるでしょう。」この様に申し上げています。以前出席した教会での経験があります。その教会では説教の後、祈り献金と続くのですが、そこで司式の長老さんではなく牧師が導きます。そして「さあ喜びの時だ、みんなで献げよう!」と言いました。確かに神様に献げ物を献げられることは私たちにとって大きな喜びに違いありません。 しかし、これがカルト集団とどこが違うのかと言うことを理屈で説明することは困難です。私たちの心の動きに関係するからです。
私たちは、まだ信仰に至っていないみなさんのご家族が主の福音のすばらしさに目覚めてくださることを祈っています。ですから、ぜひ主の福音によって与えられる恵みと喜びに加えて、献金についても話し合っていただきたいと思います。
最後に、パウロの言葉と主の言葉を聞きましょう。信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(Ⅰコリント13:13)
「あなたがたは地上に富を積んではならない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイ6:19,21)「天に富を積む」一週間を喜びの内に過ごして行きましょう。祈ります。