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山形六日町教会

2023年9月10日

聖書:詩編102編20~23節 マルコによる福音書10章35~45節
「仕える者になりなさい」波多野保夫牧師

記録的な酷暑の8月もさり、9月も第二週となりました。長く続いた熱帯夜から解放され朝夕は秋の訪(おとず)れを感じることが出来ます。これは、宣教師たちが伝えた習慣と思われるのですが、9月の第一主日を「振起日礼拝」として守る教会があります。夏の間、旅行や帰省などで土地を離れていた人が再び集まって(Rally day)「さあ、頑張って行こう!」と「聖霊によって奮い立たされる日」。「振起日」はその様な思いを持って再出発する日として覚えられているそうです。 山形六日町教会は、この伝統に立ってはいませんが、毎日が「聖霊によって奮い立たされる日」であり、毎週が「聖霊によって奮い立たされる礼拝」でありたいと思います。 しかし、まだ猛暑が続く様です。この夏期説教シリーズ23を全6回として、あと2回、9月17日まで続けて行きます。
本日発行されました8月9月合併号の「教会報」に第1回から3回までの「聞き届けられない祈り」をテーマとした説教の要旨を掲載しました。十字架を前にしたゲッセマネの園で主イエスは「この杯を取りのけてください。」と苦しみに満ちた祈りを捧げられたのですが、この祈りは聞き届けられませんでした。 しかし、私たちは知っています。神様の御計画はここで終わりではなかったのです。日曜日の朝のことでした。マグダラのマリアが墓に行くと石が取りのけてあり中は空だったのです。墓の外に立って泣いている彼女にイエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。(ヨハネ20:1-18)
そうです。神様の御計画は主イエス・キリストの復活の出来事にありました。しかし、神様の御計画はここで終わりではありません。「神様と自分と隣人を愛すること」との隔たり、すなわち「罪」から離れられない私たちが、復活の主に従う時に、私たちを「罪のない者」と見なしてくださり、主イエスと共にある永遠の命を約束してくださっているのです。私たちにとって、「こんな事祈っちゃまずいんじゃないか?!」と言う祈りの自主規制はまったく必要ありません。素直に心の内をお話しすれば良いのです。
願った通りに祈りが聞き届けられたのなら、大いに感謝すべきです。願った通りに聞き届けられないのがなぜなのか、理解できないことがあるでしょう。そんな時には、主イエスの十字架の出来事を思い起してください。主は死に勝利された方です。パウロは言うのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(Ⅰコリント15:54,55)
私たちは復活の主に従う時に、復活の主と共に生きる「永遠の命」、すなわち死に対する勝利が約束されている幸せ者です。まだ洗礼を受けていらっしゃらない方は、この幸せを手にするようにと招かれています。だとしたら、「祈りが聞き届けられない。」と悲しむ必要ありません。神様の答えが願ったことと異なっているのなら、それこそが「幸せの答え」なのです。

さて、司式の細矢長老に、本日与えられましたマルコによる福音書10章35節から45節を読んでいただきました。「ヤコブとヨハネの願い」と小見出しが付けられており、大変人間的な願いが語られていますが、まずマルコ福音書を最初から追って行きたいと思います。
1章は、主イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたこと。荒れ野で40日間悪魔の誘惑を受けられたことを語ります。そしてガリラヤ地方で福音を宣べ伝え始められたのですが、その第一声は「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。でした。
続いて、ガリラヤ湖で漁をしていたシモン・ペトロとの兄弟アンデレに言われました。「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。また少し進んで行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで、すぐ彼らをお招きになると、父ゼベダイを雇人たちと一緒に舟において、イエスのあとについて行った。(マルコ1:9-20)3章13節以下に「十二人を選ぶ」との小見出しがあり、12使徒がそろいました。ヤコブとヨハネの兄弟は3番目と4番目の使徒です。彼らには「雷の子ら」(マルコ3:17)と言うあだ名が付けられましたから、熱血漢だったのでしょう。
「ヤコブとヨハネの願い」がどの様な状況でなされたのかを見ましょう。9章2節3節。イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。そして雲がわき起ってペトロとヤコブとヨハネを覆いました。その雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子。これに聞け」。この3人は12使徒の中でも主の期待が大きく、英才教育を受けていたのでしょう。もちろん弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言って教えられた(9:31)とありますから使徒たち全員に十字架と復活の真理を語られたのは確かです。
それでは、彼らの反応はどうだったのでしょうか? 9章32節以下です。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。私は、この様などう見てもダメな弟子たちを知るとチョット安心するのですが良くないですね。なぜなら私は主の十字架と復活が現実のものとなった歴史上の事実だと知っているからです。
主をいらだたせることが起きました。10章13節以下です。イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。(マルコ10:13-16)繰り返し語ってらっしゃる「神の国」であり「神様の愛」であり「神様の福音」を全く理解していない弟子たちです。11章がエルサレム入城の場面ですから、エルサレムはもう間近です。10章32節から34節には「イエス、三度自分の死と復活を予告する」と小見出しがあります。一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」
この34節に続く35節以下が今日与えられた聖書箇所です。10:35 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」36 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、37 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
さらに、14章32節以下です。  一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」(マルコ14:32-34) 主はペトロ、ヤコブ、ヨハネに苦しい胸の内を隠そうとなさいません。
ここまでマルコ福音書を追って来たのですが、皆さんはこのヤコブとヨハネの願いをどう思われるでしょうか? ここにペトロの名前はありませんが、彼が立派だったわけではありません。この後逮捕された主を大祭司の庭で3度知らないと言ってしまうのです。私は何よりも、主が彼らの言葉をどの様な思いで聞かれたのだろうかと心が痛みます。間もなくエルサレムで味わうことになる辛い出来事を語った直後に、彼らは、「自分たちを取り立ててください。」と言うのです。 実際に主が栄光をお受けになる時に左と右にいたのは 強盗達でした。その内の一人は主を罵りました。(ルカ23:39-43)すると、もう一人の方がたしなめた。そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
ヤコブとヨハネの願いは自分たちの立身出世を願った利己的なものですが、彼らを弁護してみましょう。裁判において弁護士は被告人の利益のみに集中して弁護します。「裁判長!」「弁護人どうぞ。」 ヤコブとヨハネは、主がおっしゃった10章34節の後半の言葉、「人の子は三日の後に復活する。」この言葉を深く深く理解したうえで、こう言ったのです。「死に勝利された方が王座に就くとき、私たちもその方と一緒になって御国の為に働きたいのです。」 確かに、国会議員の多くは「努力して議員になり、この国をこの国民を幸せにしたい。」この様な思いで研鑽を積み努力が実って議員になるのだと言われています。そんな彼らが現実を見た時に、「自分の理想を実現して人々を幸せにするには、力を付けて大臣になり、首相になって権力を持たなければ出来ない。」と思うのだそうです。 「裁判長。ヤコブとヨハネが正にこれです。彼らは高い地位に就くことで、神様のために大きな働きをしたかったのです。」
皆さんはこの弁護士の意見をどの様に聞かれるのでしょうか?10章38節39節。 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。
「このわたしが飲む杯」とは、主イエスが十字架の前の晩にゲッセマネの園で「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:36)この様に祈られた杯です。神様のみ心に従順なるが故に味わう苦しみです。チョット不思議なのは「わたしが受ける洗礼」とおっしゃったことです。最初に30歳になって宣教活動を始められる際にバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたことをお話ししました。洗礼は聖霊のなさる業ですから一度きりの秘跡です。じつは洗礼と翻訳されているギリシャ語βαπτίζομαι (baptizomai) には「激しい苦しみを受ける」と言う意味があります。私たちの洗礼式は滴礼と言って、頭に水を付ける方法を取りますが、洗礼は「水につかることで罪を負った過去の自分は死に、聖霊によって新しい命に生きること」を意味しています。ですから洗礼は苦しみから喜びへの変化を感じ、感謝を覚える儀式です。
39節。彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。この通りの出来事を聖書は伝えています。使徒言行録12章。そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。十字架上の主イエスの言葉がヨハネ福音書にあります。 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。(ヨハネ19:26,27)この愛する弟子はヨハネだと言われています。新約聖書にヨハネによる福音書、ヨハネの手紙1から3、ヨハネの黙示録があります。尊敬する人の名前を用いることが普通に行われていた時代ですから、様々な説があるのですが、迫害の中に有った初代教会においてヨハネが大きな働きをしたことは確実です。確かにヤコブとヨハネは主の飲んだ杯を飲み、主の受けた洗礼を受けたのです。それだけではありません。41節で、他の10人も主に従うことによる立身出世を願っていたからこそ、二人の「抜け駆け」に腹を立てたのです。その内の一人は主を裏切ったイスカリオテのユダですが、実は残りの9人も主の飲んだ杯を飲み、主の受けた洗礼を受けたのです。 これは聖書には書かれていない教会に伝わる伝承ですが、ペトロは西暦67年に皇帝ネロの迫害によってローマで殉教しました。
ペトロの兄弟アンデレはギリシャのパトラで、フィリポはトルコで、バルトロマイはアルメニアで、マタイはエチオピアで、アルファイの子ヤコブはエルサレム神殿で、熱心党のシモンとタダイはペルシャで、疑い深いトマスはインドで、それぞれ殉教したと伝えられています。
ここで注目したいのは、「誰が一番偉いのか」と言い争い、「イエス様が栄光をお受けになったら大臣として取り立ててください。」と抜け駆けをし、それに怒りを覚えた者たちが、180度反対の人生を歩んだ事実です。漁師としての生活や取税人としての安定した生活であり日常を捨てて弟子となった彼らは、3年半にわたって様々な機会に、主の語る神様の愛、神様の御計画を耳にし、力ある業を目にして来ました。それにもかかわらず、十字架を前にした主に出世を願ったり、逮捕された主を知らないと言ってしまったのです。何がこんなにダメな彼らを主イエスの教えを守り、神の国の為に働く者へと変えたのでしょうか。そうです。主イエス・キリストの十字架と復活の出来事を経験したことで、3年半の間の様々な経験に一本の筋が通ったのです。それは変わることの無い主の大いなる愛を知ったことです。
では、私たちはどうなのでしょうか。主イエス・キリストの十字架と復活の出来事を知っています。主の大いなる愛を知っています。事実です。だからと言って殉教を目指す必要はありません。使徒たちを始め多くの先輩の働きによって私たちにとって現在殉教は遠いものとなっていることを感謝したいと思います。殉教は目的ではなく信仰を貫いた結果なのです。
では私たちは信仰をどの様に表して行くのでしょうか?そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために来たのである。そうです、これこそが「幸せの法則」、すなわち「神様と自分と隣人を愛する」ことの第一歩ではないでしょうか。主イエスは最後の晩餐の席で弟子の足を洗ってくださった方です。私たちの罪の為に命を与えてくださった方です。 その主はおっしゃいます。10章40節。わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。
確かに、地上において、天上において、誰が栄光を受けるのかは神様がお決めになります。しかし、天に国籍のある私たちです。やがて神の国において主と共に礼拝するという栄光に与ることはハッキリと約束されています。聖霊の導きと励ましを受けて、「隣人を愛し、隣人に仕える」一週間をご一緒に歩んで行きたいと思います。 祈りましょう。