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山形六日町教会

2023年9月3日

聖書:コヘレトの言葉4章9~12節 ペトロの手紙Ⅰ2章9~10節
「今は憐れみを受けている」波多野保夫牧師

9月に入りました。今まで経験したことの無い暑い日が続き、35度以上の猛暑日の数も新記録だそうです。そんな中、6回に渡っての夏期説教シリーズ23の4回目になります。前半の3回は「聞き届けられない祈り」について聖書が語るメッセージを聞いて来ました。十字架の前の晩、ゲッセマネの園で「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:36) イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。この様に切に祈られたのですが、この杯が取りのけられることはなく、祈りは聞き届けられませんでした。十字架上でイエスは、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(ヨハネ19:30)のです。
マタイ福音書では、主のエルサレム入場は21章に記されています。先立ちます16章21節に次の様にあります。 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。エルサレムに行けば必ず起きる十字架と復活の出来事をご存じだったのです。だとしたら、なぜそれほどまでに苦しみもだえて祈られたのでしょうか?逮捕されれば鞭打たれ侮辱された上で、十字架に釘で打ちつけられさらし者にされる耐えがたい苦痛への恐れ。迫りくる死の恐怖。主イエスは真の人です。確かにこの思いがあったのは当然です。この期に及んで「誰が一番偉い」(ルカ22:24-)などと言い争っている様なふがいない弟子たちに後を託さざるを得ない無念さ。この思いがあったのは当然です。何も罪を犯していない、父なる神に従順であり続けた自分が、神様に逆らい続ける人間の罪を負わなければならない理不尽さ。この思いがあったのは当然です。
先週、それらに加えてもう一つの理由を推測しました。それは、十字架上で主が祈られた言葉、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」ルカ福音書23章34節が伝えていますが、主イエスは愛する人間に神の独り子を十字架に架けて殺すと言う「罪」を犯させたくなかったのです。しかし、私たちは知っています。ゲッセマネの園での祈りと同じように、この祈りも聞き届けられなかったことを。神様の答えは「いいえ、今はその時ではない。」でした。“その時”、すなわち祈りが聞き届けられたのは十字架の3日後、主が復活なさった日曜日の朝のことでした。「父よ、彼らをお赦しください。」この祈りが聞き届けられたのは主が復活なさったことで知るのです。
主は2023年に生きる私たちの「罪」、すなわち「神様と自分と隣人を愛すること」との隔たり、この「罪」を負って十字架に架かってくださいます。そして、私たちが復活なさった主イエス・キリストに従う時に、私たちを「罪のない者」と見なしてくださり、主イエスと共にある永遠の命を約束してくださるのです。主の復活の出来事にまで視線を広げた時に、私たちは「祈りが聞き届けられた。」ことが分かるのです。
私たちの人生にはうれしいこと、楽しいことがいっぱいあることでしょう。素直に感謝すべきです。しかし、苦しいこと悲しいこと辛いことも起こります。そして、時々に心の内を神様に申し上げる祈りの言葉。感謝(ありがとう)・懺悔(ごめんなさい)・願い(お願いします)これが祈りです。お願いの祈りが一番多くなるのは自然なことですが、「祈った通りに叶えてくださらない。聞き届けて下さらない。」ことは確かにあります。
そんな時にぜひ覚えたい真理、それは十字架に架かってまで私たちを愛してくださった方が、私たちをどんな時であっても愛し続けてくださっていることです。その方に従う時に、「死に勝利された方と共に生きる永遠の命」が約束されていることです。だとしたらです。私たちの願いに対して神様が与えてくださった答え。この答えが願ったことと異なっていようとも、それこそが「幸せの答え」なのではないでしょうか!
このことを覚えて、本日は最初に旧約聖書コヘレトの言葉を見ていきます。コヘレトとは「集会の指導者」という意味ですがこの書の冒頭で「なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい。 太陽の下、人は労苦するが すべての労苦も何になろう。」(1:2,3)と言い、この書の最後に再び「なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい。」(12:8)と言うのです。状況を斜(はす)に見る、現代のニヒリズムに通じます。
コヘレトは4章に入ると、人が虐げられる様を語りだします。その人を慰める人が誰もいない悲惨な状況です。続いて彼は人生における労苦の原因を競争心に見出します。(4:4)4章6節。片手を満たして、憩いを得るのは 両手を満たして、なお労苦するよりも良い。それは風を追うようなことだ。苦労して両手いっぱいにするより、片手分で満足する方が良い。現代においても欲張り過ぎがもたらす不幸は確かに指摘されます。
4章8節。ひとりの男があった。友も息子も兄弟もない。際限もなく労苦し、彼の目は富に飽くことがない。「自分の魂に快いものを欠いてまで 誰のために労苦するのか」と思いもしない。これまた空しく、不幸なことだ。富を積むことだけに生きがいを感じているむなしい人生。いつの世にあっても富に支配される人生は哀れを感じさせます。
そんなコヘレトが、最初に読んでいただいた4章9節~12節を語るのです。4:9 ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。10 倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。11 更に、ふたりで寝れば暖かいが ひとりでどうして暖まれようか。12 ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。これを読むだけでコヘレトの言いたいことは明らかでしょう。彼が指摘してきた孤独であり、そこから生じるどうしようもない虚しさは、交わりの中で解決されるというのです。みなさんは、いかがでしょうか? コヘレトが感じるような孤独とは無縁でしょうか? 「受験や子育てや、家族を養うことや介護に必死で「孤独」なんて感じている暇はありません。孤独って、結構贅沢な悩みじゃないですか?」 確かに、多忙な現代にあって孤独を感じるのは贅沢な悩みかも知れません。しかし、一生懸命全力で頑張ってきた人生が転機を迎える。子供が巣立っていく。定年を迎える。生活環境が一変する。必ずやそんな時は来ます。
どうしようもない孤独と向き合った男の話をアルファーコースでニッキー・ガンベル牧師が紹介していました。その男はあの「靴屋のマルチンさん」を書いたトルストイです。彼は若い頃にキリスト教を拒否し大変な野心家になりました。人生は徹底的に楽しむことだと思い、モスクワやサンクトペテルブルクの歓楽街で大酒を飲み博打に明け暮れましたが、何か満たされません。次にお金こそ絶対だと思い、遺産で受け継いだ広大な土地の経営や著作から大金を得ましたが、やはり満たされません。彼は考えました。成功して有名になり重要人物とみなされることこそ心を満たしてくれるに違いない。彼は大英百科事典に世界文学史上一二を争う重要な作家と書かれるまでになりましたが。やはり満たされません。心に空洞があるのです。
次に家族こそが素晴らしい人生を実現してくれる。彼は1862年に結婚し13人の子供に囲まれる幸せな家庭を築きました。彼に言わせればこの大家族は彼を人生の意味探求から遠ざけたそうです。確かに、13人子供がいればそんな高邁な思索にふけっている余裕は有りません。
しかし、その彼を自殺の縁までつれて行った一つの疑問は解決しません。それは「なぜ私は生きているのか?」この疑問です。哲学と科学を駆使してもそのなぞは解けません。同時代の多くの者が「なぜ私は生きているのか?」この問題を避けていることを知りました。
しかしついに彼はその答えを発見したのです。それはロシアの貧しい農民がキリストを通して見出した神に対する信頼、即ち信仰だったのです。「主の栄光を求め、自分の満足を求めないならば、私は強い。逆に自分の満足を求め行動する時に私は弱い。」神様に信頼して歩む人生が如何に自由で楽しいものか、私達は自分の人生を振り返ってみる時に感じることが出来るのではないでしょうか。
コヘレトは言います。4:9 ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。10 倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。11 更に、ふたりで寝れば暖かいが ひとりでどうして暖まれようか。12 ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。共に労苦し、助け起こしてくれ、共に暖め合う友。素晴らしいことです。皆さんには、そんな方がいるでしょうか? いるのであれば大切にしてください。しかし、いつまでも同じ関係が続くのかと言えば、それは無理です。お一人を除いて。そうです、主イエス・キリストはおっしゃいます。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。(ヨハネ15:15)絶対に変わることのない友です。この友を大切にしたいと思います。
友人の牧師が『素晴らしい人生を送るために』と題した調査報告書を紹介してくれたことがあります。これは80年以上、2世代にわたって多くの家族を追跡調査した大変根気のいる研究報告書で、「幸せ」とは何か?何が人生を意味あるものにしてくれるのか?何が人生を幸福で満たしてくれるのか? それがテーマです。その答えは信じられないほど単純なものでした。結論は【より強固な関係性(結びつき)が増えれば増えるほど、幸せで満ち足りた人生を送りさらにより健康的な生活を送ることが出来る。】というものでした。結びつきが深まるほどに、心と体の健康に良い影響が顕著に表れるというのです。まさにコヘレトの言葉の通りの結論です。この調査報告に皆さんも納得され、その様に生きたいと同意なさるのではないでしょうか。
しかし、現代においてこの様に生きていない人の方が多いのでしょう。幸せになるには、財産や良い評判を得て生活の安定化が必要だし、一生懸命働いて何かを成し遂げた満足感を得ることも大切だ。たしかにそれらは、自分のためだけではなく家族や友人や社会のため、教会のために役立つことがあるでしょう。しかし、完全ではありません。この調査によれば、家族や友人との付合いに加えて、「目的を持った集団」での付き合いはより長く続くだけでなく、大きな喜びとなる場合が多いそうです。集団と言うあいまいな表現をしていますから、ゴルフやテニスや俳句など、趣味の集団でもあるでしょうし、現代における、ソーシャルメディア(SNS)の発達は無視できません。Line, FaceBook, X, Instagram, YouTubeなどに加えて様々なサイトが特定の集団へと誘って来ます。それらに属することで安らぎを得ることもたしかにあるでしょう。ソーシャルメディア(SNS)には確かに素晴らしい点が多くあります。しかし、それが制限がなく人を苦しめる呪いにすらなるのもまた事実です。これからの人はその様な時代の中を生きていくことにならざるを得ないのでしょう。
さて、調査結果によれば、いずれにしろ、この集団には、十分な質を持って十分な頻度で集うことが求められます。だいぶまだるっこしい言い方をしてしまいましたが、要するに「教会」であり「教会での交わり」こそが「目的を持った最高の集団」だと結論されます。
報告書の著者は言います。「豊かな良い人生は、喜びに満ちており挑戦的です。それは愛に満ちているだけでなく痛みもありますし、混乱すること、落ち込むこと、重荷を負いもがくこともあるでしょう。そんな時に中心となるもの、時間的に安定しており広がりを持ったもの。その存在がとても大切なのです。」
もう一回申しましょう。主イエス・キリストが中心にいて下さる交わり、「教会」こそが最高の交わりなのです。しかし、現実には教会の交わりが重荷になることがあります。大変残念なことですが、教会が、あるいは集う私たちが主イエスを見失うことがあれば、これは単なる人間集団です。容易に傷付け合う最悪の集団になってしまいます。教会の中心は主イエスお一人だけです。
さて、最初に読んでいただいた新約聖書、ペトロの手紙Ⅰですが、その冒頭に次のようにあります。 1:1 イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。 使徒たちを始めとする多くの者の伝道によって、地中海沿岸地方の各地に伝えられたキリスト教は信者が増えていくにつれて、ローマ帝国から迫害を受ける様になっていました。この手紙は、ローマ帝国の迫害に耐えて聖なる生活を送り、キリストに倣う者となることを勧めています。5章では教会が長老によって導かれることを諭していることからも、教会制度が整いを見せた西暦90年代に書かれた手紙だろうと言われています。一方、使徒ペトロは西暦64年にネロ皇帝の迫害によって殉教しています。この矛盾は、古代において「尊敬する人の名で文章を発表するのは素晴らしいこと」とされていたからです。聖書神学者たちは真実を追求するために歯に衣を着せません。この手紙は大変流麗なギリシャ語で書かれているそうで、ペトロは2000年前の漁師です。「彼には無理だろう」と失礼なことを平気で言います。難しい議論は学者に任せて、私たちは目に見える迫害こそないものの、多様な価値観が乱れる現代において、主イエス・キリストが示してくださった愛をしっかりと自覚したいと思います。
ペトロは言います。2章9節。 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。私たちは今選ばれて礼拝に出席しています。聖書のみ言葉に接しています。さらに宗教改革者は言いました。洗礼を受けた者はみな神様に仕える祭司なんだと。キリストに従うことで神様の栄光を現すからです。そして、私たちひかりの中を歩む者へと招かれている者は喜びの生涯を歩みます。そして、主の福音を周りの人と分かち合うのは、ごく自然なことです。10節。あなたがたは、 「かつては神の民ではなかったが、 今は神の民であり、 憐れみを受けなかったが、 今は憐れみを受けている」のです。これが、キリストの福音です。祈りましょう。