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山形六日町教会

2023年8月27日

聖書:詩編22編1~32節 マルコによる福音書15章33~34節
「苦しむ者の祈り」波多野保夫牧師

夏期説教シリーズ2023の3回目です。説教題を「苦しむ者の祈り」としましたが、前回、前々回に続いて今日のテーマも「聞き届けられない祈り」です。もちろん皆さんは「聞き届けられた祈り」を沢山経験されたことでしょう。
先々週、8月14日から16日まで「連合長老会」と言う改革長老教会の伝統を持つ教会の集まりが主催した中高生修養会が静岡県の御殿場市でありました。全国から若い人たちが集まって、信仰について学び共に過ごし共に礼拝する、貴重な機会で、六日町教会から2名の参加が予定されていました。しかし折からの台風7号の接近で開催が危ぶまれましたので、安全に楽しくよい時が持てるようにと祈りました。さらに家路に就いた16日は静岡県下の大雨で東海道新幹線がストップするという 大混乱の中でしたが予定通り帰宅することが出来ました。祈りは聞き届けられたのです。しかし、「台風7号の被害を少なくしてください。被害を受けた方に慰めと癒しを与えてください。」との祈りは、聞き届けられた部分と聞き届けられなかった部分がありました。その祈りに対しての働きが私たちに委ねられていることもまた事実です。教会に委ねられている大切な務めの一つは神様の愛を分かち合うことです。神様の愛は分かち合うことで減ってしまうのではありません。増えるのです。六日町教会に集う私たちは、隣人を愛することを常に覚えて行きたいと思います。
さて、ある神学者は「毎日祈る習慣を身につけることは、何か起きた時にどの様に対処すればよいのか、その為の訓練と言う意味があるのだ」と言っています。確かに私たちの生涯には様々なことが起きます。あの時にこの様に決断しておけば、私の人生はまったく違っていただろう。そう思うことはプラス面においても、またマイナス面においてもあったでしょうし、これからもそんな決断が迫られることがキット起きるでしょう。祈りの自主規制は必要ありません。何を祈っても良いのです。神様に自分の心の内を語り、そして心の耳を澄まして答えを聞くのです。
さて、聖書は主イエス・キリストが、しばしば祈るために静かなところに出て行かれたことを告げています。それらの中で、3週に渡って注目したのは、十字架の前の晩、ゲッセマネの園に出かけて祈られた祈りです。
マルコ福音書が伝えています。 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(14:36)この時の様子をルカ福音書には イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。とあります。これは正に苦しみの極致です。主はなんでこれほどまでに苦しまれたのでしょうか? 逮捕され鞭うたれ十字架に釘で打ちつけられる苦痛への恐れ。迫りくる死の恐怖。主イエスは真の人です。確かにこの思いは当然です。しかし、この期に及んで「誰が一番偉い」などと言い争っている様な弟子たちに後を託さざるを得ない無念さ。何も罪を犯していない、父なる神に従順であり続けた自分が、逆らい続ける人間の罪を負わなければならない理不尽さ。イエスは「苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。」のです。私たちは知っています。この「祈りが聞き届けられなかったこと」を知っています。15時間ほど後の出来事です。
先ほど読んでいただいた15章34節。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。十字架の死と言う、飲まなければならない杯が、主イエスから取りのけられることはありませんでした。
ガラテヤの信徒への手紙3章13節。 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。 確かに主イエス・キリストは神様から見捨てられたのです。
さてここで、十字架の死に至る出来事をビデオで見ていただきたいと思います。そして、主イエスが「律法の呪い」、言い換えれば「神様と、自分と、隣人を愛しきる」ことが出来ない罪びと、すなわち私たちが本来ならば負わなければならない呪いを、私たちに代わって負ってくださった。その主の苦しみは同時に私たちに対する大いなる愛だと言うことを感じていただきたいと思います。
【ビデオ】 最後の晩餐の後、主イエスは弟子を伴ってゲッセマネの園へと向かわれました。 十字架の映像 主イエスが私たちを愛する故に十字架に架ってくださったことをあらためて覚えたいと思います。イザヤ書53章3節です。 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
さて、クリスチャンにとって、祈りは神様がどれほど近くにいてくださるのかを知るための大切な訓練であり、友となってくださる三位一体の神様、父・子・聖霊の神様との親密さを増すための訓練です。私たちは祈りを通して神様の前で自分の本当の姿を知らされます。特に自分の思い描いたこと、願ったことと神様の答えが違う時に、どの様にそれを受け止めるのか。ここがポイントです。そこに現れる、自分の本当の姿を知ることは、ある意味で恐ろしいことでしょう。しかし、本当に幸せな人生を手にするためには、避けて通ることは出来ないのです。実は、その為に良い訓練方法があります。旧約聖書詩編には150編の様々な詩が集められていますが、これらは詩であると同時に様々な折における様々な人の祈りなのです。 【詩篇の分類表】ここに示したのはある聖書学者が詩編を分類して図にしたものです。週報の裏面にも載せました。「信頼」を歌った詩篇は11,16,23,62,63,91篇と言う訳です。ちなみに詩篇11編は、ダビデが 主を、わたしは避けどころとしている。 と歌い始め、主は正しくいまし、恵みの業を愛し 御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。 と閉じています。正に主への信頼を歌うのです。一つ一つの詩編を表す丸の大きさは詩編の長さですから、最長の詩篇は119編です。この図を眺めると「嘆き悲しみ」の詩が多いことが分かります。俗に「苦しい時の神頼み」などと言いますが、ダビデを始めとする古(いにしえ)の信仰者が苦しみの中で歌った祈りの言葉です。順調で浮かれた生活が過去のものとなった時に、立ち返るところを知っている。これはクリスチャンの特権の一つなのです。
祈りは神様との対話ですから、心の内を正直に飾ることなく述べることが出来ます。そして、神様との対話を欠かすことなく、祈りの習慣を守ってらっしゃった方、それが主イエスです。 【若者よ】1955年昭和30年頃ですから、私より少し年上の方の間で「若者よ」と言う歌がはやりました。 【 若者よ 体を鍛えておけ 美しい心が たくましい体に からくも 支えられる 日がいつかは来る その日のために 体を鍛えておけ 若者よ】 この様な歌詞です。 「祈りを鍛えておけ。心と体が、祈りに支えられる日がいつかは来る。祈りを鍛えておけ。」こんなことを連想しました。これは若者に限ったことではありません。
最初に読んでいただいた詩編22編は、1000年の時を経て主イエス・キリストの身に起きたことを正確に語っている預言として有名ですので、丁寧に見ましょう。2節。わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻(うめ)きも言葉も聞いてくださらないのか。 この言葉はゲッセマネの園で「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」と祈られたにもかかわらず十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」 この様に大声で叫ばれて亡くなられた出来事に完全に当てはまります。
敬虔なユダヤ教徒の家庭に育った主イエスですから、当然詩編に親しんでらっしゃいました。おそらくこの時には詩編22編と現実とを重ねて理解されていたのでしょう。 詩編22編7節8節。十字架につけるために引き渡された主を嘲笑ったローマ兵の姿であり、9節。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら 助けてくださるだろう。」は、死の時を迎えた主に、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言う心無い言葉になりました。16節から18節は十字架に架けられた者の肉体的な苦しみであり、19節、わたしの着物を分け 衣を取ろうとしてくじを引く。 はマタイ福音書27章35節。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合った。ことに完全に重なります。 しかし、詩編22編は23節以降で、神様のなさることを賛美し始めます。そして31節32節。子孫は神に仕え 主のことを来るべき代(よ)に語り伝え 成し遂げてくださった恵みの御業を 民の末に告げ知らせるでしょう。と言って閉じます。
旧約聖書が書かれているヘブライ語は日本語に翻訳する際にかなり幅を持って訳すことが出来る原語です。週報に比較しておきましたが、最近発行された聖書協会共同訳聖書では、子孫は主に仕えわが主のために代々に語り伝える。彼らは来て主の義を告げしらせる 生まれ来る民に、生まれ来る民に、「主がなされた」と。この様に翻訳されています。ヨハネ福音書19章30節が伝えます主の最後の言葉 「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。この言葉と、詩編22編の関連性がよりはっきりする翻訳です。 詩編22編が1000年後に起こった主の十字架の出来事を予め語っていることは、それが神様の御計画によるのだとはっきりしています。
さて、2023年の夏期説教シリーズ、前半の3回は「聞き届けられない祈り」に焦点を当てました。これは既に何回も語ってきたのですが、「祈りは聞かれる。」すなわち神様は2つの「はい」か、2つの「いいえ」で祈りに答えてくださる。この事と「聞き届けられない祈り」の関係を整理したいと思います。「聞き届けられない祈り」。これは、正確に言えば「聞き届けられないと思える」あるいは「思ってしまう」祈りと言うことです。その意味について考えてみましょう。何度も見て来ました主イエスが祈られたゲッセマネの園での祈り「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」は、この杯が取りのけられることは無く、十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と祈られたのですから、「聞き届けられなかった。」 主イエスの希望がかなえられなかったことは明らかです。
4つの答えで言えば「いいえ、今はその時ではない。」でした。しかし、私たちは知っているのです。「その時ではない。」と言われた期間が3日だったことを知っています。そうです、墓に葬られた主イエス・キリストは3日後に復活なさったのです。死に勝利なさったのです。確かに主イエスはご自分が復活なさることを予め知っていらっしゃいました。
マタイ福音書16章21節。 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
それではなぜ イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。これほどまでに苦しまれたのでしょうか。先ほど不甲斐ない弟子に後を託さざるを得ないこと。罪を犯したことの無い自分が人の罪を負う理不尽さを挙げましたが、それらに増して、愛する人間に自分を十字架に架けると言う罪を犯させたくなかったからなのではないでしょうか? 十字架上での祈りです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)主が十字架の上で亡くなられたことは、この祈りが聞き届けられなかったことを意味しています。しかし、主は復活なさったのです。死に勝利なさったのです。そして、復活された主に従う者は罪のない者と見なしていただき、永遠の命が与えられるのです。
ここまで目線を広げた時、すなわち、主の復活に注目する時、初めて「祈りが聞き届けられた。」ことが分かります。罪を犯してしまう私たちに、ご自身の復活によって救いの道が開かれたのです。ここに至って、主イエスの祈りは聞き届けられたのです。
パウロは第2回伝道旅行の途中でアジア州での伝道が聖霊によってさえぎられました。彼の祈りは聞き届けられなかったのです。しかし、それはヨーロッパに福音を伝える喜びのためでした。(使徒言行録16:6-10)
皆さんにもこのような体験、最初に願ったこととは違った形で神様のみ心が示された経験がおありではないでしょうか? 全てをご存知の神様が私たちを愛する故にしてくださることは、私たちの思いを越えている。これはむしろ当然ではないでしょうか。

本日は主イエスが詩編を良くご存知だったことを学びました。私たちにとって祈りの訓練は欠かせません。「祈りを鍛えておけ。心と体が、祈りに支えられる日がいつかは来る。祈りを鍛えておけ。」です。 日々、詩篇に親しみそして祈りの時を持つことをお勧めします。祈りましょう。