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山形六日町教会

2023年8月13日

聖書:詩編57編2~4節 マルコによる福音書14章32~42節
「アッバ、父よ」波多野保夫牧師

酷暑の日々が続いた後は台風の来襲と気候が荒々しさを増していますが、先週8月の第一主日は「平和主日」として礼拝を守り、「聞き届けられない祈り」と題してみ言葉を聞きました。
世界は、広島、長崎と悲惨な原爆を経験した第二次世界大戦の後においても、戦うことを止めようとはしません。私たちは平和への祈りを篤くしますが、神様の絶対的な支配に委ねるだけでなく、なすべきことが与えられています。
私たちは戦争が止み人々が主の大いなる恵みの許に、お互いに愛し合って神様に仕えて行く。すなわち「神様と自分と隣人を愛する」時に真の平和は実現されることを知る者ですが、多くの方は、特別な政治的影響力を持ってはいないでしょう。
そんな私たちですが、山形六日町教会とここに集う者、連なる者には大きな責任ある務めが託さています。
それは、主の福音をまだ知らない人の為に祈り、主の福音を届けることです。そしてその為に用いられる私たちでありたいと思います。
主はおっしゃいます。平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。(マタイ5:9)

さてこのことを心に留めた上で、今週も「聞き届けられない祈り」に注目したいと思います。私たちの人生はけっして平坦ではないと言う現実を前にしてこれは避けて通れないテーマだからです。
実は先週もお話ししたのですが、祈りについて2つのことをいつも申し上げています。1つは、「何を祈っても良い。」です。祈りの自主規制、こんな事祈っちゃまずいんじゃないかと言う祈りはありません。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。フィリピの信徒への手紙4章5節6節のみ言葉です。心の思いをそのまま祈って良いのです。
2つ目は、神様は私たちの祈りを必ず聞いてくださり、4つの答えをもって一人一人にその時々に最もふさわしく答えてくださることです。二つの答えは いいえNo であり、二つは はいYes です。
神様は答えられます。いいえ。今はまだその時ではない。  
神様は答えられます。いいえ。あなたの恵は十分だ。
神様は答えられます。はい。やっと願ったね。ずっと前からわかっていたよ。かなえてあげよう。
神様は答えられます。はい。あなたの願いは分かった。しかし願ったよりももっと素晴らしいものをあげよう、もっと素晴らしくかなえてあげよう。
波多野先生。しかし、そうだとすると先生が言った「聞き届けられない祈り」と矛盾するんじゃないですか?」
たしかにそう聞こえるかもしれませんね。最初に読んでいただいたマルコによる福音書14章32節以下を丁寧に見ていくことから始めましょう。
主イエスが十字架に架けられる前の晩のことです。弟子たちと共に二階の広間で過越しの食事をとられました。
その席で「取りなさい。これはわたしの体である。」「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」この様におっしゃって主の聖餐を制定されました。
そして、 14:26 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。のです。詩編142編、あるいは143編を歌ったのではないかと言われています。後ほどお読みになってください。聖書の豊かさが感じられます。

さて、一行はゲッセマネの園にやって来ました。マルコ福音書14章22節以下にある主イエスの言葉だけをお読みします。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
主イエスはこの時イスカリオテのユダが裏切り、祭司長たちに自分を売り渡すことをご存知でした。
そして祭司長や律法学者に逮捕されれば、その先には死刑が待っています。すべてをご存知の上で「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」この言葉を残して弟子たちから少し離れて祈られました。
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
アッバ とはアラム語ですが、主イエスの生涯を伝えます4つの福音書では、ここにだけで用いられています。当時の政治と宗教が一体となっていたイスラエルでは、公的な用語は聖なる言葉ヘブライ語でしたが、庶民の生活用語はこのアラム語でした。
アッバは、子供が親しく父親に呼びかける言葉で、「父ちゃん」、現代では「パパ」なのでしょうか?
新約聖書はギリシャ語で書かれているのですが、マルコはこの愛情と信頼がこもった言葉「アッバ」を正確にギリシャ語に翻訳できなかったのでしょう。
「アッバ」、すなわち「とうちゃん」。と言う主イエスの思いを私たちに伝えたかったのです。その上ですぐに続けてギリシャ語の父と言う言葉(ho pater)を続けて記したのです。
私たちは神様に対してある種の畏れを抱きます。畏敬の念と呼ぶのが相応しいでしょう。しかし、主イエス「主の祈り」を、 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、 御名が崇められますように。(マタイ6:9)この様に教えてくださいました。私たちの父、とは主イエスと私の父です。私も神様のことをアッバ:父ちゃん と呼べるのです。
私たちの神様は主イエスを「あなたは私の愛する子、私の心に適う者(マルコ1:11)」と言って愛されたのと変わることなく私を、そしてあなたを愛してくださるからです。
さて、このゲッセマネの園での祈りはマタイ・マルコ・ルカ福音書が伝えています。週報に記しました。福音書は主の出来事から40年以上経ってから、教会の中にいた生き証人たちが主の御許へと召されていく時代になって書き留められたと言われています。ですからそれぞれに特徴を持って一つの出来事を私たちに伝えていくれます。
ルカ福音書は すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。(22:43,44) 主の苦しみをハッキリと伝えてくれます。
主はなんでこれほどまでに苦しまれたのでしょうか?逮捕され鞭うたれ十字架に釘で打たれる耐えがたい苦痛への恐れ。迫りくる死の恐怖。主イエスは真の人です。確かにこの思いは当然です。
しかし、ふがいない弟子たちに後を託さざるを得ない無念さ。何も罪を犯していない、父なる神に従順であり続けた自分が、逆らい続ける人間の罪を負わなければならない理不尽さ。 
イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。のです。私たちは知っています。この「祈りが聞き届けられなかったこと」を知っています。15時間ほど後の出来事です。15章34節。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」再びアラム語です。主イエスの苦悩をこれ程に表している言葉はありません。イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。(15:37,38)
私たちは知っているのです。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」 主イエスのこの祈りが聞き届けられなかったことを。 
ここで、ゲッセマネで祈られた時の様子を映像で見てみましょう。
1.2階の広間で「過ぎ越しの食事」を終えた一行は、いつもの祈りの場所ゲッセマネの園へと向かいました。
2.一行はゲッセマネの園につきました。
3.苦しみに満ちて祈る主イエス。わずか一時も目を覚ましていられなかった弟子たち。私はそこに私自身を見るのです。
4.翌日の午後3時ごろ主は十字架の上で亡くなられました。私たちの罪を負って。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」この声が聞こえて来ます。

確かに私たちの人生は平坦ではありません。喜びや楽しみがある反面、悲しみ、苦しみ、痛みと無縁ではありません。しかし、苦しみの大きさを主イエスの味合われた苦しみを比べることは意味がありません。なぜなら苦しみの中にある時、その苦しみは自分にとって100%のものだからです。他の人が「あんなことで喚(わめ)き散らすなんてだらしない」と言おうが、自分にとっては深い深い苦しみなのです。だとしたら、主イエスがなさったように私たちもすることこそが、最も困難な時の対処法に違いないのです。
1. 喧噪を離れて心の落ち着く場所に行って、天の父なる神様と親しく向き合われました。私たちにも静かな祈りの時と場所が必要です。それは寝床の中でも良いでしょう。
2. 主は一人ではなく、心の許せる親しい者と一緒にそこに出かけました。神の独り子であり、真の神である方がなお苦しみの時に有って、独りではなく親しい者と一緒に行ったのです。
3. そして、 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」 ここで目を覚ましていなさい。とは睡魔という誘惑に負けない様に祈っていなさいという意味です。素直に自分の苦しみ悲しみを打ち明けて共に祈ってくれる様に求めたのです。
皆さんはその様な友がいらっしゃるでしょうか? 安心してください。教会の祈祷会はまさにその場ですし、別の機会に長老さんや牧師と一緒に祈ることも出来ます。しかし、人間は恰好をつけたがりますから、仮面をとるには勇気がいります。でも安心してください。どんな時であっても、世の終わりまで一緒にいてくださる方、苦しみと悲しみ、さらに言いようのない理不尽さを味わわれた、主イエス・キリストがあなたと共にいて下さるのです。
4.そして分かり易い言葉で正直に信頼の気持ちを伝えました。 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。」私たちは知っています。「この杯をわたしから取りのけてください。」との祈りが聞き届けられなかったことを知っています。願った通りに実現しなかったことを知っています。しかし、神様が主イエスの祈りを聞かれた、耳にされたことは確かです。だとしたら、その答えは2つの「はい」2つの「いいえ」のうちのどれだったのでしょうか? 皆さんはどの様に考えられるのでしょうか? 杯は取りのけられませんでした。だから「いいえ」なのですが、私たちは聖書の証言によって十字架での死の向こう側の出来事をすでに知っています。「アッバ、父よ」から始まった深い信頼の祈りに対する答えを知っています。主は確かに墓に葬られました。しかしそれは終わりではなかったのです。3日目に復活されたことを知っています。
ですから私たちが知る神様の答えは「はい、分った。しかし願ったことよりもっと良いものをあげよう。」だったのです。
これは以前お話ししたのですが、あるご婦人の話を繰り返したいと思います。長い間教会生活をしてこられた奥様の話です。50歳を前にした4月、この方は肺がんの宣告を受けました。ご主人はいわゆるエリートコースを歩まれ、商社のトップとして活躍されていました。宗教に頼るのはひ弱な人間であるとの思いから、たゆまぬ努力によって道を切り開いて来られた方でしたから、教会に足を向けることはありませんでした。一方この奥様はご主人が信仰を持って欲しいと、長い間祈り続けてこられたのです。肺がんは進んでおり、余命は半年との診断でした。大きな苦しみのともなう闘病生活において、「回復を祈るとともに、なんで、私が今!」との思いが心を去ることはなかったそうです。
これを知ったご主人は、今まで家族を大切にしてこなかったことを反省されたのでしょう。日曜日に教会の礼拝に出席して説教を聞き、病院で奥様に伝えることを始められました。意志の強い方ですから一旦決めたことを多忙や疲れを理由にやめることはありません。毎週礼拝の帰りに病室を訪ねられました。
10月のある日曜日、いつもの様に礼拝のあと病室を訪ね、奥様に告げられました。「今度のクリスマスに洗礼を受けることにしたよ!」 これを聞いた奥様は叫びました。「私は今、私の人生の意味を知りました。神様の御名をあがめます!アーメン」 この奥様はクリスマスを待たずに天に召されたそうです。祈りましょう。