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山形六日町教会

2023年8月6日

聖書:イザヤ書53章6~12節 コリントの信徒への手紙Ⅱ4章16~18節
「聞き届けられない祈り」波多野保夫牧師

例年にない酷暑の中で8月を迎えましたが、毎年8月の第一日曜日は1945年8月15日に太平洋戦争の終戦を迎えたことを覚えて「平和主日」として礼拝を守り、「第二次世界大戦下における日本基督教団の責任についての告白」いわゆる「戦争責任告白」を告白しています。これは、第二次世界大戦の折に、日本基督教団が「見張り」の務めをおろそかにした過ちを、主に告白するとともに諸国民に謝罪するものです。戦後生まれの方はもちろん、戦争に加担することなく過ごされた方や命じられるままに戦争との関係を強制された方にとっては、なにか釈然としないものが有るかも知れません。しかし、アダムとエヴァの犯した罪は私たちのものであり、だからこそ主イエス・キリストの十字架による贖いもまた私たちのものだと言うことを覚えたいと思います。 第2次世界大戦が終わった後も、紛争や戦争は絶えることがありません。すぐに朝鮮戦争が始まりました。これによって疲弊していた日本の産業が復興したと言われています。さらにベトナム戦争では多くの若者の命が奪われ、2001年からは実に20年間に及んだアフガニスタン紛争があり、その間2003年から2011年までイラク戦争が起きました。2001年9月11日にアメリで起きた同時多発テロではニューヨークの世界貿易センタービルが崩れ落ちる映像が世界中に中継されました。現在でもウクライナでの戦火は止むことがありません。なぜ人間はこの様に戦い続けるのでしょうか? 私たちは真の平和は単に戦火が止むだけではなく、皆が「神様と自分と隣人を愛すること」でしかもたらされないことを知っています。主イエスのみ言葉です。わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。(マタイ福音書6:27,28)過去にけじめをつけ、未来に向かって主の平和を祈り求める告白として、この「戦争責任告白」を大切にしたいと思います。
さて本日の説教題を「聞き届けられない祈り」としました。この説教題を「平和主日」に聞くと、「なぜ、争いが起こるのだろう、平和を祈っているのに。」「なぜ、戦争や紛争が地上からなくならないのだろう。平和の回復を祈っているのに。」このことが「聞き届けられない祈り」と思われるかも知れません。確かに、なかなか平和が回復されないことに痛みを感じます。実はこの「聞き届けられない祈り」と言うテーマで数回に渡ってみ言葉を聞いて行きたいと思っていますが、今日は世界平和の実現のための祈りを忘れない様にしながらも、まず身近な願いごとについてみ言葉を聞きたいと思います。
「波多野先生、先生は去年の夏の説教シリーズの中で、ニッキー・ガンベル牧師が祈りについて語ってくれたアルファーコースのビデオを見せてくれました。その中でお祈りは難しくないんだ。賛美の言葉に続けて「ありがとう」「ごめんなさい」「おねがいします」で良いんだって言われたのを覚えています。それまでチョット構えちゃって難しく考えていたお祈りが身近なものになりました。毎晩祈ってます。」良かったですね。祈りは神様との会話です。毎日祈る習慣は私たちの人生を豊かにしてくれます。続けてください。そして祈る前に聖書を開く時間をぜひ加えてください。
ニッキー牧師が話した「ありがとう」「ごめんなさい」「おねがいします」は「感謝」と「罪の告白」と「願い」で祈りの3要素ですが、毎回全部揃えなければいけない訳ではありません。実際、私の祈りは「お願いします。」がすごく多いように感じます。「波多野先生、だけどその時、言われましたよね。神様は祈りを聞いてくださる。そして、2つの「はい」と2つの「いいえ」でもって答えてくださるって。「ヤット祈ったね。はい、わかった。かなえてあげよう」「はい、わかった。だけど願ったよりももっと良いものをあげよう」「いいえ、あなたの恵みは十分だ」「いいえ、今はその時ではない」。たしか、この4つでした。でも今日の説教題は「聞き届けられない祈り」ですね。1年経つと変わっちゃうんですか?」鋭い突っ込みですね。実際自分の願いや、「なぜですか?」と言った質問に、なかなか答えてくださらないと感じることがあるでしょう。さらに「私の祈りは聞き届けられないのだ。」と感じることもあるのではないでしょうか。整理しながら見て行きましょう。
1)私たちは感情の面で、折り合いを必要とする痛みを抱えています 人生には本当に様々な痛みがありますから、しばしばそれらを取り去ってくださいと祈ります。年をとること、健康、お金や財産、名誉や出世、学生さんなら受験や成績、就職などなど、たくさん祈りの課題があります。さらに、家族や友人に関係すること、恋愛や失恋、学校や職場での人間関係。人間関係が壊れるとそれを修復するのは大変です。他にも多くの祈りの課題があるでしょう。主はおっしゃいます。
今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願ねがいなさい。そうすれば与あたえられ、あなたがたは喜よろこびで満たされる。(ヨハネによる福音書 16:24)本日の説教題「聞き届けられない祈り」とは逆の様に思えるみ言葉ですが、なかなか願った回答が得られない時に、神様に失望してしまうことは起こり得ます。そしてその典型的な症状は、礼拝を休みがちになり、教会の交わりと距離を置くことでしょう。残念ですが私たちの神様への信頼が薄れ信仰が弱まることは起こります。しかし、神様が注いでくださる愛が弱まることは決してありません。

2)私たちは理性の面で答えてもらいたい疑問があります。神様は、すべてがおできになり、すべてをご存知で、どんな時でも愛していてくださる方です。全てを知っていらっしゃる方なのだから、私の痛みがどんなものなのかご存知だし、何でもお出来になるのだから私を助けたり癒したりお出来になります。本当に私を愛してくださっているのなら、なぜ今すぐに助けてくださらないのだろうか? 確かにこの様な思いが湧くのは自然です。しかし、冷静になって神様の次の問いに答える必要があります。
「お前は本当に祈った通りにして欲しいのか?」「お前は本当に8月18日抽選のサマージャンボ宝くじで一等前後賞とも7億円が当選したいのか? 当選した結果お前がどうなるかわかっているのか? それでも7億円なのか? どうなんだ!」「いえ、神様。サマージャンボミニの3000万円にしてください。」これはあまり良い例ではありませんでしたが、「お前は本当に祈った通りにして欲しいのか?」この問いに答えることは必要です。さて、次はちょっと視点をかえて教会についてです。
3)歴史的に見て、教会は聖書の語る姿に忠実ではありませんでした。正直に答えるならば、教会は神様の前に正しい者の集まりではありません。神様を信頼しきって歩む者たちの集まりでもありません。むしろ「神様と自分と隣人を愛すること」において、その破れを持った罪びとの集うところです。ただし、その時に立ち返る場所を知っている者の集まりです。「じゃあ、波多野先生。そんな罪人が大勢集うのが教会ならば、危なっかしくてしょうがないすね。」「いいえ、そうではありません! と言い切れない面が残念ながらあります。」教会では当然のことですが礼拝を大切にしますし、プロテスタント教会では説教をその中心に据えて、聖書のみ言葉が解き明かされます。牧師が主にその務めを担うのですが、残念ながら牧師が考えられないような問題を起こすことがあります。その原因は、主のみ言葉を伝える牧者が、み言葉を語られた主イエスに重なって見えてしまうことで生じる誤解であったり、主のみ言葉をあたかも自分の言葉の様に受け止めてもらえることから生じるうぬぼれです。ですから教会員はみ言葉を語り伝える牧師の後ろにいらっしゃる方だけを見る必要がありますし、牧師もそれを心掛ける必要があります。透明人間牧師です。
「波多野先生。」またあなたですか。何でしょう? 「でもあのパウロは確か、わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。(Ⅰコリント11:1)とか、兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。(フィリピ3:17)とか言ってますよね。」 良く聖書を学んでますね。これからも続けてください。確かにパウロは「私のことを見習え」って言ってますね。けれども彼は 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。(テモテへの手紙一 1:15)とも言っています。ですから、一番の罪人を見習えと言うことになります。どういうことでしょうか? そうです。パウロは「一番の罪人の自分、すなわち「神様と自分と隣人を愛すること」から離れてしまうことのある自分は罪人なんだ。そんな私をも主イエス・キリストは大いなる愛を持って導き、さらに用いてくださる。わたしはそのことを本当に喜んでいる。だからこの私を見習いなさい。一緒に主に仕えて行きましょう。」この様に言うのです。そしてこれこそが「教会は立ち返るところ、すなわち主の十字架を知っている罪びとの集まりだ」と言ったことの中身なのです。確かに私たちの人生は“きれいごと”では済みません。
1)から3)まで感情の面から、理性の面から、そして歴史の面から、私たちの身近なことを整理しながら見て来ました。ここで注目したい聖書箇所があります。「マタイによる福音書」の最後の部分、28章16節17節は弟子たちが復活された主イエスにお会いした場面ですが、興味深いことを伝えています。 28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 イスカリオテのユダは主を裏切って去って行きましたから、11人が主にお会いしたのですが、その中には疑う者もいた と言うのです。 彼らは30才になった主が、バプテスマのヨハネから洗礼を受け、ガリラヤ地方で宣教を始められてすぐに弟子となった者たちです。それから3年の間主と共に旅をして、主が福音の真理を語られた時には間近で聞き、奇跡をおこなわれた時には間近でそれを見たのです。その彼らの中に疑う者がいたと言うのです。今まさに復活された主にお会いしていると言うのにです。 私たちは聖書を通して主のみ言葉に接しています。さらに私たちはそれぞれの歩んで来た人生において様々な奇跡や与えられた恵みを経験しているのではないでしょうか? 私の場合は、牧師として主が用いてくださっていることは奇跡であり、これに勝る恵みはありません。他にも奇跡としか言いようのない出会いであり経験があります。 それにも関わらず、祈りがかなえられない、聞き届けられないと言って疑い始めたり、信頼しきれないと言う思いが湧いて来て不安を覚えたり、恐れたりするのであれば、やはりそれは変ですね。それこそ悪魔の思うつぼです。
主イエスが私たちのところに来てくださるはるか以前の時代、モーセに率いられた出エジプトの旅は、襲ってくる敵との闘いの旅でした。申命記20章8節に次の言葉があります。役人たちは更に民に勧めて言いなさい。「恐れて心ひるんでいる者はいないか。その人は家に帰りなさい。彼の心と同じように同胞の心が挫けるといけないから。」 たしかに怖気づいている臆病者がいると全体の士気が下がります。「そんな者はじゃまになるだけだから帰ってしまえ!」と言う訳です。 しかし、復活なさった主は疑う者も含めて弟子たち全員におっしゃるのです。 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 主から11人の弟子に与えられたこの命令は初代教会に受け継がれて以来、教会に集う者全員に対するご命令とし現代に受け継がれています。「臆病者は帰れ」から「疑う者も私の教会のために働きなさい。」へ。この変化の根拠。それは、私たちの罪を負って十字架に架ってまで私たちを愛してくださっている方の「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」この言葉を、教会が知っていることにあります。
ですから、教会が、集う私たちが、共にいてくださる主を見失わない限り、恐れなければならないものはないのです。
最初に読んでいただいたコリントの信徒への手紙Ⅱ4章16節から18節。4:16 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。17 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

先日の祈祷会で遠藤周作の『沈黙』の映画を見ました。江戸時代初期に幕府はキリスト教を禁止し信者に厳しく棄教を求めていました。そんな時、マカオから日本にやって来たロドリゴ神父は隠れキリシタンたちに大きな喜びを与えたのですが、やがて捕らえられ棄教を迫られます。自分に対する拷問には耐えられても、村人が自分が棄教しない為に命を奪われるのには耐えられません。「なぜ我々がこんなに苦しんでいるのに、神様は沈黙したままなのですか?」この問いに主は答えられました。「わたしは沈黙していたのではない。お前たちといっしょに苦しんでいたのだ。」 神様は、すべてが可能で、すべてをご存知で、どんな時でも愛していてくださる方なのに、なぜ私の祈りを聞き届けてくださらないのだろうか?
聞き届けてくださらないのではありません。私たちがその答えに気づかないだけなのです。その証拠。それが、主イエスの十字架です。最初に読んでいただいた旧約聖書イザヤ書53章です。53:6 わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。7 苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。これが私たちの主イエス・キリストです。祈りましょう。