HOME » 山形六日町教会 » 説教集 » 2023年7月30日

山形六日町教会

2023年7月30日

聖書:詩編51編8~12節 ヨハネの黙示録21章1~27節
「新しい天と新しい地」波多野保夫牧師

説教シリーズ「わたしはすぐに来る」の13回目です。ヨハネの黙示録をご一緒に読み進めて来ましたが、このヨハネの黙示録は、旧新約聖書全66巻の中でも最も難しい書の一つと言って間違いないでしょう。残すのは21章と22章だけになり本日は21章からみ言葉を聞きます。小見出しに「新しい天と新しい地」とあります様に、ヨハネはこの世の歴史が到達する壮大な光景を語ります。先ほどは7節までを読んでいただいたのですが、9節以下を見ましょう。「新しいエルサレム」と言う小見出しが付けられています。終末の時に神の国から地上に下って来る神の国、神様のみ心が行き渡っり神の支配が完全になされています。ヨハネが見たこの都は12,000スタディオンと言いますから2000㎞四方で城壁は144ぺキス、60メートル以上でしかも大変豪華です。21章11節。都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉(へきぎょく)のようであった。18節。都の城壁は碧玉で築かれ、都は透き通ったガラスのような純金であった。そして12段に及ぶ城壁の土台は、碧玉、サファイア、めのう、エメラルド、赤縞めのう、赤めのう、かんらん石、緑柱石、黄玉(おうぎょく)、ひすい、青玉(せいぎょく)、紫水晶でした。12の門は真珠、大通りは透き通ったガラスのような純金でした。碧玉とは石英に不純物として酸化鉄などが混じった宝石だそうです。いずれにしろヨハネが見た新しいエルサレムはものすごい大きさ・広さでありものすごく豪華な都です。何でそんなに広くて豪華なのか、聖書にその説明はありませんが、2000㎞四方と言うことは“全世界”と言うことではないでしょうか? 
終末において地球全体が神の国に覆われるのです。では何でそんなに豪華なのでしょうか? ここに出て来る黄金や宝石類は全て天然の鉱物で、長い年月の間に地球の熱や圧力でできた物、神様が造られた物の一つに過ぎません。しかし、ヨハネからの手紙を受け取った教会にとって、それらはローマ帝国がすべて持って行ってしまった財宝でした。ですからヨハネが見た、この新しいエルサレムが神様の許から降って来る幻は、迫害が終わり地上にある教会に自由が回復されることも意味しているのです。教会への迫害は刑罰や名誉を傷つける制裁だけではありません。キリストから離れさせようとすること全てです。日曜日の午前中に仕事を強制されることも、場合によっては迫害になるでしょう。
21章2節に 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。とあります。聖書で「花嫁」に例えられるのは教会で「花婿」あるいは「夫」は主イエス・キリストです。地上の教会とそこに集う者は、迫害を受けることなく信教の自由であり、魂の自由、良心の自由が回復されキリストをお迎えするのです。
ここで、ヨハネの黙示録20章までを振り返って見たいと思います。90年代のローマ皇帝ドミティアヌスは皇帝礼拝を強要し、それに従わないクリスチャンを迫害しました。捕らえられて、エーゲ海に浮かぶパトモス島に幽閉されたヨハネは、その際に与えられた幻を手紙に書いて、アジア州の七つの教会へ送る様に神様に命じられたのです(2章-3章)。
読み進めて来た6章から15章にかけて、子羊が七つの封印を開封し(6章-8章5節)、七人の天使がラッパを吹き(8章6節-11章19節)、七人の天使が神の怒りの満ちた七つの鉢をぶち撒ける(15章1-8節)。そしてその度に起きた「ただならないこと」が書き記されていました。竜や海から上がって来た十本の角と七つの頭を持つ獣、そして大淫婦などなども登場しました。直接的にはローマ帝国やクリスチャンを迫害する者たちですが、現代の私たちを惑わすものにも当てはまります。反対に、長老や天使、小羊や白馬の騎手が登場しました。主イエスに従う者たちであり、主イエス・キリストご自身です。これらが織り成す一大スペクタルを通して、過去・現在・未来に渡っての壮大な神様の御計画であり、そのご計画の中に現れる大いなる愛が描かれています。
そして、この20章と21章において天地創造によって始まり、主の十字架と復活の出来事を経験し、そして2023年に命を与えられている私たちもその流れの中に置かれている世界の歴史。その世界の歴史が終わりを迎えます。私たちにとって、これら、過去の出来事と現在まさに起きていること、そして将来において必ず起きる出来事をこのヨハネの黙示録は語るです。もちろん終末がいつ来るのかは気になりますが、それは、神様だけがご存知なので、お任せするしかありません。
それではなぜ神様はこの様な幻をヨハネに与え、当時のクリスチャンに、そして私たちに、将来必ず起きる出来事を明らかにされたのでしょうか?私は2022年4月に始まったこの説教シリーズ「わたしはすぐに来る」のスタート時点において、終末に至るまでの出来事を含めて、なぜ神様が未来のベールをとって見せてくださったのか、疑問に思っていました。
先週の梅雨明け以来、猛烈な暑さが続いているなかでの清涼剤とはいきませんが、私の昔話に少し付き合っていただきたいと思います。私の父は電気関係の仕事をしていましたから、我が家には比較的早い時期にテレビがありました。人が立っている位置によってザーッと画面が流れてしまうような時代です。中学生になる前。1960年代の初めころ、確か日曜日の夜だったと思いますが、ウォルト・ディズニー本人が案内役を務める『ディズニーランド』と言う番組がありました。それ以来ディズニー・ファンを続けています。中学生の時に、映画館で「シンデレラ」のアニメ映画を見ました。こんな話でした。心の優しい少女シンデレラは両親と一緒に森に囲まれたお屋敷に住んでいたのですが、母親は若くして亡くなってしまいました。娘の将来を心配した父親は二人の娘を連れた婦人と再婚したのですが、この父親も程なく亡くなってしまいました。すると継母(まま母)と二人の娘はシンデレラを召使の様に扱って虐待し始めたのです。シンデレラとは「灰被り姫」と言う意味で彼女に付けられたあだ名です。誇りまみれになって働かされたのですが、彼女の友達は森の小鳥や動物たちでした。
そんなある日、王宮から国中の若い娘に舞踏会の招待状が届きました。王子様のお妃選びの舞踏会です。それを知ったシンデレラも舞踏会に行きたいと思ったのですが、意地悪な継母たちは自分たちだけで出かけてしまいました。悲しみにくれるシンデレラの前に、妖精のおばあさんが現われ魔法の杖を振るとシンデレラは美しいドレス姿となりガラスの靴を履いていました。かぼちゃの馬車も現われました。馬の姿になったネズミたちが馬車を引き、御者になったのは馬です。「12時になったら魔法は解ける」と忠告された彼女は、王子様のいるお城へと向かいます。お城に着いたシンデレラは、ダンス相手を探していた王子様の目にとまり、2人はお互いに惹かれ合い夢のような時間を過ごしたのですが、時間はまもなく12時。時計台の鐘が鳴り始めました。あわてたシンデレラは階段で脱げてしまったガラスの靴を拾う間も無く逃げ帰ったのです。彼女のことが忘れられない王子は大臣に命じて、ガラスの靴に合う女性を探させるのですが、部屋に閉じ込められた彼女は出てくることが出来ません。しかし、ネズミたちの助けでヤット大臣の前に出ることが出来たシンデレラの足に、ガラスの靴はピッタリと合ったのです。やがて国王となった王子がシンデレラと国民を愛したことは言うまでもありません。ハッピーエンドです。
このアニメですが、シンデレラが幸せをつかんで欲しいとの思いと彼女を徹底的にいじめ、邪魔をする継母と二人の娘たちの憎たらしさにイラついて見ていました。しかし、ガラスの靴に彼女の足がピッタリと収まるシーンでほっとしたのです。もちろんアニメですから、きっとハッピーエンドに違い無いと言う思いはあったのですが、このシーンでほっとしたのです。純真な十代の少年がいたと思ってください。
さて、それから10年ほどたってこのアニメを地上波のテレビで見ました。その時はストーリーの行き着くところを知っていましたから、安心して美しい画面と音楽を楽しむことが出来ました。継母たちの意地悪そうな声、妖精がビビデ・バビデ・ブーといって魔法の杖を振る場面。追いすがる王子を振り切って階段を駆け下りるガラスの靴の音。余裕を持って楽しむことが出来ました。
実は、私はここに“このヨハネの黙示録の意味を見るのだ”と言ったらいかがでしょうか? チョット顰蹙(ひんしゅく)を買いそうなので説明しましょう。なぜ、私は二度目には何で安心して楽しむことが出来たのでしょうか? 最初に見た時と内容はまったく変わらないのに、です。心の優しい少女シンデレラが両親と一緒に森に囲まれたお屋敷に住んでいたことは変わりません。その彼女を襲った悲しい出来事。そして本性を現した継母とその娘たち。召使として厳しく辛い日々を過ごしました。憧れの舞踏会に行くこともかないません。しかし、そこに起きた奇跡。その夢のような時間が終わればまた継母たちの辛い仕打ちが待っていたのです。当然ですが、ストーリーは最初に見た時と同じです。しかし、私は安心して美しい画面と音楽を楽しむことが出来ました。そうです。その結末を知っていたからです。
西暦95年ころのアジア州にあった教会はローマ皇帝の厳しい迫害の中に有ったのです。そんな教会に神様はヨハネに幻を送り、その幻を手紙に書き記して送り届けさせることで、歴史のベールをとって、歴史の行き着くところ。終末における完全な勝利を知らせたのです。「でも、波多野先生。それは先生が完全にシンデレラの物語の外にいて、ただ映画を気楽に見ていただけだから、そう思ったんでしょう。」わかりました。それじゃシンデレラの目から見てみましょう。彼女が両親と過ごした幸せな日々。毎晩寝る前に感謝の祈りをささげたことでしょう。「神様今日も素晴らしい一日をありがとうございました。明日もお父さん、お母さん、そして森の動物たちと喜びの日を過ごせる様にしてください。アーメン。」しかし、その幸せな日々は突然取り上げられてしまいました。そして毎日継母たちに虐められる日々が始まったのです。何も悪いことをしていないのにです。
ヨハネの黙示録に登場する、竜や海から上がって来た十本の角と七つの頭を持つ獣、そして大淫婦などなどが、理由もなくシンデレラを襲って来たのです。これは先週もお話ししたのですが、残念なことに、私たちの人生には「神様、何でですか? なぜ今なんですか? なぜ私なんですか?」この様に問わざるを得ないことが突然起こり得ます。経験された方もいらっしゃることでしょう。シンデレラの物語を続けましょう。
妖精のおばあさんが魔法の杖を振ることで美しいドレスとガラスの靴を身に着けることが出来たシンデレラは、お城へと向かい王子様にお会いしたのです。聖霊の働きによって美しい心に変えていただき、神の国に行って王子様、神の独り子主イエス・キリストにお会いする。私たちはもう、シンデレラ・ストーリーの主人公その者です。王子様と共に過ごす夢のようなお城での時間です。
ルカ福音書9章に主がペトロとヨハネとヤコブだけを連れて祈るために山に登られた場面があります。そこでイエス様と預言者モーセとエリヤとが語らっているのを見たペトロは、「ここに仮小屋を三つ建てましょう。」と言いました。この素晴らしい時間がいつまでも続いて欲しい、終わって欲しくないとの思いからでしょう。しかし、ペトロやシンデレラの経験した夢のような時間。この礼拝の時がそうであって欲しいと思うのですが、やがて終わりの時を迎えます。残念なことですが、私たちの経験する素晴らしい時間であり、素晴らしい関係もやがて終わります。しかし、パウロは言うのです。信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最もっとも大いなるものは、愛である。(コリントの信徒への手紙一 13:13)信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。私たちを隔て分かつ死の向こう側まで続くもの。その中で最もっとも大いなるものは、愛である。シンデレラの幸せな時間も12時の鐘が鳴り終わるとともに終わりました。あわててお城から逃げ出したシンデレラのドレスは元の仕事着に戻り、素敵な馬車はカボチャに戻ってしまいました。そこに待っていたの継母たちの執拗ないじめが続く辛い日々でした。いつ果てるとも知れない辛い日々、ヨハネが手紙を送ったアジア州の教会は正にその様な日々の中に置かれていました。しかし、彼らには歴史が行き着くところ、主イエス・キリストに従う者の完全な勝利の姿が示されたのです。彼らは大いなる迫害の時代に有って信仰を守り抜くこと、次の世代にだけではありません。2000年後の私たちにまで信仰を伝えているのです。実際世界史によれば、ヨハネが経験した90年代の皇帝ドミティアヌスによる迫害に増して、300年代の初めディオクレティアヌス帝の迫害(303年-311年)は激しいものでした。聖書は焼かれ教会が取り壊されただけではありません。キリスト教徒を捕らえて円形闘技場に引き出し、ライオンに食わせるといった公開処刑も行われました。しかし、信仰を根絶やしにすることは出来ませんでした。それどころか、それから10数年後の313年、ローマ皇帝コンスタンティヌスによってミラノ勅令が出され迫害は止み、キリスト教はローマ帝国の国教、国の宗教になって行ったのです。確かに300年代初頭に迫害の中を生き抜いた教会は、終末の時の約束、主イエスが再び地上に来て悪魔の様なローマ帝国を滅ぼしてくださる。その一点に望みを託して厳しい迫害を耐え忍んだのです。そして313年に激しい迫害が止んだ時、彼らはそこに終末の到来を見たに違いありません。しかし、それから1700年以上がった経った今日現在、終末はまだ来ていません。聖霊はガラスの靴に合う者たちを探していらっしゃることでしょう。
黙示録21章6節7節に戻ります。6 また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。アルファはギリシャ語アルファベットの最初の文字であり、オメガは最後の文字ですから、初めであり、終わりである。この言葉が繰り返されているのですが、「初めであり」は「時間的に最初に起こったこと」と言うよりも「すべてのものの根源であり原因」と言う意味です。すべてのものが、神様によって生まれ、創られ、存在するのです。そして「終わりである」は「時間的な最後」と言うよりも「目的であり、すべてが完成に至る」すべてが神様から出て神様に帰る。個人に当てはめれば苦しみの中で語ったヨブの次の言葉がピッタリします。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与あたえ、主は奪う。主の御名みなはほめたたえられよ。」しかし、この世の全て、いや歴史の全てに対して主はおっしゃるのです。6節7節です。また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。 この言葉が完全に成し遂げられるのは確かに終末の時を待たなければなりません。しかし、この言葉は既に教会の届いているのです。理由は簡単です。教会は主の福音、十字架に示された主の愛を知っているからです。

ヨハネの手紙Ⅰ4章19節のみ言葉です。 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。私たちは、「神様と自分と隣人を愛する日々」を、終末の時に向かって歩み続けて行きましょう。これこそが幸せな日々だからです。祈ります。