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山形六日町教会

2023年7月23日

聖書:コヘレトの言葉3章11節 ローマの信徒への手紙13章11~14節
「時を知る」波多野保夫牧師

説教シリーズ「あなたへの手紙」の30回です。このシリーズでは、現在使徒パウロが書き送りました「ローマの信徒への手紙」を読み進めています。パウロは12章と13章の2章に渡って、主イエス・キリストの愛を知っている私たちクリスチャンの生き方について述べています。小見出しを追って行きますと12章1節以下には「キリストにおける新しい生活」とあり、9節以下には「キリスト教的生活の規範」とありました。そして前回一緒に読みました13章1節から7節には「支配者への従順」とあり、パウロは  人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。と語り始めており、私たち民主主義の教育を受けた者にとっては大変理解しにくい聖書箇所でした。
今、繰り返すことはしませんが読み解く3つのキーワードがあります。一つは、主イエスもパウロもそして教会も、無秩序の行き着く悲惨さを知ったうえで、武力革命を嫌った歴史的な事実です。 もう一つは、「支配者に従順」であるために欠かすことが出来ないことが13章8節から10節にあります。「隣人愛」と小見出しが付いています。互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。 教会における権威を例としてお話ししました。教会の上に立つ権威は主イエス・キリストお一人だけです。私たちはその権威に従います。そして教会が主の権威の下に立ち続けるためには秩序が必要であり、その秩序を維持するために、また主のみ心に従い続けていくために、私たち改革長老教会の伝統に有っては長老会が教会政治を担います。無秩序に陥らないためです。しかし、ここで欠くことの出来ないのが、祈り合うことです。共に「主のみ心を正しく聞くことが出来ます様に、み心が地にもなります様に。」と祈り合うのです。そしてそこに、パウロが言います「上に立つ権威」との正しい関係を見るのです。「隣人愛」を地上に、あるいは日々の生活の中に表すため、そして無秩序のもたらす悲惨さを避けるために「上に立つ権威」は立てられているのです。三つ目は既に読んで来ました12章の最後の部分。19節から21節です。12:19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「21 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」と書いてあります。20 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」21 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。 ユダヤの最高法院であり、その上に立つローマ帝国に対して従順を貫かれた方は、何よりもそれらの権威のさらに上に立つ権威、すなわち父なる神様に従順でした。御心に従って私たちの罪を負って十字架への道を歩まれたのです。21 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。この言葉に完全に従った方の勝利は死に打ち勝つこと、すなわち復活の出来事によってもたらされたのです。さらに、私たちがこの方に従う時に「罪」が赦され「永遠の命」が約束されている。これがキリスト教信仰の中心です。
さて、今朝与えられた13章11節から14節でパウロは あなたがたは時を知っているのだからと語り始めます。説教題を「時を知る」としましたが、皆さんはいかがでしょうか?確かに私の腹時計は12時が近づいて来ていることを示していますし、壁の時計を見れば10時40分だと分かります。一週間後のこの時間にも皆さんと一緒にここに集まって礼拝を守っていることでしょう。時、時間、時刻と言った言葉を少し曖昧に使っていますが、私は「時」を知っています。
しかしアウグスティヌスは言いました。「いったい時間とは何でしょうか。 誰も私に尋ねないとき、私は知っています。 尋ねられて説明しようと思うと、知らないのです。 」(『告白』11巻14章)科学者は、出来るだけ正確に繰り返すものを見つけて、その繰り返しの回数を時間と言います。地球が太陽の周りを一周するのが一年。地球の一回転が一日、振り子が一回触れるのが1秒。現在ではセシウム原子から出て来る光の振動数で1秒を決めるそうです。
その一方で私たちは平等に一年に一歳ずつ、年をとって行きます。確かに時間は自分の意思に関係なく、しかも止まることなく流れて行きます。時であり時間は神様が創造されたこの世界の仕組みの一つで、タイムマシーンは空想科学の世界にしか存在しません。
パウロがここで あなたがたは時を知っているのだから と語るのには、2つの意味があります。
一つは、天地創造に始まるキリスト教の歴史観には時の行き着くところ、すなわち主イエス・キリストが再び地上に来て裁きを行われる「終末」があると言うことです。クリスチャンは必ず「終末」が来ることを知っているのです。
クリスチャンが知るもう一つのことは「終末」の裁きに備えて現在何をなすべきかと言うことです。ですから、11章11節と12節の前半は「終末が近づいている」ことを語り、12節の後半から14節では「時を知っている」私たちがなすべきことを述べるのです。詳しく見て行きましょう。パウロがクリスチャンを迫害する者から、キリストの故に迫害される者へと180度変わった切っ掛けは、ダマスコにクリスチャンを迫害するために向かった際に、復活の主にお会いしたことでした。3週間前の週報に記した「パウロ年表」によれば、西暦33年のことです。この「ローマの信徒への手紙」を書いたのが56年ですから、20数年の間に 救いがもっと近づいている すなわち終末がもっと近づいていると言うのです。パウロは1年前の55年頃にフィリピ教会への手紙で次の様に述べています。わたしは熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。(フィリピの信徒への手紙3:6-8)復活された主イエスにお会いする前、パウロは忠実なユダヤ教の指導者でした。だからこそ一生懸命にクリスチャンを迫害していたのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。確かに彼がクリスチャンになってから20数年の間に地中海沿岸地方の各地に教会が立てられました。その教会は内側にも多くの問題を抱えていたのですが、一つずつ乗越えて成長し続けて来ました。それはパウロが 救いがもっと近づいている すなわち「終末の時」が近づいていると感じるのに十分な状況でした。なぜなら多神教のローマ帝国が絶対的な権威を持っており、主イエスを神の独り子と認めないユダヤ教もそれなりに力を持ち続けている世界にあって、教会が発展して行ったのです。パウロが聖霊の豊かな働きを感じ、そして終末が近いと理解するのに十分だったのです。これは12節でも言われます。 12 夜はふけ、日が近づいている。彼が最終的な勝利の時であり栄光の時、「終末」が近いと理解するのに十分だったのです。しかし、それから2000年の時が経った今、まだ終末は来ていませんし、この世界は大きな課題をいくつも抱えており、悪魔が支配しているのではないかとさえ感じられる時があります。いったいいつになったら主イエスは私たちのところに来てくださり、真の平和が実現するのでしょうか? 
終末についてはもう一つの説教シリーズ「わたしはすぐに来る」で読み進めています「ヨハネの黙示録」が多くを伝えていますが、それがいつなのかは語りません。 マタイによる福音書24章で、主は様々に終末の出来事を教えられたのですが、36節「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」この様におっしゃり、さらに続けて語られます。 37 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。38 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。39 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。
旧約聖書創世記6章にノアの物語があります。6:5 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、6 地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。 そして神様の前に正しい人だったノアとその家族8人を除いて、すべての人を地上から拭い去られたのです。
残念なことですが、これが2023年の世界の姿と読むことが出来てしまいます。しかし、神様は世界を覆う洪水によって「罪」を犯し続ける人類を滅ぼしつくそうとはなさいません。既に独り子、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事によって、人間を愛して止まない姿をハッキリと示されたからです。
それでは、私たちはどうすれば良いのでしょうか? まず、マタイ福音書24章で「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」とおっしゃった主は私たちに忠告されています。24章42節。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。 44節。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。
パウロは11節で言います。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。そして12節の後半から14節では「時を知っている」私たちがなすべきこと、備えるべきことを述べるのです。
読み進める前に「終末」について少し考えてみたいと思います。使徒信条では「かしこより来たりて裁き給わん」と告白するのですが、「終末」が頭の中での理解になって、「実際にやって来る喜びの時」と言う期待が薄くなっているのではないでしょうか?新興宗教や異端の教会の方が危機感を煽ることで身近なものになっているのかも知れません。
実は、私は自分に「3つの終末」があると思っています。ズーッと続けて来た日々の生活が大きく変わる時はこれからもあるでしょう。一例を挙げれば、牧師として毎週皆さんと礼拝を共にする幸せな時にも終わりがあり、山形六日町教会を去る時、皆さんにとって喜びの時でないことを願っていますが、これは必ずいつかは訪れます。2つ目は神様の御許に召される時。これも絶対にあります。そして3番目が主が再び地上に来てくださる喜びの時「終末」です。それぞれの時期や順序は分からないのですが3つとも必ずやって来ます。
マタイによる福音書25章1節以下に「十人のおとめ」のたとえ があります。後ほど聖書を開いて読み直していただきたいのですが、その最後で主は 25:13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。 これは私の考える「3つの終末」に対しての言葉だと私は聞くのです。
それではどうするのでしょうか? ローマの信徒への手紙13章12節。12 夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。やみのわざとは13節です。13 宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。 こんなことで一時の快楽は得られるかも知れませんが、人を幸せにすることは決してありません。しかし、分かっていてもなかなかやめることが出来ない。アルコールや薬物中毒だけではありません。最近ではゲーム中毒なども話題になります。悪いと分かっていてもやめられない。悪魔の誘いは極めて巧妙ですから、最初は「みんなやってるよ、ちょっとくらい大丈夫。悪いことを少し知っておくと人間の幅がひろがる大切なことだよ。」「普段忙しく働いているから日曜日くらいはゆっくりしなくちゃ。」 悪魔は主の愛から離れさせようと巧みに誘います。
パウロは「悪と戦え」と小見出しが付けられている、エフェソの信徒への手紙6章19節以下で丁寧に語っています。6:10 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。11 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。12 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 「光の武具」であり「神の武具」は、私たちを悲惨な生活へと落としめることを最高の喜びとする悪魔との闘いに欠かせません。6:13 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。14 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、15 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。 真理、正義、平和 これは悪魔と戦う強力な武器です。6:16 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。17 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。18 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。沢山のことが言われていますが、その全てが兄弟姉妹と共に守る、この週ごとの礼拝の中に整えられています。 なぜでしょうか。それは主が共にいてくださること、私を愛してくださっていること。それを一番強く感じる時であり場所がこの礼拝だからです。
そして私たちは聖書の言葉を聞くのです。13章14節。あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。 終末がなぜ2000年もの間やって来ないのか? それはいつなのか? この疑問に対して、カール・バルトの終末理解を紹介したいと思います。【 キリストが裁きのために、天の国から降って来てくださると言う「再臨の時」が「終末」だと言うのならば、それが遅れているのではない。「終末」は既に来ている。遅れているのはその事実に私たちが気づくことなのだ。(『ロマ書』p605-606)】 バルトはこの様に言っています。確かに、主が30歳になられて公生涯に入られる際の第一声は「悔い改めよ。天の国は近づいた(マタイ4:17)」でした。 主イエスの愛を知る教会において、天の国は既に地上に届いています。教会は教会は歴史の行き着くところ「終末」を知っていますし、どの様な備えをもって「終末」を待ち望むのかを知っています。礼拝を中心として幸せな生活を送り、聖書に導かれ神様との会話、祈りですね。祈りを欠かさない。そして変わることの無い主の豊かな愛を隣人と分かち合う。奉仕であり伝道です。これこそが「時」を知る者の喜びの人生です。
最初に読んでいただいたコヘレトの言葉3章11節です。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。残念なことですが、私たちの人生には「神様、何でですか? なぜ今なんですか? なぜ私なんですか?」この様に問わざるを得ないことが起こります。しかし、私たちはそれを乗越えることが出来るのです。死に勝利されたキリストに従う私たちには最後の日の勝利が約束されているからです。そしてその確かな証拠、それがここに掲げられている十字架であり主イエスの復活なのです。 祈りましょう。