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山形六日町教会

2023年7月9日

聖書:詩編90編1~6節 ヨハネの黙示録20章1~15節
「命の書に記された者」波多野保夫牧師

説教シリーズ「わたしはすぐに来る」の12回です。このシリーズではヨハネの黙示録を読み進めています。黙示とは「覆いをとって、隠されている真実を明らかにする」と言う意味です。西暦90年代にローマ帝国によるキリスト教迫害の激しさが増す中で、ヨハネは、パトモス島に奴隷として幽閉されたのですが、その際に神様から与えられた幻を書き留めてアジア州の教会に書き送る様に命じられました。迫害によって大きな苦しみを味わっていた教会に向かって、幻によって与えられた人間の歴史が行き着く日、すなわち終わりの日の勝利と言う隠された真理を語り、神様を信頼して勇気を出して日々を歩むように勧めるのです。
私たちは深い悩みや苦しみの中に有る時、その先にある勝利を見ることは出来ません。なぜならそれは時間の壁、歴史のベールに覆われているからです。しかし、聖書の最後にありますこのヨハネの黙示録は2023年に命を与えられている私たちに対しても勇気を与えてくれる書なのです。なぜなら、十字架に架ってまで私たちを愛して止まない主イエス・キリストが、やがて来てくださり、この世の悪に勝利してくださることが告げられているからです。
ですから、私たちは西暦90年代にローマ帝国の迫害に苦しんでいた人たちと同じように、あるいは歴史上絶えることの無い戦火に苦しんで来た人たちや、人として扱われることの無かった奴隷たちや、様々な病に苦しんでいる方々と同じように、ヨハネが伝えます歴史が行き着く日、終末の日における勝利に希望を託すことが出来るのです。しかし、この手紙はローマ帝国の迫害下にあって書かれました。手紙の内容がローマに知られることは新たな迫害を生むリスクがあります。そこで、クリスチャン同士には分かるのですが信仰を持たない者には理解できない表現、すなわち旧約聖書を下敷きにしたり、象徴的な表現を用いて書かれています。ですから、時代的・文化的背景が大きく異なるうえに、旧約聖書に精通しているとは言えない私たちには大変理解しにくい手紙となっています。
与えられた聖書箇所を丁寧に読み解いて行きたいと思いますが、まず前回、第11回で読んだ15章から19章の復習から始めましょう。大変長い聖書箇所でしたが、15章16章の小見出しにはそれぞれ「最後の七つの災い」「神の怒りを盛った七つの鉢」とありました。この世の悪、なかでも神様に従う者を死に追いやった者たちへの神様への怒りが語られました。波多野先生 「それならこの神様の怒りは私たちには関係ないですね。だって今の日本にはイエス様に従ったからと言って命を絶たれるなんてことはありません。殉教は昔起こったことなのだから。」 確かに私たちがクリスチャンだからと言って殉教者になることは無いでしょう。しかし、加害者になって神様を怒らせてしまうことは無いでしょうか? 「人を殺すな」との十戒の命令は、主によれば「人を生かせ」と理解すべきです。隣人を本当に愛しているのか? との問い(ルカ18:18-21)ですから、結構厳しいのです。でも、私たちは神様の怒りから免れることが出来ます。私たちの身代わりとして十字架を負ってくださった方、主イエス・キリストを救い主として信じ従う信仰によるのです。これは私たちの信仰の中心です。
17章ではバビロンの大淫婦が登場し王や住民たちを惑わして破滅へと導きました。この大淫婦は道徳的にも堕落しきっていたローマ帝国のことを指しています。
18章に進むと大淫婦は神様のみ心を受けた力強い天使によって滅ぼされます。しかしこの時、堕落しきった上に横暴を極めたローマ帝国の滅亡を多くの者が悲しみ嘆くと言うのです。繁栄の中で様々な不正に慣れてしまい鈍感になっている者たちです。2023年にあって、主の愛を知る者がそうであってはなりません。
19章に至って、現在天上にいらっしゃる主イエス・キリストが登場します。7節です。19:7 わたしたちは喜び、大いに喜び、 神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、 花嫁は用意を整えた。新約聖書が小羊と言う時、それは主イエス・キリストのことです。旧約聖書の語る紀元前の時代、ユダヤ教の世界でのことで、人々は神殿で自分の身代わりとして小羊を犠牲として献げ、犯した罪、すなわち十戒を始めとする律法に反した行いと思いを赦してもらいました。 キリスト教は、「神様と自分と隣人を愛しなさい」と言う神様の御命令に反する思いと行いを「罪」と呼びます。しかし、教会の礼拝の中で小羊をささげて赦していただくことはありません。必要ないからです。主イエス・キリストが十字架に架ることで、すでに私たちの身代わりとなってくださったからです。 私たちはその主に従うことで罪を赦していただき、キリストの愛の中を歩む豊かな人生が与えられるのです。 そんなわけで、私たちの罪を負ってくださった方、主イエス・キリストを小羊にたとえたり、贖いの小羊と呼んだりするのです。
19章7節8節です。19:7 わたしたちは喜び、大いに喜び、 神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、 花嫁は用意を整えた。8 花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、 聖なる者たちの正しい行いである。小羊との結婚相手、花嫁にたとえられるのは、私たち地上の教会です。教会が花嫁と呼ばれますから、結婚相手の主イエスは花婿とたとえられることもあります。いずれにしろ主イエスと教会は相思相愛の関係にあるのです。教会とそこに集う私たちはキリストが聖い方であるゆえに、神様から聖い者、罪のない者とみなしていただき、死の向こう側にまで続く主の愛の中を歩みます。聖書はこれを「永遠の命」と呼ぶのですが、先ほど申し上げたように、私たちが救われるのは主イエスキリストへの信仰だけに依るのです。
16世紀の宗教改革者たちが「信仰のみ」と言い表したのは、「この救いに与るのは善い行いを積み重ねたからではなくて、主イエス・キリストへの信仰だけだ。」と言うことです。 もちろん善い行い、困っている人、弱い人の為に働くことは大切ですが、それはキリストの愛を知るほどに、祈りと共に自然に出てきてしまうもので、救いの条件ではありません。
さて、19章11節以降では白馬の騎士が登場します。悪魔に占領されているかの様な地上にイエス・キリストが来てくださるのです。19節20節。19:19 わたしはまた、あの獣と、地上の王たちとその軍勢とが、馬に乗っている方とその軍勢に対して戦うために、集まっているのを見た。20 しかし、獣は捕らえられ、また、獣の前でしるしを行った偽預言者も、一緒に捕らえられた。このしるしによって、獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者どもは、惑わされていたのであった。獣と偽預言者の両者は、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。地上に来られたキリストによって獣と偽預言者は滅ぼされました。獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者どもは、惑わされていたとあります。現代においても人の心をもてあそぶ獣や偽預言者は後を絶ちません。こんなものに付け込まれない最高の方法、それは主イエス・キリストの刻印、洗礼ですね、この刻印を受け、主イエス・キリストを礼拝することです。
長い振り返りになりましたが、終末の出来事を幻によって明かされたヨハネが西暦95年頃伝えてから2000年近くの時が流れました。 私たちにとって、大淫婦や獣は何を意味するのでしょうか? もちろんそれはローマ帝国ではありません。しかし、皆が「神様と自分と隣人を愛する」幸せな生活から離れさせようとする者たち、悪魔は現代においても元気です。そして、主イエスが再び地上に来られて裁きを行い、悪魔を滅ぼしてくださる終末の時は必ずやって来るのです。
先ほど司式の柿崎長老に読んでいただいた20章2節以下です。悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、 底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。 この世の悪が悪魔、サタン、蛇、竜と様々に呼ばれるのは、様々な形や様々な折を捉えて私たちを誘惑しようと襲ってくるからです。「そのくらいなら大丈夫、みんなやってるよ!」 神様と自分と隣人に対して謙虚さを失わせるのが悪魔の作戦です。その悪魔に打ち勝つ方法は明らかですね。日々、聖書に親しみ祈りの時間を持つこと。日曜日の礼拝を兄弟姉妹と共に守ることです。さて、千年の間、悪魔は縛られて地上から取り除かれ、その千年間悪魔に従わなかった者たちはキリストと一緒に地上を治めます。「千年王国」と呼ばれます。悪魔は閉じ込められて人間に影響を与えることが出来ないので、この千年は瞬く間に過ぎていく喜びの千年になることでしょう。最初に読んでいただいた詩編90編4節には 千年といえども御目には 昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。この様にありました。確かに一夜の夢は長続きしません。「神様の永遠」に気づいた時に人は己の無力さを知らされ謙虚にさせられますが、悪魔はどんな時であっても謙虚になることはありません。ですから謙虚さを失うほどに人は悪魔に似てしまうのです。その千年がアッッという間に過ぎると悪魔は牢から解放され諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。この様にあります。ゴグとマゴグは旧約聖書に登場する神様に逆らった王でありその領地です。千年間、邪悪な悪魔が閉じ込められて平和で正義が支配する幸せな時を過ごしたにもかかわらず、すぐに悪魔の誘いに乗って神様に逆らおうとする者が海の砂のように多かったと言うのです。神様の恵みを沢山いただいて幸せな時を過ごしたにもかかわらず、それが過ぎ去ると、すぐに悪魔の誘いに乗ってしまう。私のことを指摘されている様です。しかし、終末の神様の裁きはハッキリしています。10節。そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。悪魔やサタン、獣であり偽預言者などは、神様によって滅ぼされてしまいます。
20章11節以下には「最後の裁き」と言う小見出しが付けられていますが「最後の審判」とも言われます。ヨハネが見た幻です。20:11 わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。12 わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。悪魔とその仲間は既に滅ぼされてしまいましたが、「最後の審判」をまぬかれる人はいません。20章4節5節には、主の福音の為に殉教した者は「千年王国」の始まる前に復活し、その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。とありました。すべての者は復活して玉座の前に並びます。終末の時に命がある者も玉座の前に並びます。すべての人が「最後の審判」を受けるのです。
12節。12 わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。 そして、幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。この裁判所では聖書に従って裁きが行われますが、この分厚い聖書に書かれていることはダダ一つだけ、神様が愛の神様だと言うことだけです。ですから裁きは「神様と自分と隣人を愛しているのか? 愛したのか?」 この一点で行われます。波多野先生「終末が来ると僕も裁きを受けるんですね。でも良かった。礼拝にもそこそこ出ているし、人をいじめたことなんてありません。」それは良かったですね。でも主の言葉を思い起こしてください。 わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。(マタイ5:44-46) この言葉を思い出しても自信ありますか? 
黙示録20章12節を繰り返します。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。聖書と共に開かれ、裁判の際に基準とされる「命の書」これは洗礼者名簿です。洗礼は、主イエス・キリストを救い主と信じて従うことを約束して授けられます。 
使徒言行録 2章21節。主の名を呼び求める者は皆、救われる。
ローマの信徒への手紙10章9節から11節。 10:9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。11 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。これが「命の書」に名前が記されている人への判決です。「主文。汝に主イエス・キリストと共に過ごす永遠の命を与える。」20章15節。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。「命の書に名前の記されていない者」とは、洗礼を受けずに亡くなった方がその候補になります。皆さんの愛していらっしゃる方の中に、該当者がいらっしゃるかも知れません。しかし、聖書は様々に語っています。
コリントの信徒への手紙Ⅰ7章14節。信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。 
ルカによる福音書19章で金持ちの取税人ザアカイが罪を悔い改めた時、9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。」 実際に罪を悔い改めたのはザアカイ一人ですが、主は救いがこの家を訪れたとおっしゃいます。ユダヤの習慣では「この家」とは家族だけではなく使用人も含まれます。だとしたら、私たちは信仰を持たずに亡くなった方の為に祈るのです。
このあとご一緒に告白します使徒信条には、主イエスは墓に葬られ「陰府に降り」とあります。陰府とは死後に救いが約束されていない人が行くところで、判決を受けて送られる地獄とは違い苦しみの場所ではありません。主は復活までの3日間、陰府に行って伝道なさったのです。私たちは信仰を持たずに亡くなった方が主によって洗礼を授けていただく様にと祈るのです。命の書に名前が記されるように祈るのです。
私たちの世界はいつの日にか「終わりの日」を迎えます。その日に「命の書」に名前の記された者には救いが与えられます。ですから終末は恐ろしい「世の終わり」ではなく、主に従う者の勝利の日なのです。

だとしたら私たちが今なすべきこと。それは、主に従う喜びの日々を生きること。例え困難や苦しみ悲しみの中に有っても希望を失わないこと。そして主の福音を多くの方に届けることです。信仰は分かち合うと減るのではなく、増えるからです。主の愛の中で生かされる喜びは分かち合うと減るのではなく、増えるからです。 祈りましょう。