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山形六日町教会

2023年6月18日

聖書:詩編34編1~8節 マタイによる福音書5章1~10節
「風かおる丘で」波多野保夫牧師

本日は、この会堂で毎月コーラスの練習をしていらっしゃるタウベンコールの皆さんとご一緒にみ言葉に聞き賛美の時を持っています。2019年以来、実に4年ぶりとなります。先日、ある音楽家の方が、西洋音楽のベースにはキリスト教音楽があるとした上で、次の様に指摘なさっていました。「讃美歌は、単旋律であったり和声を用いてささげられるものが多いので、メロディーと和声の基礎的な要素を学ぶための素材として重要です。多声部の和声は、西洋音楽の発展において重要な役割を果たして来たのです。」私には詳しいことは分からないのですが、後ほど練習を重ねられた賛美を献げていただきます。

さて、読んでいただいた主イエスの教えには、「心の貧しい人々」に始まり「悲しむ人々」「柔和な人々」「義に飢え渇く人々」「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」「義のために迫害される人々」と8つの幸いが並んでいます。「波多野先生、「柔和な人や、心の清い人や、平和を実現する人」が幸せだって言うのはそうだと思うんですが、「悲しむ人」や「迫害される人」がどうして幸いなんですか?」良い質問ですね。悲しむ人が幸いだなんて、矛盾している様に聞こえます。
教会が聖典として大切にしている聖書全体を見ることから始めましょう。この分厚い聖書は前半の3/4ほどが、イエス様誕生以前に人間がたどった歴史を語っています。旧約聖書と呼ばれます。神様が天地のすべてを創造された出来事から始まっています。神様は人間を愛したくてしょうがない方なのですが、人間の歴史はその神様に逆らったり、悔い改めて神様に立ち返ったりの繰り返しでした。
最初に読んでいただいた詩編34編は、紀元前1000年頃にダビデ王が神様に立ち返った際に、大きな恵みに感謝して読んだ喜びの詩です。分厚い聖書の後半の1/4が主イエス・キリスト誕生後の物語です。新約聖書、すなわち神様の新しい約束の物語が書かれており、その最初に主イエス・キリストの生涯を伝える書物があります。福音書と呼ばれています。辞書を引いてみますと「福音」とは ①よろこばしい知らせ。 ② キリスト教で、イエス・キリストによってもたらされた、神からの喜びのおとずれ。 罪からの救済のしらせ。 この様にありました。
主イエス・キリストの生涯の物語が、なぜ「福音」なのかと言えば、その地上での生涯全体が神様のお考えを余すところなく伝えてくれるからです。「お前たち、みんなを愛しているよ!」と言う神様のお考えであり宣言です。キリスト教が「愛の宗教」言われる所以(ゆえん)は、神様が「愛の神様」だからであり、イエス様が100%その愛を示してくださったからなのです。
主イエス・キリストの生涯をたどりましょう。クリスマスの物語から始まります。毎年クリスマスが近づくと、多くの讃美歌を山形の町の各所で耳にするようになります。神様の独り子が真の人として来てくださった喜びの歌声「もろびとこぞりて」や「あら野のはてに」「きよしこの夜」などが教会だけでなく巷に溢れます。乙女マリアへの受胎告知から誕生に至る出来事はしばしばページェントとして子供たちが演じてくれます。バッハが作曲した「クリスマス・オラトリオ」を聞くことが出来るのもこの時期です。
主イエスは少年期をイスラエルの首都エルサレムから160キロほどはなれたガリラヤ地方と言う田舎で過ごされました。聖書は多くを伝えていないのですが、家庭では十戒を始めとする律法の教育を受け、安息日には会堂で礼拝を守っていらっしゃったことは確かです。12才の時に家族でエルサレム神殿に巡礼の旅に出かけたのですが、帰り道ではぐれてしまいました。マリアとヨセフが捜しまわると 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。(ルカ福音書2:41-52)この様に聖書は伝えているのです。 青年時代の様子を聖書はまったく伝えていません。これは、俗説なのですが、大工だった父親のヨセフが早く亡くなり、母マリアや兄弟たちの生計を大工仕事で支えていたのだろうと言われています。
聖書は、イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。(ルカ3:23)この様に語ります。現在では教会が担っているのですが、「宣教」とは「お前たち、みんなを愛しているよ!」と言う神様のお考えを人々に伝えて、主イエス・キリストに従うことで幸せな人生を過ごすように促すことです。
ガリラヤと言う片田舎から始まった宣教の旅は、ほぼ3年後に首都エルサレムでハイライトに達しました。人々の罪を一身に負って十字架の死を遂げられたことです。その週の日曜日には人々の大歓迎を受けてエルサレムへ入られたのです。聖書の証言です。 大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、 なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、 イスラエルの王に。」 (ヨハネ12:12-13) ホサナは「救ってください」と言う意味です。ローマの圧政から国を救ってください。ローマをやっつけてください。民衆はこの様に迎えたのです。
しかし、たった5日後の金曜日には十字架に架けられてしまいました。その理由は主イエスが、民衆が待ち望んでいたローマ帝国からの解放者ではなく、全世界・全人類の救い主だったからでした。さらに、神様のみ心を正しく伝えたことで、当時の宗教指導者たちの利権を損なったからでした。彼らは主をローマ帝国に渡して十字架に架けるようにと求めたのです。十字架刑は生身の体を釘で打ち付けて野曝らしにすることで、長い時間苦しみ悶えて死に至る、古代において最も残酷な刑罰でした。公開処刑はローマ帝国へ反逆を試みる者への見せしめとされました。勝手な期待を抱いた人間の傲慢さは欲望や嫉妬と一緒になって、神の独り子を裏切り殺してしまったのです。真(まこと)の愛を語り実践された方は、歪んだ愛や自己保身などの前では邪魔な存在でした。
バッハが作曲した有名なマタイ受難曲は受難の告知から始まり、遺体を墓に収めた場面で終っていますが、聖書は悲劇の物語ではなく勝利の物語を語ります。3日後の主の復活です。絶対的と思える「死」に対して「復活」という勝利の物語を語ります。ヘンデルの『メサイヤ』、あのハレルヤ・コーラスです。
週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。(マタイ28:1-10)
イースターの朝の出来事で、教会にとって最も大切な記念日です。週の初めの日とは日曜日ですから、教会は2000年の間日曜日の礼拝を欠かしたことがありません。そして教会はあの最も残酷な死刑の道具、十字架を主の愛のシンボルとして高く掲げるのです。神様が私たちの「罪」を独り子、主イエス・キリストに負わせることで、主に従う者を罪のない者と見なし、大いなる愛の中を歩む幸せな人生を送る者としてくださっています。その愛のシンボルとして十字架を高く掲げるのです。「波多野先生。」また君ですか、何でしょう? 「今、私たちの「罪」と言われたのですが、僕はここのところスピード違反もしてないし、もちろん盗んだり人を傷付けたことなんてありません。」それは、いいですね。ぜひこれからも続けてください。しかし、聖書が告げる「罪」は法律違反とちょっと違うんです。イエス様は私たちが幸せな人生を送る様に「神様と自分と隣人を愛しなさい。」と命令されました。そして、これが守れないことを聖書は「罪」と呼びます。「それって、たいして難しくないですね。だって僕は、礼拝に出たり教会で奉仕したりして神様を愛してます。ジムに通ったり暴飲暴食を避けて自分の体を大切にしてます。Lineで繋がっている友達も大勢いるし、24時間テレビの募金もたまにはしています。」それは良いですね。ぜひこれからも続けてください。君は、自分を愛することが、自己中心になることじゃないってチャント分かっていますね。そんな事をすれば本当の友達は出来ません。お金で友達を買うなんて言うのもあるようですが、金の切れ目が縁の切れ目です。
「隣人を愛しなさい」ってイエス様に言われた時、「私の隣人って誰ですか?」と尋ねた人がいました。答えは「あなたの敵を愛しなさい。敵の為に祈りなさい。」「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。」(ルカ6:31-33)愛と喜びと感謝に満ちたこんな世界になれば、どんなにか素晴らしいことでしょう。しかし、いつも「隣人を愛したり、隣人の為に祈る」ことができますか? あわれな自己中心の人も含めてです。「うーん。隣人を愛するって難しいですね。」 確かに、これは少し厳しい質問ですけど、私たちは「神様と自分と隣人を愛しきれない」。「自分が良ければ」と言う思いがどうしても湧いてくる。すなわち「罪」を犯すのです。残念ですが、それが人間の姿です。しかし、神様は聖く正しい方ですから、罪をそのままにしておくことは出来ません。罪を犯す私に罰を与えられて当然なのです。しかし、イエス様がその罰を代わりに受けてくださった。だから私がイエス様に従うことで、罪のない自由な者と見なしてくださる。
実は、これこそが十字架の意味なのです。これこそ主のくださった無償の愛なです。十字架に架けられた主イエスは神様に祈られました。。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)繰り返しましょう。神様が私たちの「罪」を独り子、主イエス・キリストに負わせることで、主に従う私たちを罪のない者、神様の大いなる愛の中で幸せな人生を送る者としてくださいました。その大いなる愛のシンボルとして教会は、残酷な死刑の道具・十字架を掲げるのです。
長い準備をしてきました。今日与えられたマタイによる福音書5章1節以下です。 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。 30才になられた主イエスは宣教を始めるに当たって、ガリラヤ湖の漁師さんなどを弟子として選ばれました。そして大勢の群衆を前にして、弟子たちに語られたのです。後ほど賛美します讃美歌57番「ガリラヤの風かおる丘で」が描く情景です。
心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。心が貧相だと言うのではありません。おごり高ぶらない者、神様に対して、隣人に対して、そして自分に対して謙虚な者は、神様の愛、神様が与えてくださる恵みを深く知ることが出来ます。謙虚であり続けることって難しいことですが、良い方法があるのです。主イエス・キリストの十字架を思うのです。聖書に次の言葉があります。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(フィリピ書2:6-8)
4節 悲しむ人々は、幸いである、 その人たちは慰められる。深い悲しみにある時に「あー幸せだな!」と思うことは無いでしょう。しかし、主イエス・キリストは人の苦しみを知っている方です。ご自分が犯してもいないのに私たちの罪を負って十字架に架られたのですから、理不尽さや苦しみ悲しみを知っていらっしゃいます。その方が共にいてくださる。寄り添ってくださるのです。この後、タウベンコールさんに旧讃美歌の312番を献げていただきますが、その1節は「いつくしみ深き 友なるイエスは、罪とが憂いをとり去りたもう。こころの嘆きを包まず述べて、などかは下ろさぬ、負える重荷を」と歌います。
5章5節。 柔和な人々は、幸いである、 その人たちは地を受け継ぐ。主イエス・キリストは未来を担う子供たちを愛する柔和な方でした。
6節。 義に飢え渇く人々は、幸いである、 その人たちは満たされる。「義」とは「正しい」と言う意味です。それでは価値観が多様化する現代において、何が正しいことなのでしょうか。それは「神様と自分と隣人を愛する」ことにつながる行動です。人生に於いて決断を迫られることは必ずやあります。神様が何を喜ばれるのかを祈りの中で尋ねるのです。必ずや正しい答えを示してくださいます。
7節。 憐れみ深い人々は、幸いである、 その人たちは憐れみを受ける。讃美歌312番の2節です。「いつくしみ深き 友なるイエスは、われらの弱きを 知りて憐れむ。悩みかなしみに 沈めるときも、祈りにこたえて 慰めたまわん。」
8節。 心の清い人々は、幸いである、 その人たちは神を見る。その通りですね。心が澄み渡るほどに神様の愛が感じられます。
9節。 平和を実現する人々は、幸いである、 その人たちは神の子と呼ばれる。何が「神様と自分と隣人を愛する」ことにつながるのか? 皆がこのことをそれぞれの生活の中で求めて行く時に、真の平和が訪れます。
10節。 義のために迫害される人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。古代中国の思想家・荘子に「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉があります。「正義を目の前にして行動しないことは、勇気のなさを示す」という意味でしょうか。いじめられている人や危険に直面している人を見たら何らかの行動を起こす必要があります。その一方で、過去の多くの戦争は相手の不義を正し正義を貫くための戦いだとされました。争いごとの多くも相手の理不尽さや間違いに対してのものだと双方が主張します。「自分の正義は相手の不義」とも言われます。身勝手さをもった人間どうしですから、正義とは相対的なものだと言う意味です。現実をついていますがこれでは争いは無くなりませんし平和はきません。絶対的な正義は絶対的な正義を貫かれた方、十字架にかかってまで私たちを愛してくださった、そして愛してくださっている方の言葉にあるのです。「神様と、自分と、隣人を愛しなさい。」ここに正義があります。実はこのご命令に従うことは容易ではありません。自分の思いだけではなく他人の欲望とも戦うことが求められるからです。しかしその戦いを十字架に架ってまで私たちを愛し抜いてくださる主は喜んでくださいます。力づけてくださいます。
そしておっしゃるのです。義のために迫害される人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。「神様と、自分と、隣人を愛するために」犠牲を払うものに神様は大いなる恵みと力を与えてくださいます。それは死の後にまで続く大いなる愛です。「永遠の命」と呼ばれる愛です。主イエス・キリストは8つの祝福を語ってくださいました。この主に従う幸せな人生をご一緒に歩んで参りたいと思います。
ここでタウベンコールさんに讃美歌312番「いつくしみ深き」を献げていただきたいと思います。そして私たち主イエス・キリストがどの様な方なのか、思いを馳せたいと思います。よろしくお願いします。祈ります。