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山形六日町教会

2023年6月4日

聖書:ゼカリヤ書9章8~9節 ヨハネの黙示録15章1節~19章21節
「白い馬に乗った方」波多野保夫牧師

説教シリーズ「わたしはすぐに来る」の11回目です。このシリーズでは聖書の一番最後に位置していますヨハネの黙示録を読み進めています。
西暦90年代にローマ帝国によるキリスト教迫害の激しさが増す中で、ヨハネは、パトモス島に奴隷として幽閉されたのですが、その際に神様から与えられた幻を書き留めてアジア州の教会に書き送ったものです。 迫害によって大きな苦しみを味わっていた教会に向かって、終わりの日の勝利を語り、神様を信頼して勇気を出して歩むように勧めています。しかし、手紙の内容がローマに知られることは新たな迫害を生むリスクがあります。そこで、クリスチャン同士には分かるのですが信仰を持たない者には理解できない表現、すなわち旧約聖書を下敷きにしたり、象徴的な表現を用いて書かれています。ですから、文化的背景が全く異なるうえに、旧約聖書に精通しているとは言えない私たちには大変理解しにくい手紙となっています。
前回第10回では12章1節から14章20節と言う長い聖書箇所を読みました。今回は15章1節から19章21節と、さらに長い聖書箇所です。これは、手紙を読めば「旧約聖書のあの箇所が下敷きになっている」とか、「こんなことが譬えられている」と気づく、当時のクリスチャンの様にはいかないので、出来るだけ多くの聖書箇所に触れることによって、より良く知ろうと思うからです。
前回の聖書箇所を振り返ることから始めましょう。12章では、天上にみごもった一人の女性が現れました。「彼女は身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた。」とあります。そこに現れた赤い竜は彼女が子を産んだら食べてしまおうと待ち構えていたのですが、女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。とあります。生まれた男の子は主イエスであり、竜、すなわち悪魔はローマ帝国と読めます。それでは、みごもった女性は主イエスの母マリアかと言うと違う様です。クリスマス・ページェントの受胎告知の場面で、天使に「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えたマリアにしては彼女は神々し過ぎます。雅歌6章9節です。6:10 曙のように姿を現すおとめは誰か。満月のように美しく、太陽のように輝き 旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。頭には十二の星の冠をかぶっていた。この12の星の冠はイスラエル12部族を意味します。主イエスは、ダビデ王の末に生まれた方ですから、この女性は神様に選ばれたイスラエル民族を表しています。
この様に、旧約聖書を下敷きにした象徴的な表現がふんだんに盛られています。さらに読み進めましょう。この赤い竜は天上での戦いに敗れて地上に投げ落とされてしまいました。ダビデ王の末に主イエスが現れて悪魔に勝利されたこと、すなわち十字架の3日後に復活されたことを表しています。地上に立った悪魔は今度は主イエス・キリストに従う者たち、すなわちクリスチャンとの戦いを始めます。12章17節です。
13章に入ると悪魔の仲間の獣が海の中からやって来ました。獣は口を開いて神を冒涜し、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒涜した。(13:6)神様と既に天に召された主の民を冒涜したのです。さらに、13章8節には 天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。とあり、主イエスへの信仰を持たないならば、偶像礼拝に陥るとあります。キリストへの思いが心を満たしていないなら、お金や名誉や極端な心配事など、神様ではない物に簡単に心を支配されてしまいます。
13章11節。 わたしはまた、もう一匹の獣が地中から上って来るのを見た。この獣は、小羊の角に似た二本の角があって、竜のようにものを言っていた。12 この獣は、先の獣が持っていたすべての権力をその獣の前で振るい、地とそこに住む人々に、致命的な傷が治ったあの先の獣を拝ませた。ヨハネが見た2匹目の獣は小羊、すなわちキリストに似たところがあると言います。偽預言者でしょう。最近、聖書の言葉を巧みに用いて、自分は救い主、イエスの再臨だと言うカルト集団が話題になっています。この獣は 小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。(14:16) 悪魔の刻印なんか押されてはなりません。私たちは心にキリストの刻印を押していただくのです。これが洗礼です。別の言葉で言えば、心を開いて聖霊に住んでいただけば、悪魔が入り込む場所はありません。幸せな人生が約束されるのです。しかし、悪魔は心のすきを狙っています。欠かしてはいけないもの、それが週ごとの礼拝であり、日ごとの祈りであり、聖書に親しむことです。さらに信仰の友と一緒に過ごす喜びの時間を増やせば、悪魔に対する免疫力が増します。 13章まで、悪魔がわが物顔に振舞う地上の姿が描かれています。2023年の世界も、残念ですが悪魔が支配しているかの様に思えてしまう現実があります。
しかし、14章は次の様に始まります。14:1 また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。2 わたしは、大水のとどろくような音、また激しい雷のような音が天から響くのを聞いた。わたしが聞いたその音は、琴を弾く者たちが竪琴を弾いているようであった。ヨハネが悪の栄える地上から目を天上に向けると、小羊、すなわち主イエス・キリストがシオンの山に立ってらっしゃいます。
さらに天使の声が聞こえて来ます。14章7節。「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。」 終末への備えであり、悪が滅ぼされる終末への希望です。
ヨハネはさらに続けます。 また、わたしが見ていると、見よ、白い雲が現れて、人の子のような方がその雲の上に座っており、頭には金の冠をかぶり、手には鋭い鎌を持っておられた。主イエスが手にされている鎌。これは裁きの象徴です。終末における裁きによって、神様の恵みを受けて実った者と、恵みに逆らって実をつけた者は分かたれるのです。ここまで、12章から14章までを振り返って来ました。次から次へと現れるこの世の悪が語られるだけでなく、使徒信条が「三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」この様に告白します天上の様子もまた繰り返し語られます。「ずいぶんしつこいな! いい加減、主が来てくださればいいのに!」不遜にもそんな思いが私の心をかすめます。しかし、ヨハネの黙示録はローマ帝国の迫害下にある教会を励ますために神様のみ心を書き送った手紙です。ですから「ずいぶんしつこいな!」との思いがよぎるとすれば、現代が当時ほど悲惨な状況にないのか、あるいは私たちが悲惨な状況に気づいていないからなのでしょう。
皆さんはそれぞれに、いただいている恵みだけでなく、重荷や困難や不安があることでしょう。新聞やテレビをみれば、確かに心温まる話題もありますが、それ以上に悲惨であり理不尽な出来事が後を絶ちません。困難を抱える方の慰めと平安と回復を祈らざるを得ませんし、身近に起きないことを祈り願います。私たちに伝えられた先輩方の信仰を次の世代に伝える山形六日町教会でありたいと思います。
いつもお読みするペトロの手紙Ⅱ3章9節です。 ある人たちは、(終末の到来が)遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。多くの人が「神様と、自分と、隣人を愛する」社会は、真の平和を感じ主の愛のなかで安心して暮らす、素晴らしい社会に違いありません。
実はこんな社会が現実のものとなる2つの方法があると思います。 一つは、今述べたように多くの人の心に主の刻印が押されることです。聖霊の導きと助けを祈りつつ、2023年度の教会活動方針第2項「キリストの弟子を作り、洗礼を授け、教えなさい。(マタイ福音書28章)」これらに忠実な山形六日町教会でありたいと思います。このことを真剣に祈り行動したいと思います。 
もう一つは、これは完璧です。主イエスに来ていただくことです。詩編40編は歌います。40:17 あなたを尋ね求める人が あなたによって喜び祝い、楽しみ 御救いを愛する人が 主をあがめよといつも歌いますように。18 主よ、わたしは貧しく身を屈めています。わたしのためにお計らいください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。わたしの神よ、速やかに来てください。 そうです。常に謙遜な者であり「主よ早く来てください!」と祈るのです。
パウロが書いたコリントの信徒への手紙Ⅰの最後の部分です。16:21 わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。22 主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。23 主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。24 わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように。 パウロはここで、主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。と激しい呪いの言葉を述べており、びっくりさせられますが、この手紙は道徳的な堕落や、偽りの教えへのめり込んで行ったり、隣人を愛することに欠けたり、教会を分裂に導くような行いなどなど、様々な問題を抱えていたコリント教会に宛てた手紙です。「神様と自分と隣人を愛す」ことにおいて大きな欠けのある者に対して、主に立ち返ることを強く強く求めるのがこの言葉なのです。
しかし、その困難さを知るパウロはマラナ・タ(主よ、来てください)。この様に解決を委ねるのです。委ねた上で 主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。と祈るのです。実は マラナ・タ(主よ、来てください)。この祈りは私たちがしばしば口にする祈りです。聖餐式で良く歌う讃美歌81番「主の食卓を囲み」です。主の聖餐でいただくパンとぶどう酒は、主が再び来てくださる終末の時に向けて、罪のない者と見なしていただいていることのしるしです。力と勇気をいただいて心と体を献げていくしるしです。ですから、洗礼によって、様々な困難が起きる現実の中にあっても、失うことの無い希望をもってマラナ・タ(主よ、来てください)と祈ることが出来るのです。なぜなら、絶対に裏切ることのない方が、共にいて下さり愛を注ぎ続けて下さるからです。しかし、日々の生活の中で経験する悪魔の力は強力です。
すでに、14章で刈り入れの時、すなわち悪が滅ばされる準備が整ったと宣言されたにもかかわらず、悪魔の最後のあがきはまだ続きます。目を反らさずに見て行きましょう。15章1節。 わたしはまた、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の天使が最後の七つの災いを携えていた。これらの災いで、神の怒りがその極みに達するのである。この七つの災いは七つの金の鉢に盛られ16章で一つずつ地上に注がれるのですが、抽象的な表現で語られますから何を意味するのか定かではありません。しかし、神様が激しく怒ってらっしゃることは容易に察せられます。独り子を犠牲にしてまで愛したのに、なおも罪から離れられない世界の民であり、日本人であり、私たちであり、私のことです。
17章1節2節です。さて、七つの鉢を持つ七人の天使の一人が来て、わたしに語りかけた。「ここへ来なさい。多くの水の上に座っている大淫婦に対する裁きを見せよう。2 地上の王たちは、この女とみだらなことをし、地上に住む人々は、この女のみだらな行いのぶどう酒に酔ってしまった。」 国を治める者たちは悪魔と淫(みだ)らな関係を持ち、多くの民は淫らな行いのぶどう酒に酔いしれている。「神様と自分と隣人を愛していない」状態の極みです。まるで2023年の状況が指摘されているようです。
5節に、「大バビロン、みだらな女たちや、地上の忌まわしい者たちの母」とありますから、この大淫婦はバビロニア帝国を指します。しかし、実際は明らかにローマ帝国ですが、絶対的な権力を持つ者を直接非難することは教会をさらに苦しめるだけです。なぜ、キリスト教が迫害されたかについては、様々な説があるのですが、当時のローマ帝国は、広大な領土を支配する超大国ですから、文化・宗教など多様な要素が混在しており、政治的・宗教的な不安定さを抱え、内部の対立や外敵との戦争に直面していました。その一方で、奴隷社会であるだけでなく、市民の間にも不平等や貧富の差が激しくなり、経済的な格差が広がっていました。さらに多神教的な信仰を持ち、皇帝自らが神だと宣言するローマ帝国です。主イエス・キリストが救い主だと信じるキリスト教は、支配体制に反する存在とみなされ迫害されたのはある意味で当然です。17章1節の大淫婦はローマ帝国だと言いましたが、神様に逆らう者、神様が嫌われる者を当てはめて読むことも可能です。私をいじめる者、私をキリストから遠ざけようとする者をこの大淫婦に読み込むことが出来ます。
18章は500年程前にバビロン帝国がペルシャによって滅ぼされ、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放された歴史的出来事を基にして、栄華を誇るローマ帝国が必ず滅びることを語っています。「悪はやがて滅びる」のです。
18章20節。天よ、この都のゆえに喜べ。聖なる者たち、使徒たち、預言者たちよ、喜べ。神は、あなたがたのために この都を裁かれたからである。
そして19章でヨハネは天に響き渡る賛美の声を聞きます。「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。その裁きは真実で正しいからである。みだらな行いで 地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、 御自分の僕たちの流した血の復讐を、 彼女になさったからである。」(19:1,2) 天上の礼拝に響き渡るのは、ローマ帝国に膝をかがめることなく主に従った者たちの勝利の歌声です。天上の礼拝は続きます。
19章7節8節。わたしたちは喜び、大いに喜び、 神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、 花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、 聖なる者たちの正しい行いである。」小羊はキリスト、花嫁は教会です。教会は終末に向けて自らの行いを聖なるものとして用意を整えますが、教会に集う者は残念なことに聖人ではありません。立ち返るところを知っている罪びとです。だからこそ、私たちは週ごとの礼拝を欠かすことが出来ないのです。
19章11節。そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。
12章から繰り返されてきたのは、地上での悪魔の横暴と天上での平和に満ちた礼拝の姿でした。現実と重なる地上の姿にうんざりしました。現実の礼拝に重なる天上の礼拝に安らぎと希望を感じて来ました。
19章に至って、主イエス・キリストの登場です。13節には、血に染まった衣を身にまとっており、その名は「神の言葉」と呼ばれた。とあります。そうです、終末の時に来てくださる方は私たちの罪を負って血を流してくださった方なのです。私は白馬に乗ったこの方の姿を、前から見るのか後ろから見るのか分かりません。地上から見上げるのか、それとも天上から見送るのか分かりません。しかし、この方に希望を託すことが出来ることを知っているのです。これが私たちが諸先輩から受け取り、次の世代に受け渡す信仰なのです。

最初に読んでいただいたゼカリヤ書をもう一度お読みします。9:8 そのとき、わたしはわが家のために見張りを置いて出入りを取り締まる。もはや、圧迫する者が彼らに向かって進んで来ることはない。今や、わたしがこの目で見守っているからだ。9:9 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。祈りましょう。