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山形六日町教会

2023年5月28日

聖書:詩編51編12~19節 使徒言行録2章14~21節
「聖霊を受けて」波多野保夫牧師

本日はペンテコステの礼拝を守っています。聖霊降臨日とも言われますが、ペンテコステは五旬節、すなわち50日目と言う意味で、過ぎ越しの祭りから50日目に当たる日です。この日に聖霊が与えられ、最初の教会が誕生しました。
ユダヤでは伝統的に「過越しの祭り」と「五旬祭、すなわちペンテコステ」、それに「仮庵の祭り」の3つの祭りが大切にされて来ました。すべてモーセに導かれたエジプト脱出の際に示された神様の大いなる恵み、大いなる愛を記念して忘れないためのものです。
これらの祭りですが、「過越し」の出来事は出エジプト記12章にあります。エジプトのファラオは、奴隷として使っていたイスラエルの人たちが出て行くことを認めようとしません。そこで神様はエジプト全土を撃たれたのですが、鴨居と入り口の柱に羊の血を塗った家だけは過ぎ越された出来事です。(12:21-27)「神の小羊」と呼ばれる主イエス・キリストが十字架に架り、血を流すことで私たちの罪を贖ってくださった出来事は、この「過越しの祭り」の時に起きました。
2つ目の祭りは「五旬祭、すなわちペンテコステ」ですが、エジプト脱出の50日目にシナイ山で十戒が与えられたことを記念する祭です。その時の様子が出エジプト記19章にあり、与えられた十戒が20章に記されています。
3つ目の「仮庵の祭り」についてレビ記23章42節43節をお読みします。イスラエルの土地に生まれた者はすべて七日の間、仮庵に住まねばならない。これは、わたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたたちの代々の人々が知るためである。わたしはあなたたちの神、主である。
この様に救い主、イエス・キリストが来てくださるまでの1300年程の間、イスラエルの人たちは、かつて示された神様の大いなる愛の御業を語り続け、感謝し続けたのです。それにもかかわらず主を十字架に架けてしまった歴史上の出来事は、誤った信仰の危険性を私たちに教えてくれているのです。
さて、十字架と復活の出来事から「ペンテコステ」までの50日の間に起きたことに注目しましょう。イースターの日、日曜日の早朝に復活された主は、墓の前でマグダラのマリアや婦人たちにお会いになりました。その日の夕方、エマオに向かう2人の弟子に、さらに彼らがエルサレムに戻って、その喜びを弟子たちに報告していると、彼らの真ん中に立ち、「あなた方に平和があるように」と言われました。(ルカ24:13-25:43) その場に居合わせなかった疑り深いトマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(ヨハネ20:25)と言い張ったのですが、
8日の後、主に「手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。」と言われてしまいました。そしておっしゃったのです。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ21:27-29) 私たちは、日々の生活の中で、そして週ごとの礼拝において主にお会いすることが出来る幸せ者です。
一旦ガリラヤ地方に戻った弟子たちに現れ、ペトロに向かっておっしゃいました。「私を愛しているか。」「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。(ヨハネ21:15-19)これが3回繰り返されたと言うのです。私たちは主から「神様と、自分と、隣人を愛しなさい。」と言われています。それが私たちを幸せな人生へと導いてくれるからです。イエス様に3回「愛しているか?」  
と問われたら、皆さんはなんとお答えするのでしょうか? 私は「そうしたいと思っています。どうぞ導いてください。従って行く勇気と力を与えてください。」 この様に祈りたいと思います。そして幸せを手にしたいと思います。
パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰ(15:5,6)で次の様に言っています。ケファに現れ、ケファとはペトロのことです。その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。アルファコースの中でニッキー牧師は語っていました。「復活を否定する人たちは集団催眠に陥ったんだろうと言いますが、突風が襲ってくるガリラヤ湖の屈強な漁師たち500人が集団催眠に落ちたりしますか?」
そして、復活40日目です。使徒言行録1章3節以下をお読みしましょう。1:3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」 少し飛ばして8節9節です。1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
それから10日が経ちました。ペンテコステの朝です。はるか昔、このペンテコステの日に、奴隷になっていたエジプトの地を脱出したイスラエルの人々に、シナイ山で十戒が与えられました。神様の大きな愛を覚える記念の日です。そしてこの日、十日前に主に命じられた通りにエルサレムから逃げ出さないで集っていた人たちに、聖霊が降りました。主に従う者の集団に聖霊が与えられました。教会の誕生です。
その様子を使徒言行録2章は告げています。2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
五旬節はシナイ山で十戒を与えられたことを記念する日だと申しました。その時の様子が出エジプト記19章(16-19)にあります。 雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。 主の偉大な力であり、大きな愛が与えられる時に、私たちの心と体は大きく揺さぶられるのではないでしょうか。
使徒言行録4節。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。創世記11章はバベルの塔の物語を伝えています。神様はご自分の領域に迫ろうとする民の言葉を混乱させられました。しかし、神様に心を向ける時には、お互いの思いは通じます。以前もお話ししましたが、2013年にアラビア語の礼拝に出席した時です。説教の言葉も祈りも賛美も全く分かりません。しかし、そこに聖霊が働いていらっしゃること、福音が語られ祈られ賛美されていることが感じられた体験です。お互いに心を神様に向け聖霊の執り成しを祈る。これが歪んでしまった人間関係を修復できる唯一の方法なのでしょう。
5節に エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいた とありますが、彼らは、多神教の世界にあって唯一の神への信仰を固く守っていた人たちです。ヘブライ語で律法の教育をキチンと受けていたに違いありません。各地から帰国した人やエルサレ神殿への巡礼の旅に出かけて来た人もいたことでしょう。その全ての人が、ガリラヤの田舎から来たキリストの弟子たちが語る、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。と言うのです。
山形の言葉を調べてみました。「うれしい」を、山形弁では「いくらや」、荘内弁では「あんでんがっしゃ」、置賜弁「うれやっさ」、最上弁「たじゃっこ」。この様にありましたがいかがでしょうか? 今は朝の10時45分ですから、私は新しいぶどう酒に酔っているのではありませんが、信仰と言う共通点の無い所で「うれしい」と言う言葉を調べてみたところ全く理解できませんでした。 聖霊を与えていただいた信心深い者たちの集まり。教会の誕生はこの様な出来事によって始まりました。
2章14節からペトロの説教が始まりこの出来事が解き明かされます。彼は預言者ヨエルの言葉から語り始めます。『神は言われる。終わりの時に、 わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、 若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、 そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。』
預言者ヨエルは「終わりの時に」と語っていますが、やがてやって来る終末の時と言うより、終末に向かう時代、救い主が来て下さり神様のみ心がハッキリ示された後の時代と理解するのがピッタリします。「教会の時代」と呼ばれ私たちが命を与えられているこの時代です。
主イエス・キリストの十字架と復活の出来事によって、神様の愛がハッキリ示されました。主に従うことで罪のない者と見なしてくださり、永遠の命が約束されています。イスラエルの人達だけでなく、すべての人に主の霊が注がれているのが「教会の時代」です。イエス様はおっしゃいます。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。(ヨハネ黙示録3:20) 
私たちの神様は三位一体の神様ですから、心の戸を開ければ聖霊が私たちの中に入って、心の中に住んでくださるのです。すると私たちは預言、すなわち神様の言葉を語るのだと言います。(聖書の言う「預言」は未来のことを当てるのではなくて、神様のお考えを預かって語ることです。)確かに伝道者は聖霊の導きによってみ言葉を語ります。改革長老教会の伝統では按手礼を受けた長老もみ言葉を語ります。山形六日町教会では現在CSの礼拝で長老の皆さんにみ言葉を語っていただいています。しかし、神様のお考えを伝えるのはそれだけではありません。神様の愛を届けることは神様のお考えを届けることです。実際に「神様と自分と隣人を愛すること」をヨエルの言葉を用いて「彼らは預言する。」この様に表現することは適切です。説教は聖書を解き明かすことで神様のお考えを伝えます。この意味で預言です。隣人を愛することも神様のお考えを明らかにするのですから預言です。福音を語り伝えること、困っている人に寄り添うこと、助けること。様々な良い業がありますが、祈ることを欠くのであれば大変危険です。聖霊に導かれることを欠いた「愛の業」は、人の思いに支配されるからです。
さて、復活された主は40日目に天に帰られたのですが、その時に命じられた言葉に戻りたいと思います。大宣教命令と呼ばれ、10日後に誕生する教会へ、さらに2000年後の山形六日町教会への命令です。
マタイによる福音書の最後、28章19節20節です。 あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(28:19,20)先ほどお読みした使徒言行録1章8節では地の果てに至るまで と記されていましたが、ここでは すべての民のところに出かけて行って福音を伝えなさい。この様に記されています。 いずれにしろ「全世界の民に主の福音を届けなさい」です。マタイ福音書10章には、十二使徒を選びすぐに伝道の為に派遣する場面があります。10:5 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。7 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。 さらに15章では「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」この様におっしゃっています。どちらも「福音は神様が選ばれたイスラエルの民だけに伝えられるべきだ。」とおっしゃったのです。
「イスラエルの民にだけ」と「全世界の民に」この違いは何なのでしょうか? 確かに前者は十字架の出来事の3年近く前であり、後者は復活された40日後、父なる神様の御許に帰られる時です。自分を十字架に架けたイスラエルの民を恨んでのことなら、「イスラエルの民にだけは福音を届けるな」のはずです。この違いの理由は、十字架の出来事によって神様の愛を余すことなく告げたことにあります。十字架の主は「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られたのです。(ヨハネ19:30)
既に地上に来られた目的、神様の愛、神様の御計画を完全に告げることを「成し遂げられた」主は、聖霊を送ることで誕生した教会に「全世界の民に主の福音を届けなさい」「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」のだからとおっしゃるのです。
ですから、アブラハムに与えられた神様の契約、あなたの子孫は私の恵みを受けて空の星、浜の砂の様になるとの約束は、ダビデ王を通じて主イエスに至りました。主が「成し遂げられた」ことによって、全世界の民に福音を届ける使命は、聖霊を与えられた教会に委ねられ、空の星、浜の砂となる約束と共に私たちに届けられているのです。
「波多野先生、生きて働かれる聖霊によって私たちに主の福音が届けられていることは、確かにその通りです。だけど今日本の教会は礼拝出席者の減少と高齢化に苦しんでいるじゃないですか。空の星の様にと言われたのに曇っちゃって見えないと言うんでしょうか?」 
ヨエルの預言が使徒言行録2章19節20節にあります。 上では、天に不思議な業を、 下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、 太陽は暗くなり、 月は血のように赤くなる。 
教会の時代、すなわち終末に至るまでの日々において、私たちが望まないことが多く起きます。現に日々のニュースがそれらを告げています。残念ながら事実ですが私たちはもう一つの事実を知っているのです。
2章21節です。主の名を呼び求める者は皆、救われる。 ペンテコステの日に聖霊を与えていただいた教会とそこに集う私たちは知っているのです。主の名を呼び求める者は皆、救われる。 ペトロを始めとする使徒たちがそうでした。2000年前に誕生した最初の教会に集う人たちがそうでした。山形六日町教会の諸先輩方がそうでした。私たちがそうです。だとしたら私たちの隣人に伝えていきたいと思います。主の名を呼び求める者は皆、救われる。ことを!
最後に詩編51編12節以下をもう一度お読みして、ペンテコステの日に聖霊を送ってくださった主を賛美しましょう。51:12 神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。51:13 御前からわたしを退けず あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
51:14 御救いの喜びを再びわたしに味わわせ 自由の霊によって支えてください。
51:15 わたしはあなたの道を教えます あなたに背いている者に 罪人が御もとに立ち帰るように。51:16 神よ、わたしの救いの神よ 流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。51:17 主よ、わたしの唇を開いてください この口はあなたの賛美を歌います。51:18 もしいけにえがあなたに喜ばれ 焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら わたしはそれをささげます。51:19 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。  アーメン