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山形六日町教会

2023年5月14日

聖書:詩編1編1~3節 ローマの信徒への手紙12章9から21節
「クリスチャンの生活」波多野保夫牧師

説教シリーズ「あなたへの手紙」の28回目です。この説教シリーズでは、現在ローマの信徒への手紙を読み進めています。2週間前のシリーズ27回では、12章1節以下からみ言葉を聞きました。3節にあります「自分を過大に評価してはなりません。」この勧めに注目しました。説教題が「真の謙虚さとは」だったことを思い起してください。 私たちは主から「神様と、自分と、隣人を愛する」ように命じられていますが、このご命令に従うには、神様と自分と隣人に対して謙虚さが必要です。
12章3節でパウロが語るみ言葉を謙虚に聞くのです。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。「波多野先生、神様と自分と隣人の前で謙虚じゃなきゃいけないって、すごく良く分かるんですけど難しいですね。でもそこじゃなくてチョット引っかかるところがあるんですけどいいですか?」 何でしょう? 「今、12章3節でパウロが語るみ言葉を謙虚に聞く」って言いましたよね。イエス様のおっしゃったことを「み言葉」って言うのは分かるんですけど、パウロの言葉をみ言葉っていうのはどうなんですか? すごい人だとは思うんですけど。」 良い所に気づきましたね。確かにパウロやペトロは私たちと同じ人間ですが、彼らの言葉を「み言葉」と呼ぶ理由があります。それは聖書に収められていることです。テモテへの手紙Ⅱ3章16節です。 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。 聖霊がペトロやパウロを用いて神様のみ心を語らせたと理解できるからです。
話が横道に逸れました。ローマの信徒への手紙に戻りましょう。12章9節以下には「キリスト教的生活の規範」と言う小見出しが付けられていますが、9節から13節で語られているのは、私たちの幸せを願ってらっしゃる神様の御命令です。わたしたちが「幸せな人生を送るための12箇条」とでも言って良いでしょう。一つずつ読み進めて行きましょう。
第1条 愛には偽りがあってはなりません。 日本語に「愛」と翻訳されるギリシャ語が4つあります。キリストが私たちに注いでくださっている愛であり、聖書が語る愛はアガペー(αγάπη)です。十字架の出来事によってハッキリと見えるのは、完全で無条件の愛であり、隣人の利益の為に自己犠牲をいとわない愛です。その愛が偽りのもの。「アガペーもどき」であったら最悪です。他に、エロース(έρως)は肉体的な愛、情熱的な愛であり、フィリア(φιλία)は友情や親密さ、寄り添うことなどです。最後のストルゲー(στοργή)は親子や家族の間の愛情です。これらの「愛」に偽りが入り込めば、やはり関係が壊れます。
第2条 悪を憎み、善から離れず、悪魔は賢く巧妙です。「チョットだけならいいだろう、みんなやってる。」誘惑の声が聞こえます。ですから祈りを欠かすことは出来ません。そして善いと思うことを勇気をもって行うのです。
第3条 兄弟愛をもって互いに愛し合いなさい。個人の権利が強調される現代ですが、兄弟姉妹が互いに愛し合うことが優先される場所が教会です。お互いが父なる神に愛されていることを知るからです。
第4条 尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。主はおっしゃいました。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。(マタイ7:3) 他人の欠点にはすぐ気づくのですが、自分の欠点には甘いものです。唯一完全な人間、主イエス・キリストが中心にいてくださるのが教会ですから、主を見るほどに私たちは謙虚にされます。12章3節には「自分を過大に評価してはなりません。」とありました。教会で相手の優れた所を見る癖をつけて、外に出て行くと良いと思います。私が小学生のころ「人間はみな兄弟」と言う本を読みました。15年ほど前に小林亞星さんが作曲してヒットしたウイスキーのCMではありません。
ノーベル平和賞を受賞した、神学者であり、パイプオルガン奏者であり、医者だったアルベルト・シュバイツァーの伝記です。確かに彼は 第3条 兄弟愛をもって互いに愛し合いなさい。を実践したことは確かです。30歳まで学問や芸術に打ち込んで名声を得ていた彼は、人を愛し人の為に仕える生涯を決心をして医大に入学しました。そして1913年、38歳の時に近代医療の恩恵が全く届いていなかった、アフリカの国ガボンのランバレネに診療所を開いたのです。彼は90歳で召されるまで、時にヨーロッパに帰ってパイプオルガンの演奏会を開いて資金を集めたり、世界中から寄付を募って診療所を維持したのです。その活動は教科書にも取り上げられましたから多くの方がご存知でしょう。しかし、近年は批判が高まっていると聞きました。彼の言う「人類はみな兄弟」はあくまでも、ヨーロッパの人が兄で、アフリカの人が弟だった。彼が50年以上に渡って診療所の責任者を務めたことが、かえって最先端の医療技術を導入する妨げとなった。この様な批判だそうです。これらの批判が正当なのか、批判のための批判なのかは分かりません。しかし、第4条 尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。この言葉の大切さが思われます。
第5条は12章11節、怠らず励みなさいです。ある人は言いました。「この世は善と悪との戦場なんだ。クリスチャンは燃え尽きることはあっても、錆びつくことは出来ない。」 そういわれると返す言葉はないのですが、残念ながらクリスチャンにも「燃え尽き症候群」は無縁ではありません。そんな時、例のみ言葉が聞こえて来ます。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイ11:28-30)共にいてくださる主が軛、すなわち重荷を一緒に負ってくださる。だから怠らずに励むことが出来るのです。
第6条 霊に燃えて、です。 説教シリーズ「わたしはすぐに来る」ではヨハネの黙示録を読み進めていますが、ラオディキアの教会は主から言われてしまいまいました。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」(3:15,16)さらにおっしゃるのです。わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。(3:19) 霊に燃える山形六日町教会として歩んでいきたいと思います。
第7条 主に仕えなさい。 主に仕えることは、主を礼拝し、聖書に親しみ、祈ることから始まります。もし、他のことで主に仕えることを始めるのであれば、それは偶像礼拝に繋がるでしょう。主に仕えているつもりが悪魔に仕えることになります。
「幸せな人生を送るための第8条」は、希望をもって喜ぶことです。パウロは、テサロニケの教会に宛てた手紙でいつも喜んでいなさい。(Ⅰ5:16)と言います。 複雑化して、人と人との関係が希薄になっている現代においては様々なことが起こります。いつもにこにこしているよりもハードボイルドと言うのでしょうか、感情を押し殺したスタイルの方がカッコ良いのかも知れません。しかし、最も安全な場所であり、自分を飾る必要のない暖かな場所。それが主イエス・キリストの愛を一番強く感じる教会であり、礼拝の時に違いありません。
パウロはこのローマの信徒への手紙5章で言いました。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(5:5) 残念ですが、困難な時、悲しみの時は必ずや訪れることでしょう。聖霊が神様の愛を注いでくださっていることに気づけない時があるでしょう。そんな時に大切なことは、かつて経験した神様の愛を思い起すことなのです。 そしてその為には、普段から神様の愛を思い起す訓練を積むことが大切です。寝る前に数えるのは羊ではありません。今日与えられた恵みを数え上げ、感謝する祈りは最高の訓練です。神様がかつて示してくださった愛を思い起すことが出来れば、苦しみの中に有ってなお共にいてくださる主を見出すことが出来るのです。そうすれば、必ずや希望が湧いてきます。
パウロは自分の経験を語ります。希望はわたしたちを欺くことがありません。神様の愛を思い起すことで、希望をもっていつも喜んでいる ことが出来ます。明るい人生を取り戻すことが出来るのです。ですから、クリスチャンは基本的に楽観主義者です。牧師であり作家でもあったロバート・シュラーは言いました。「人生には希望を持てない様な事態なんてありません。ただ希望を失う残念な人がいるだけなんです。」
第9条 苦難を耐え忍びなさい。この勧めを語るパウロは だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。(8:35)この様に語っています。実際に彼は多くを耐え忍んだ上で いつも喜んでいなさい。と言うのです。 皆さんは、「私もそうします。」と言えるでしょうか? 私は言えません。言えないから祈るのです。「我らを試(こころ)みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。」 そして、 わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。(ルカ福音書22:32)ペトロの裏切りを前にしてのみ言葉です。私の信仰が無くならない様に主は祈っていてくださるのです。
第10条 たゆまず祈りなさい。 主が祈ってくださっているのですから、私もたゆまずに祈るしかありません。
第11条 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助けなさい。 コリントの信徒への手紙Ⅱ 8章と9章によれば、聖なる者たちとは、ユダヤ教からの迫害を受けていたエルサレム教会であり、働き人テトスです。いつの時代でも、教会と伝道者は献金によって支えられています。コリントの信徒への手紙Ⅱ9章7節 各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。
「幸せな人生を送るための12箇条」の最後です。旅人をもてなすよう努めなさい。直接的には、現在と住宅事情や家族関係が大きく異なり、宿泊施設がと整っていない時代に、世界の中心ローマを訪れる同胞を暖かく迎えるように言っているのですが、ある聖書注解者の言葉を紹介しましょう。「家庭はそれが利己的である時には、決して幸福な家庭とはなり得ない。キリスト教は手をひろげ、心を開き、扉を開いた宗教である。」 ここまで、小見出しに「キリスト教的生活の規範」とありますローマの信徒への手紙12章9節以下を個人の信仰との関係で見て来ました。
パウロは14節以下で隣人との関係において語ります。12章14節。 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。
マタイによる福音書5章44節以下の主の言葉が思い起こされます。 わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。」 主はこの様におっしゃいました。そして実行なさいました。十字架上で祈られたのです。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」 敵を愛し、自分を迫害する者のために祈られたのです。パウロはさらに続けて言います。12章17節、19節、そして20節です。12:17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。12:19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。12:20 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
キリスト教は愛の宗教と呼ばれますが、それは私たちが主から愛されており、罪を赦されている事実に留まりません。罪赦された者はその喜びを隣人に伝えたくなります。罪赦された者は、キリストの十字架で示された愛を知るほどに、自分の敵の罪を赦したくなります。赦したくなるはずです。しかし、頭では分かるのですが、実際に敵を愛し、自分を迫害する者のために祈ることは大変です。「燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」これは箴言(25:21,22)からの引用ですが、「悪いやつにお仕置きをなさる」と言うのではありません。「悪いやつが恥じ入って悔い改めに導かれる」と言う意味です。
私はいつもお勧めしています。「あのイヤナ波多野が神様に近づきます様に!」と祈るのです。祈ることで「いやなやつ」も神様に近づくでしょうし、敵の為に祈ったあなたも神様に近づきます。この時、二等辺三角形の底辺にいて遠く離れていた、あなたと波多野の距離は近づきます。そして二人が完全に和解する。それは頂点にいらっしゃる神様のみ許においてです。
パウロが伝えるみ言葉を繰り返しましょう。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 15節。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。 主イエスがそういう方なのです。マリアとマルタの兄弟ラザロが亡くなった時です。姉妹の深い悲しみを目の当りにされた主は、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。(ヨハネ福音書11:34,35)エルサレム神殿で38年間も病気で苦しんでいる人がいました。主はその日が安息日であるにもかかわらず癒されたのです。安息日の癒しが、宗教指導者たちに十字架への口実を与えることをご存知の上で、なのです。
18節。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい 既に語ってきたことから すべての人と平和に暮らしなさい とパウロが言うのは当然ですし、山上の説教で主もおっしゃいました。平和を実現する人々は、幸いである、 その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ福音書5:9)
新約聖書で「平和」と訳されているのはギリシャ語のエイレーネ(εἰρήνη)で旧約聖書ではヘブライ語のシャローム(שָׁלוֹם)です。どちらも戦闘の無い状態を示すだけではなく広い意味があります。
1. 神様との和解:キリストに従うことで罪のない者と見なしていただくことです。
2. 人との和解 “敵を愛しなさい”です。
3. 心の平安を意味します。:思い悩むな! です。
4.社会正義の実現: いじめや極端な貧富の差が有ってはいけません。
5.世界的平和: 世界中の人々が神に従い、相互に愛し合うことでエイレーネ(εἰρήνη)とシャローム(שָׁלוֹם)が実現します。
これら5つが神様の命じられる「平和」です。ここで、注目したいのは、できれば、せめてあなたがたは と言っていることで、全てをご存知の神様は人間が「平和」を実現する困難さもご存知です。そして、「私はいつも一緒にいる。だからたとえ成功できなくてもやって見なさい、心掛けなさい。終末の日には必ず実現する。だから希望をもってチャレンジしなさい。」
12章9節から21節を週報に記しました。自分の至らなさに気づくために用いてください。そしてその気付きを祈りの課題としてください。12章21節。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。主が共にいてくださるのだから!
最後に司式の山口長老に読んでいただいた詩編をもう一度お読みします。1:1 いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず1:2 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。 祈りましょう。