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山形六日町教会

2023年4月30日

聖書:箴言11章2~3節 ローマの信徒への手紙12章1~5節
「真の謙虚さとは」波多野保夫牧師

先週の主日礼拝後に開催されました教会総会において2023年度の年間主題と主題聖句が承認され、今週から週報の表紙に印刷されています。お読みします。年間主題「主による回復」。主題聖句「見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。(エレミヤ書33章6節)」 
コロナ禍の終息が見通せるようになった現在、以前から潜在的に抱えていた問題に目が届く様になりました。国においては少子高齢化の問題が取り上げられていますが、教会においては礼拝出席者の減少であり働き人の不足が顕在化しています。そんな中にあって、新たに長老に選任された柿崎和子さんの就任式を行うことが出来たことを主に感謝するとともに、さらなる「主による回復」を祈り求めて参りたいと思います。

さてこの説教シリーズ「あなたへの手紙」では、誕生して間もない教会に宛てて主の弟子たちが書き送った数多くの手紙が、やがて聖書に収められ、さらに2000年後の私たちに神様のお考えを伝えてくれている、この事実に注目しています。今朝与えられた新約聖書ローマの信徒への手紙12章1節以下ですが、この手紙は使徒パウロが、当時世界の中心地ローマにある教会に書き送ったものです。25年ほど前に主イエス・キリストを十字架に架けたローマ帝国ですから、その首都ローマに誕生した教会が多くの問題に直面していたことが思われます。パウロは現在のギリシャにありますコリントからこの手紙を書き送ったのですが、現代ならば飛行機で数時間で訪問できるでしょうし、ZoomやSkypeも利用できます。
しかし、手紙だったからこそ、その内容が2000年後の私たちにまで伝えられたのです。極めて変化の激しい現代にあって、変わるもの、変わった方が良いものと、変わらないもの、変わってはいけないものがあります。しかし、主イエスが私たちに注いでくださる愛は絶対に変わりません。そのことを覚えて、聖書を読んで参りましょう。12章1節。こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。こういうわけで、とありますが、どういう訳なのでしょう?実は、先週の礼拝でみ言葉を聞きましたローマの信徒への手紙8章35節から39節のゆえに、と続くのです。間にある9章から11章はいわば長い間奏曲です。ローマの教会にはキリストを十字架に架けてしまったユダヤの人たちが大勢集っていました。そのユダヤの人たち、さらに私たち日本人も含めて、誰でも主イエスに従うことで神様の愛を豊かに受けることができるのだ。この様に語られています。8章35節にあるパウロの言葉です。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。 パウロは自分の体験を語ります。かつて敬虔なユダヤ教徒だった彼は、キリストを救い主と信じている人を捕まえて牢屋に送ることこそ正しい信仰だと思っていました。そんな彼はある日復活の主イエスに出会って「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒言行録9:4)と呼びかける声を聞いたのです。そして、その時を境としてクリスチャンを迫害する者から、クリスチャンとして迫害される者へと180度転換したのです。
パウロはクリスチャンとして伝道する際に経験した困難を語っています。 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。(Ⅱコリント11:25-27) 私ならばその一つを経験しただけで、キリストの愛から離れ去ってしまうのではないかとさえ思わされます。
8章35節。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。 私の努力であり、私の信仰心から主イエスにつかまっているのであれば、ちょっとした苦しいことがあれば、キリストから離れてしまいそうです。これは悪魔の勝利です。しかし、実は悪魔の誘惑に勝利されたキリストがパウロを、そして私を捕まえていてくださるのです。キリストの方から私たちを捕まえていてくださるからこそパウロと同じ言葉を口にすることが出来るのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。
そして今日与えられた12章1節へと続きます。こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。実はすべての人がキリストの愛へと招かれています。そして心を開いてキリストの愛を受け入れたのがクリスチャンです。そしてクリスチャンはキリストの愛に捕らえられているのだから、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。この様に求めるのです。
「え、そんなことできるわけない!」「これってチョット危なくない?」「そうと知っていれば洗礼なんて受けるんじゃなかった。」この様な声が聞こえて来ても不思議ではありません。丁寧に見ましょう。まず自分の体とありますが、これには当時のローマに大きな影響を与えていたギリシャ哲学の影響を考える必要があります。彼らは知性や霊を尊いものであるとする一方、肉体は劣ったものと考えたのです。私たちにとっては知性も霊も肉体も全て神様からいただいた尊いものです。
今私たちは山形六日町教会において、諸先輩方を通して受け継がれてきた礼拝、神様を神様として賛美し、祈り、み言葉を聞き献げる礼拝を献げています。これは正に「自分自身を聖なるいけにえとして献げなさい。」なのです。キリスト以前の礼拝では、罪を赦していただくためにいけにえを献げていました。今、私たちの礼拝でいけにえを献げることはありません。必要ないからです。主イエス・キリストが私たちの「罪」を負って十字架に架ってくださったからもはや必要ないのです。 「いけにえ」は「罪を悔い改めて神様に立ち返るしるし」ですから、「神様に喜んでいただくために行うこと。」と言い換えることが出来ます。子供がお父さん、お母さんを喜ばせるとしたら何が良いでしょうか? 肩たたき券をプレゼントする。宿題をチャント済ませる。お手伝いをする。喜んでくれることは沢山あるでしょう。10年以上前になりますが、年老いた私の母は、車で一緒に礼拝に行くことを喜んでくれていました。言いつけをチャントまもることは喜ばせるために大切です。主イエスが語った言いつけ。それは「神様と、自分と、隣人を愛しなさい。」です。
そして、聖書はこの命令から外れることを「罪」と言います。殺人や人をだますことは、愛することになりませんから罪です。日本の法律と重なります。しかし、かつての戦争中には敵の宗教、キリスト教を信じることが禁じられましたが、これを破ることは「罪」ではありません。むしろそれを禁じることが罪です。神様は全ての人を愛したくてしょうがない方だからこそ「神様と、自分と、隣人を愛しなさい。」と命じられます。みんながこれを守って安全で平和で幸せな世界を願っていらっしゃるのです。
12章1節に戻りましょう。こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 私たちが献げるべき礼拝、神様に喜んでいただける礼拝とは日々の生活の中で、また日曜日のこの時間に「神様と、自分と、隣人を愛す」ことなのです
12章2節。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。 2000年前のローマの社会では、社会的地位や家柄、戦争に勝利した将軍に与えられる名誉、財産や教養も重んじられました。現代の日本にも通じるのでしょうか。しかし、神様が喜んでくださるのはそんなことではないんです。詩編34編19節。 主は打ち砕かれた心に近くいまし 悔いる霊を救ってくださる。147編3節。 主は打ち砕かれた心の人々を癒し その傷を包んでくださる。この3000年前の詩人と同じことをパウロは言っています。12章3節。わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。神様は「打ち砕かれた心」であり「自分を過大評価しない。」すなわち、私たちが謙虚であることを喜んでくださいます。
最初に司式の市川長老に旧約聖書箴言の言葉を読んでいただきました。高慢には軽蔑が伴い 謙遜には知恵が伴う。 これは神様と人との関係においても、人と人との関係においても真理です。いつの時代であっても、高慢な人は鼻につきます。本日の説教題を「真の謙虚さとは」としました。
私たちはその生涯において様々なことを経験します。うれしいこと、楽しいこと。寂しさや辛さ苦しさもあるでしょう。心配事もあります。旧約聖書コヘレトの言葉は、喜びや悲しみ、成長や老化、富や貧困、生と死。こういったことが、神様に従う人にも、従おうとしない人にも起こるのだと指摘しています。それが人生だと言うのです。そんな人生にあって、知恵や力には限界がある私たちは、一人で全てを担うことうや全てを解決することは出来ません。
主イエス・キリストの言葉が思い起こされます。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイ11:28-30) 慰めに満ちた主の言葉です。人生に疲れ切った時に、主の御許に行くことで、安らぎが与えられ元気を取り戻すことが出来ます。これは保養所イエス・キリストです。しかし、チョットへんな保養所です。わたしの軛を負いなさいと続くからです。軛は牛や馬の首に付けて荷車や田んぼを耕す道具を引かせるのに使いましたから、イエス様の為に働けと言われるのです。せっかく休んで元気を取り戻したのに“働け”なのです。元気を取り戻して元の生活に戻ったとします。しばらくは元気でしょうが、やがてまた疲れ果ててしまうことでしょう。 主イエスは、そんな悪循環を断ち切ってくださるのです。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。それは二頭立ての軛です。一方を私たちが担い、もう一方をイエス様が担ってくださるのです。最初は殆どの重荷をイエス様が担ってくださる。私の筋力が付くにしたがって重荷を増してくださる。そして「よくやったね。できたじゃないか。すばらしい!」と言って誉めてくださる。主のリハビリは元の自分よりも強くなって日々の生活に戻るリハビリなのです。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。マタイによる福音書11章のみ言葉です。十字架での死を遂げてまで、私たちを愛してくださる方が「わたしは柔和で謙遜な者」とおっしゃっていることに注目しましょう。『ナルニア国物語』を書いた作家であり神学者のC.S.ルイスは次の様に言いました。「謙遜とは、自分自身を過小評価することではなく、自分の利益を優先しないことです。」過大評価することは「うぬぼれや傲慢」と言って格好悪いものですが、自分の能力は神様が与えてくださったものだから、過小評価して精一杯用いないことも相応しくありません。自分の為だけに用いるのではなく「神様と隣人を愛する」ために用いるのです。見返りを求めない愛は、その結果として「自分を愛する」ことになります。
そうは言っても力不足を感じることもあるでしょう。努力して力を付けることは素晴らしいことですが、最終的にだれでもわたしのもとに来なさいとおっしゃってくださる主イエス・キリストにお委ねすることも大切です。週報の裏面にイソップ物語にある「ろばを売りに行く親子」を記しました。ロバを市場へ売りに出かけた親子の話です。ロバを引いて歩いていると「せっかくロバを連れているのに、乗りもせずに歩いているなんてもったいないことだ」。と言う声が聞こえたので、父親は息子をロバに乗せました。別の人がこれを見て、「元気な若者が楽をして親を歩かせるなんて、ひどいじゃないか」と言うので、今度は父親がロバにまたがり、息子が引いて歩きました。また別の者が見て、「自分だけ楽をして子供を歩かせるとは、悪い親だ。いっしょにロバに乗ればいいだろう」と言ったので、2人でロバに乗りました。すると今度は、「2人も乗るなんて、重くてロバがかわいそうだ。」と言う声が聞こえたので、棒にロバの両足をくくりつけて2人で担いで歩いて行ったところ、不自然な姿勢を嫌がったロバが橋の上で暴れだし、川に落ちて溺れ死んでしまいました。 「なんてバカな親子だろう。」と思います。そうです。人の言うことばかり気にして自分の考えであり信念のかけらもない。その結果が招いた悲劇です。
「波多野先生。人の言うことや顔色を気にしてばかりいたらいけないことは分かりました。でも、反対に自分の考えだけで決めていくと、さっき言ってたカッコウ悪い「うぬぼれや傲慢」になっちゃうんじゃないですか?」 良い質問ですね。確かにそうです。謙遜になるって結構難しいですね。でも実は良い方法があるのです。周りの人がどう考えているかだけを気にしているならば、ろばはおぼれ死んじゃいます。そうではなくて「真の人」であり「真の神」がどの様に思われるのかだけを気にするのです。私たちの人生には決断をしなければならないことが必ずやあります。具体的には主イエス・キリストの御命令「神様と、自分と、隣人を愛すること」になるかどうかで判断するのです。日曜日の朝、久しぶりに快晴でした。礼拝かゴルフか? 答えは明らかですね。自分を愛することは好き勝手にすることとは真逆です。「うぬぼれや傲慢」によって感じる幸せは天国に持っていくことは出来ません。
12章3節の後半。神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。 「神様と、自分と、隣人を愛すること」を行動の基準とすることで信仰は成長します。もちろん神様との対話、祈りを欠かすことは出来ません。聖書に親しみ礼拝を守ることは欠かせません。
12章4節5節。というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。 これが諸先輩方から私たちが受け継いでいる山形六日町教会の姿です。ひとりひとりの思や賜物としての能力は様々です。しかし、キリストに結ばれている者たちが「神様と、自分と、隣人を愛すること」を判断と行動の基準とする限り、主にあって一つなのです。
2023年度主題聖句「見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。」このみ言葉を大切にし、謙虚さをもって2023年を歩んでいきましょう。 祈ります。