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山形六日町教会

2023年4月23日

聖書:エレミヤ書33章6節 ローマの信徒への手紙8章35~39節
「主による回復」波多野保夫牧師

早いもので、2023年度を迎えて既に4週目となりました。しかし、週報の表紙には2022年度の山形六日町教会年度主題と主題聖句が印刷されたままになっています。これは礼拝後に持たれます定期教会総会において2023年度の教会活動に関しての原案を承認したうえで、新たな歩みが始まるからです。教会総会は主の臨在を祈り聖霊の導きの下に2022年度の歩みを振り返り、2023年度の歩みについて話し合い、そして決めて行く会議です。さらに改革長老教会に有っては、牧師と共に長老会を構成して、教会政治を担う長老を選出するのが大切な使命です。その教会総会に先立ちますこの礼拝において、主のみ言葉を聞いて参りたいと思います。
本日の礼拝では、2023年度主題に関してのみ言葉を聞きますが、まず週報の表紙にあります2022年度の主題聖句から始めたいと思います。 ヨハネの黙示録1章4節5節 今おられ、かつておられ、やがて来られる方、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。 年度主題「恵みと平和をいただいて」のもとに、ヨハネが巻物に記してアジア州の7つの教会に送り、さらに聖書を通して私たちに伝えられているこのみ言葉が選ばれました。 2020年2月頃から新型コロナウィルスの国内感染者が出始め、次第に重症患者が増えて、ついに5月には3週に渡って共に集っての主日礼拝を持つことが出来ないと言う苦しみを味わいました。その後、何回かのピークを経験しましたが、昨年の総会時点では感染者数の減少と弱毒化への期待が膨らんでいました。しかし、その後も8月と12月に感染者数の大きなピークがあり、やっと最近になって政府も政策の軸足を「コロナ後への対応」に移すようになりました。
コロナ禍の一方では、終わりの見えない戦火であり自然災害があります。さらに犯罪や事故が新聞紙面から消えることはありません。そんな数年間を過ごしてきましたが、大きな影響を世界の教会に与えたのは、やはりコロナ禍であり、その影響を強く受ける重苦しい空気の中で私たち山形六日町教会は「何としても主日礼拝を続けていく」ことを祈り求めて来ました。その結果、集まっての礼拝を再開して以降、休むことなく続けられて来たこと、そして感染に苦しまれた方がいらっしゃったものの重症には至らなかったことを感謝したいと思います。しかし、この3年間に礼拝出席者の減少と高齢化が進んでいる厳しい現実があります。そんな中にあって私たちは2023年の歩みを始めているのです。
まず、昨年の教会総会に先立つ主日礼拝でお話ししたことを振り返って見たいと思います。次の様に語りました。【 2022年度の年間主題候補を「恵みと平和をいただいて」としたのですが、「まだいただいていないように思える。」この疑問が残るかも知れません。いくつかの日本語聖書では「平和」ではなく「平安」と翻訳しているのですが、状況は同じです。「平和」とは思えない状況、「平安」ではなく「不安」を覚える状況が私たちを取り囲んでいます。そして「平和」であり「平安」を最も嫌うのが悪魔ですが、残念なことに悪魔は自分が世界の王だと言わんばかりに振舞っています。しかし、このヨハネ黙示録は歴史の行き着くところ「終末」の出来事をハッキリと伝えます。神様の国、神様の支配の完成をハッキリと伝えています。年間主題の候補「恵みと平和をいただいて」ですが、実は「すでに、それをいただいているんだ!」と言い切れる根拠があります。「平和」と「平安」のために私たちに与えられている判決文であり処方箋がすでに明らかになっているからです。『主文。主イエス・キリストを救い主として信じて従う者を「罪のない者」と見なし、永遠の命を与える』 私たちはすでにこのことを知っています。ですから「恵みと平和をいただいて」なのです。そして、「いただいている者はどのように生きるのか」これを2022年度の全員の課題としたいと思います。】 一年前に、この様に語りました。そして、この一年間説教シリーズ「わたしはすぐに来る」において、ヨハネの黙示録を読み進めています。
私たちが命を与えられているこの2023年は、主イエスが地上に来てくださった2000年前の時代と、それが何時なのかは神様だけがご存知の終末の時、再び主が地上に来て下さり裁きを行ってすべての悪を滅ぼしてくださる終末の時の中間にあって「教会の時代」と呼ばれます。なぜなら、聖霊によって立てられている教会とそこに集う私たちは、主の愛、すなわち福音を知り、主を賛美し、主に仕えることを喜びとして、この「教会の時代」を生きるからです。さらにこの喜びを隣人と分け合うのが伝道です。主の福音に生かされている者たちが礼拝を中心とした喜びの日々を生きる。そして、感謝して主の福音を宣べ伝える。これが「教会の時代」の姿なのです。
この現実を踏まえた上で長老会が提案する2023年度の主題は「主による回復」です。 主題聖句はエレミヤ書33章6節 見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。 提案理由が議案書にあります。お読みします。 「教会には主イエス・キリストの愛がみちみちています。私たちは喜びをもって礼拝に集い、祈りをささげ、主の御用のために仕えます。過去3年間礼拝を始め教会の諸活動は、コロナウィルス禍の大きな影響を受けて抑制されたものとならざるを得ませんでした。その間に高齢化が進んだことも否めません。2023年度は主の福音を豊かに受けての「回復」を祈り求め行動していきます。」
主題聖句候補のエレミヤ書からみ言葉を聞いて行きますが、まず預言者エレミヤについてです。エレミヤは、南ユダ王国のヨシヤ王が8歳で王位に就いたころに生まれました。紀元前640年頃のことだと言われています。イスラエルの歴史をたどれば、紀元前1000年頃にダビデ王によって統一されたイスラエル王国はダビデ王とソロモン王の時代に大いに繁栄したものの、ソロモン王が召されるや、紀元前928年に北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してしまいました。それ以後はエジプトやアッシリアなど周囲の強国の影響下に置かれ、また多くの王たちは、主なる神を信頼し仕えるのではなく、バアルやアシュラを始めとする様々な偶像に心を奪われて礼拝したのです。
旧約聖書に「聖なる高台」がたびたび登場しますが、これは偶像を礼拝する場所です。預言者エレミヤが主の言葉を語る100年ほど前(BC721)に北イスラエル王国は既に滅んでいました。一方の南ユダ王国は大国の狭間で生きながらえていたのですが、やはり多くの王たちは主なる神に従うことはありませんでした。しかし、彼らの幸せを願う神様は、イザヤ、ミカ、エレミヤ、エゼキエルと言った預言者たちを遣わして、悔い改めて立ち返ることを求められました。エレミヤが伝えた神様の怒りの言葉です。 わたしは繰り返し教え諭したが、聞こうとせず、戒めを受け入れようとはしなかった。彼らは忌むべき偶像を置いて、わたしの名で呼ばれる神殿を汚した。(32:33,34)しかし、悔い改めて神様に立ち返るのではなく、「自分たちは神様に選ばれた民族であり、その証拠としてエルサレム神殿があるではないか。」と言うのです。エレミヤはそんな彼らに警告しました。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。(7:4,5) 主の神殿はお守りではないのだ。真剣に礼拝を献げ隣人を愛しなさい!! それでも神様に立ち返ろうとしない人たちです。バビロニア帝国によるエルサレムの破壊とバビロン捕囚と言う形で預言者たちの伝えた警告は現実のものとなったのです。紀元前587年のことでした。
ここまでお話しすると、こんな話は私たちには関係ない。第一、神々や偶像を拝むことは絶対無いし、教会を汚すこともない。この様に思われることでしょう。真に結構なことですし、そうでなければなりません。
しかし、もしも神様でないものが心を奪うのであればそれは偶像です。 その候補は沢山あります。学生さんなら成績や就職、仕事をしていれば出世や名誉、あるいは、お金であり、家族や友人のことであり、場合によっては健康であり、さまざまな不安などなど。それら、神様でないものに心を奪われる、心を支配されるのであれば、それは偶像礼拝です。主イエス・キリストの愛を忘れさせるからです。生きて働いてくださる聖霊を忘れさせるからです。
先ほど「平和」であり「平安」を最も嫌うのが悪魔だと申しました。私たちはその悪魔の誘惑に完全に勝利された方、主に従う者です。そのことを覚えてエレミヤ書に戻りましょう。実は、エレミヤの預言はバビロン捕囚で終わるのではありません。彼はその先にあるエルサレムの回復も預言したのです。
33章6節が神様のお考えです。 見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。イスラエルの歴史によれは、紀元前538年のバビロン捕囚から解放さら、紀元前515年にはエルサレム神殿が再建されました。バビロン捕囚の前に、エレミヤによって告げられた救いの計画が実現したのです。滅びからの回復がハッキリと示されたのです。主のなさることを大いに賛美したに違いありません。しかし、それでは彼らは神様のみ心に従って悔い改めたのでしょうか? 神様に立ち返ったのでしょうか?
それから500年の時が立ちました。30歳になられた主イエスがガリラヤ地方で神の福音を宣べ伝え始められた際の第一声です。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15) バビロン捕囚からの解放と言う大きな恵みを受けたにもかかわらずイスラエルの民は悔い改めなかった、あるいは悔い改めたけれども長続きしなかったと言うことになります。神様は100%聖なる方、聖(きよい)い方ですから「罪」を放って置く、見て見ぬふりをなさることは出来ません。罪びとは裁かれて死が与えられます。この死は肉体の死に留まりません。魂の死、神様との断絶です。ですから人は「罪」にまみれたままで幸せを手にすることは出来ません。しかし、神様は私たちを愛したくてしょうがない方ですから、私たちに悔い改めを求めて怒りを発せられるのです。愛する故に叱ってくださるのです。(ヘブル書12:1-13)
今回示された神様の怒りは、エデンの園からの追放でもなければ、大洪水でも、再度のバビロン捕囚でもありませんでした。そうです。それは、私たちのところに「真の光」主イエス・キリストが来てくださったことで始まりました。ヨハネによる福音書1章です。 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 実はこの「真の光」は私たちにとってぬくもりを届けるだけの優しい光ではありません。 最後の晩餐の席で弟子の足を洗われた時です。 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。(ヨハネ13:1)しかし、足を洗ってもらった弟子たちはどうしたのでしょうか? イスカリオテのユダは主を裏切って祭司長に売り渡し、弟子たちは主がゲッセマネの園で逮捕されると皆逃げてしまい(マタイ26:56)、ペトロは鶏の鳴く前に主を知らないと言って裏切ったのです。(マタイ26:69-75)「真の光」は、私たちの「罪」を明らかにするのです。例をあげましょう。主は「敵を愛しなさい、敵の為に祈りなさい。」この様におっしゃって実行されました。そして私にも同じようにすることを求めていらっしゃいます。ここで、愛しきれない私、主に従い切れない私が明らかにされます。そうなんです。「真の光」主イエス・キリストによって私の「罪」は明らかにされます。実はこれこそが主の愛であり、大いなる恵みなのです。自分の「罪」、自分の尊大さ、怠惰な自分。「真の光」はこれらを白日の下にさらします。その時、悔い改めて主に従う他ないことを悟るのであれば、これこそが最高の愛ではないでしょうか。いつの時代にあっても悪魔の攻撃は巧妙です。蛇がエバにささやいた時の様に、「みんなやってるよ。ちょっとくらい大丈夫。君は信仰があるんだ、泥沼にはまりそうになったら神様が助けてくださる。」そんな悪魔のささやきに騙されれば破滅が待っています。
私は、賢くかつ強力な悪魔の誘いから救い出してくださる「真の光」って、外科手術や抗がん剤の様なものではないかと思うのです。抗がん剤は悪質ながん細胞をやっつけるのですが、全身に大きな負担がかかります。「真の光」によって「罪」があからさまにされるのですから、強力なダメージを受けます。しかし、肉体や魂が死線をさまよった向こう側に勝利があるのです。
私たちは長いコロナ禍のトンネルに出口が見えてきたと思える現在、礼拝出席者の減少や会員の高齢化に対しても出口を見出したいと思います。これは決して優しいことではないのですが、エレミヤの伝えた神様の言葉は今も真実です。 見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。 私たちはエレミヤの時代の人たちが知らなかった2つのことを知っています。主の十字架と復活の勝利の出来事と、主に従う私たちには永遠の命が約束されており、終末の時、裁きの時にキリストの栄光に与ることが出来る約束です。
最後にローマの信徒への手紙8章35節以下にありますパウロが語った主の福音を聞きましょう。8章35節36節。 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。8:36 「わたしたちは、あなたのために 一日中死にさらされ、 屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。 詩篇(44:23)の言葉を引用する36節は主の福音を伝える故に様々な苦しみを負うパウロであり、教会であり、私たちの姿に重なります。確かに教会も、集う一人一人も様々な試練を経験するでしょう。しかし、キリストの愛からわたしたちを引き離すことは出来ません。キリストが私たちを捕まえていてくださるからです。
37節。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。パウロだけではありません。なぜ私たちも輝かしい勝利を収めていますと言うことが出来るのでしょうか? それはキリストの愛は現在だけではなく死の向こう側まで変わることが無いからです。
38節39節です。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。私たちがキリストに掴まっているだけだとしたら、困難や悲しみ、あるいは巧みな悪魔の誘いによって私たちの信仰は容易に冷えてしまうでしょう。しかし、キリストが私たちを捕まえていてくださるのです。
ですから、だれもわたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
ですから、私たち山形六日町教会はエレミヤが伝えた神様のご計画を信頼して2023年度を歩むことが出来るのです。見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。 祈りましょう。