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山形六日町教会

2023年4月9日

聖書:列王記上17章17~22節 コリントの信徒への手紙Ⅰ15章20~22節
「死者の復活とは」波多野保夫牧師

「みなさん、イースターおめでとうございます。主は復活なさいました!」 この言葉から始まりますイースター礼拝の説教は、山形の地に有って待ち望んで来た春の訪れに重なる大いなる喜びだと思います。もう一度言わせてください。「イースターおめでとうございます。この朝(あした)、主は復活なさいました!」
さて、この主の復活の出来事を4つの福音書はそれぞれに記しています。
マタイ福音書28章1節以下です。 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
マルコ福音書16章1節以下です。 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。ユダヤの一日は日没によって終わり、次の日が始まります。土曜日の夜に香油を買い求めました。主が十字架上で亡くなられたのは金曜日の夕刻でしたから、間もなく安息日が始まり、働くことが許されません。主の亡骸(なきがら)に十分な香油を塗る時間が無かったので、日曜の朝早く墓へと出かけて行ったのです。すると墓の入り口をふさいでいた石は転がしてありました。
ルカ福音書24章1節以下です。墓に行った婦人たちは、主イエスの遺体が見当たらなかったので途方に暮れていました。そこに、輝く衣を着た二人の人がそばに現れて言ったのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
ヨハネ福音書20章1節以下です。 まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行き墓から石が取りのけてあるのを見つけた彼女は、家に戻りペトロともう一人の弟子に告げました。慌てて墓に行った彼らが見たものは、主の遺体をくるんでいた亜麻布だけでした。不思議に思いながらも家に帰って行ったのです。一方、途方に暮れて墓から立ちさることの出来ないマグダラのマリアは泣いていました。ふと振り返ると庭師が立っていたので言いました。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 その彼女に主イエスは「マリア」と呼びかけられたのです。この言葉は彼女に全てを悟らせるに十分でした。ヨハネ福音書20章18節。 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
4つの福音書は婦人たち、なかでもマグダラのマリアが主イエスの復活の出来事の証人として重要な役割を担ったことを告げています。もちろん主はエマオに行く途中の二人の弟子たちや疑い深いトマス(ヨハネ20:19-29)を含めた11人の使徒たちに(ルカ24:13-49)、さらに500人以上の弟子たちに現れました。(Ⅰコリント15:5-8)私は、この時のマグダラのマリアの働きに対して思うのです。山形県を縦断している最上川ですが、その源流は福島県の県境に位置する西吾妻山にあるそうです。そこに降った雨粒が細い流れとなり、さらに周囲の山々からの水を集めて大河となり、229㎞離れた酒田市の河口までを3日から5日かけて流れていくそうです。
キリスト教の源流を、「真の神」主イエス・キリストが「真の人」として来てくださった、クリスマスの出来事に見ることはまことに適切ですが、このイースターの出来事に見ることも大変意義のあることなのです。
なぜならば、このイースターの出来事、主イエスが死に対して勝利なさった出来事が2023年にいたる教会の歴史に与えた影響が絶大だからです。もし、主が「真の人」としてクリスマスの日に地上に来られ、力ある言葉と力ある業の記憶を残し、その語られたとおりに、私たちの罪を負って十字架で死を遂げられた。ここで終わっていたらどうでしょう。イエスと言う人物の力ある言葉と力ある業が語り継がれたとしても、十字架での死と埋葬の事実が語り継がれたとしても、それは墓の前で泣きくれているマグダラのマリアの姿で終わる悲劇の物語に過ぎません。主の十字架に続く復活の出来事が、もしなかったならば、私たちは神様の深い愛の中で日々を過ごすことは無かったことでしょう。確かな希望をもって生きていることは出来なかったでしょう。
西吾妻山に降った一滴の雨粒から見て行きましょう。その証人がマグダラのマリアです。当時、女性の地位は大変低く、裁判の証言台に立つことは出来ませんでした。このマグダラのマリアについて聖書は多くを語りません。ガリラヤ地方のマグダラ出身で主に従って弟子たち一行の世話をしながら、エルサレムにやって来たこと、十字架上での主イエスの死を遠くから見守っていたこと、(マタイ27:55,56)かつて七つの悪霊を主に追い出していただいたこと、(ルカ8:2)そして、この主の復活の証人としての働きです。古くから「七つの悪霊から救われたとあるのは、かつての売春婦としての生活から救われたのだ。」この様な言い伝えがありますが、聖書はその様には語っていません。恐らく、分け隔てをなさらない主イエスの愛と優しさを強調するための読み込みでしょう。 反対に後の教会で大きな働きをしたとも言われています。彼女は主の十字架と復活の生き証人ですし、ペトロに復活の事実を告げたのも彼女です。初代教会で大切にされたことでしょう。主の十字架の時、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった(マタイ26:56)のですが彼女は違いました。弟子たちが、次は自分が逮捕されるのではないかとの恐れから家に閉じこもっていたのですが、彼女は主を思う一途な心からローマ兵が警備している墓に向かいました。主イエスへの愛、すなわち彼女の信仰がそうさせたのです。
最初に西吾妻山に降った一滴の信仰は、今や大河として脈々と山形盆地を流れているのです。信仰のゆえにマグダラのマリアが最初に目にした大いなる奇跡。それは聖書に記されて2000年の間、復活の事実を証言し続けているのです。
「イースターおめでとうございます。この明日、主は復活なさいました!」本日与えられました聖書が語るみ言葉を聞きましょう。コリントの信徒への手紙Ⅰ15章20節。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
ここで少し聖書原典にあるギリシャ語にふれたいと思います。「復活し」と翻訳されているエゲーゲルタイ(ἐγήγερται)は「目を覚ます」とか「よみがえる」と言う意味を持った言葉エゲイロー(ἐγείρω)の直説法完了時制受動態です。完了時制は過去に起きたことが現在まで続いていることを表しますし、受動態は受身です。ですから、キリストは死者の中から復活しとパウロが語る「復活し」を丁寧に訳せば、「過去から現在に至るまでずうっと、神様によってよみがえらされたままでいる。」この様な意味になります。実は聖書には死人のよみがえりの出来事が多く語られています。最初に読んでいただいた、旧約聖書列王記上17章です。預言者エリヤはサレプタへ行った際に、悲しみに暮れるやもめの死んだ息子の為に祈りました。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。(17:21,22) 預言者エリシャはシュネムの婦人の大切な子供が死んだ際に、遺体と二人だけの部屋で主に祈り、そして子供を抱きしめました時、子供の体は暖かさを取り戻したのです。(列王下4:18-37)主イエスは愛するマルタとマリアの兄弟ラザロが亡くなった時に、祈られました。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 そして墓の前に行き大声で、「ラザロ、出て来なさい」と叫ばれました。使徒言行録9章ではペトロがタビタの遺体が安置された部屋に行き ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。(9:40)のです。使徒言行録20章ではパウロです。 エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている。」そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。(20:9-12)
長すぎる説教は良くない様です。この場合、3階から落ちた青年は仮死状態だったのかも知れませんが、エリヤもエリシャも主イエスもペトロも、彼らの祈りは神様に聞き届けられて死人は生き返りました。しかし、注意したいのは、これら生き返った人たちは皆2023年においては生きてはいないということです。既に神様の御許へ召されているのです。主イエスの復活、エゲーゲルタイ(ἐγήγερται)ではないのです。
ここで祈りについて思い出してください。神様は祈りに2つの「いいえ」と2つの「はい」で答えでくださいます。「いいえ、あなたの恵みは十分だ。」「いいえ、今はその時ではない。」「はい、やっと祈ったね。かなえてあげよう。」「はい、わかった。しかしあなたが祈ったよりももっと良いものをあげよう。」この4つです。現代の医学や薬学の進歩には目覚ましいものがあり、一昔前では考えられなかった難病からの生還者が大勢います。祈りに「はい、かなえてあげよう」と答えていただいた方です。全てを創造された世界の仕組みを神様がすぐれた研究者に明かされた結果、現代医学は急速に発展しています。ですから神様は現代医学を用いることで、肉体の死に先立って祈りを聞き届けてくださっているのでしょう。もちろん、私たちの願い通りに祈りが聞き届けられないことも沢山あります。しかし、私たちの神様は全てをご存知の方であり、いつも愛してくださっている方です。ですから、私たちの思いを越えて一番良い答えをくださるに違いありません。しかし「神さま、なぜですか? 何でわたしですか? なんで今なのですか?」 私たちの人生にはこの問いを禁じ得ないことがあります。願いがかなえられないことがあります。実は2000年前にもそれは有りました。十字架を前にしての主イエスの祈りです。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」(ルカ22:42-44)この杯、すなわち「人間の罪を全て負っての十字架での死」が取りのけられることはありませんでした。この時、主イエスの祈りがその言葉通りに聞かれることはなかったのです。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マルコ15:34)「神さま、なぜですか?」 悲痛な叫びがゴルゴダの丘に響き渡ったのです。しかし、天地創造に始まった聖書の語る神様の物語はここで終わっていません。その3日後のことです。主は復活なさいました。
これが、神様の救済の物語、第2章の始まりです。先週の受難週礼拝では聖書の最後にあるヨハネの黙示録のさらに最後にある言葉を読みました。すべてを証しする方、復活された主イエスが言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。 主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。 復活されて、今天にいらっしゃる主イエス・キリストが再び地上に来て裁きをしてくださる。そしてすべての悪が滅ぼされる終末の時です。私たち生を与えられているこの2023年は、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事と、その主が再び来てくださる「終末の時」の中間にあります。残念ですが様々な悪がはびこる時代の中に教会は立てられています。これが現実です。
コリントの信徒への手紙Ⅰです。先ほど「過去から現在に至るまでずうっと、神様によってよみがえらされたままでいる。」この様に申しました。パウロは続けて 眠りについた人たちの初穂となられました。既に神様の御許に召された者たちも主イエスと同じようになるのだと言います。15章21節22節。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。最初の人間アダムに神様はおっしゃいました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:16,17) アダムは神様の命令に逆らって食べてしまいました。「罪」を犯したのです。その結果、人の心と体は死によって支配されることとなったのです。私たちに対しての神様の御命令は「神様と自分と隣人を愛しなさい。」であり、それに反することが「罪」です。そして罪の結果は肉体と魂の「死」にほかなりません。この性質をアダム以来、私たち人間は持ち続けています。パウロが、死が一人の人によって来た。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことなった と言うのはこのことです。「神様と自分と隣人を愛しきれない。」私たちは「罪人」であり、肉体と魂の死に至るのは当然なのですが、死に勝利され復活なさったキリストに従うのであれば、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
イエス・キリストの死と復活は、人類の罪を贖い、新しい命を与える出来事だからです。主がご自分の死と復活を通じて従う者を「罪のない者」と見なしてくださり、永遠の命を与えてくださる。この限りない愛を信じるのがクリスチャンです。
主イエスはラザロの姉、マルタに向かっておっしゃいました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25-27) 私たちはマルタと共に主にお答えしたいと思います。「はい、主よ、あなたが世に来てくださり死に勝利された神の子、メシアであるとわたしは信じております。あなたの愛は終わりの日、終末に至るまで変わらないのです。」 ここに私たちの確かな希望があります。キリストによってすべての人が生かされる。これが私たちに約束されている永遠の命なのです。祈りましょう。