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山形六日町教会

2023年4月2日

聖書:イザヤ書53章1~7節 ヨハネの黙示録8章6節~11章19節
「主よ、感謝いたします」波多野保夫牧師

説教シリーズ「わたしはすぐに来る」では聖書の一番最後にあります、「ヨハネの黙示録」を読み進めています。神様が天地の全てを創造されたことを語る、創世記に始まり、神様の大いなる愛と恵みにもかかわらず、それに逆らい続ける人間を語り伝える旧約聖書は、預言者たちが語った主イエス・キリストの誕生に至る人類の歴史を伝えています。
新約聖書では、背き続ける人間の為に、神様が独り子を救い主として与えてくださったクリスマスの出来事から始まり、主イエス・キリストの十字架での死、私たちの罪を負っての死と、その三日後に起きた奇跡、主の復活の出来事を福音書が語り伝えています。そして、聖霊が降っての教会の誕生と聖霊に導かれた使徒たちの働きによって教会が発展していく様子を証言する「使徒言行録」が続きます。しかし、教会の発展には大きな困難が伴いました。外からの迫害と内からの異端でありもめ事です。そんな教会に起こる様々な課題に対して、聖霊の導きを祈りつつ使徒たちが書き送った多くの手紙が収められています。全てが2000年前に書かれた手紙ですが、私たちを導くのになんとピッタリしているのかと驚かされるのではないでしょうか。
それは、聖書が永遠に変わることの無い真理、神様に背き続ける人間の「罪」と、それにもかかわらず愛し続けてくださる神様を証ししているからに違いありません。旧約聖書と新約聖書は、そのほとんどが私たちにとっては過去の出来事を記しています。確かに、ダニエル書や主イエスのみ言葉のなかに、未来に属することが語られているのですが、このヨハネの黙示録は誰もまだ経験していないものの、人類の歴史が行き着くところであり、必ずやって来る主の再臨、すなわち終末の出来事について、その全てを語るのです。
イースターを目前にしたこの受難週の礼拝で、私たちの罪の為に十字架に架ってくださった主イエス・キリストの御受難を強く覚えて礼拝を守っています。2000年前の出来事、十字架のできごとで示してくださった、神様の大いなる愛の許で日々を送り、週ごとの礼拝を守っています。しかし私たちの世界には、その主の愛であり恵みを覆い隠すような現実があります。キリストが死に対して勝利されたにもかかわらずです。それでは、主が十字架に架ってくださり、復活されたことは無意味なのでしょうか? 残念なことですが、少なくともこの山形の地に住む多くの者にとって、主の復活の出来事は、サンタクロースや聖バレンタインに勝るものではありません。主が望んでいらっしゃる姿とは大きく異なる現実があります。そんな山形にあって、千歳認定こども園や山形学院高校と共に、主の福音を述べ伝える使命を担う私たちは知っているのです。主の十字架と復活の出来事によって、人が負う「罪」の問題は根本的に解決されていることを知っているのです。主イエス・キリストを信じて従う信仰によって、永遠の命を与えてくださることを知っています。この素晴らしい約束に生きるのがクリスチャンです。この素晴らしい約束を知って主を礼拝し福音の伝道に励むのが教会です。
受難週の礼拝において、主が再びこの世界に来て下さり、すべての悪を撃ち滅ぼしてくださる約束の時、「終末」についてのみ言葉を聞きたいと思います。そして、聖書の一番最後に記されている言葉に向かっての希望を確かにしたいと思います。ヨハネの黙示録22章20節21節。 以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。
さて前回は5章から8章に記されています、神様の右の手から巻物を受け取った小羊が、七つの封印を開いた際の出来事を読みました。 8章3節4節です。 また、別の天使が来て、手に金の香炉を持って祭壇のそばに立つと、この天使に多くの香が渡された。すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前にある金の祭壇に献げるためである。4 香の煙は、天使の手から、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った。
そして次の様に語りました。【「聖なる者たち」とあるのは、地上にある私であり、あなたです。クリスチャンです。わたしが「聖なる者」なんて呼ばれるのは“おこがましい”と思われるかも知れません。しかし、「聖なる者」なのです。キリストの故にです。キリストに従う者は罪のない者と見なしてくださるからです。だとしたらそれにふさわしい者でありたいと思います。それは「神様と自分と隣人を愛する者」です。ここで香の煙は私の祈りを意味します。祈りは神様の御前に届くのです。】 そうです。私たちは与えられた信仰の故に「聖なる者」なのだとの自覚を持って、聖書を読み進めたいと思います。
ヨハネが見た「幻」について整理することから始めましょう。辞書には「実際にはないのに、あるように見えるもの。また、まもなく消えるはかないもののたとえ。」とあります。医学的に「幻覚」は、脳の後ろにある部分、後頭葉の血流変化に関係しているそうです。視野が欠ける病気の場合、その欠けた部分を脳に記憶された映像で補うと言った「幻覚」もあるそうです。
わたしは、ヨハネが見た幻は、すぐに消え去るはかないものや病的なものではなく、睡眠中に脳が記憶を整理する際に現れる「夢」にちかいのではないかと思っています。ヨハネが語る幻は聖書との関連が強いと指摘されているからです。奴隷として厳しい一日の労働の末に眠りについた時、何度も読んだ聖書であり、直接聞いた主イエスの言葉が思い起こされたことでしょう。
そして、脳が生理的に記憶を整理する働きに増して、聖霊の働きがあったことは確実です。聖霊が夢を導かれた。これがヨハネが語る幻の正体だと思うのです。
本日は8章から11章19節に至る大変長い聖書箇所ですが、読み進めて行きましょう。神様の御前に立っている七人の天使に与えられたラッパが順に吹かれて行きます。
新共同訳聖書はヘブライ語のソーファー(שׁוֹפָר, shophar)を角笛と訳していますが、口語訳聖書ではラッパでした。どちらも同じものですが、ラッパは神様が人間の歴史に重大な影響を与える時に吹き鳴らされました。週報にその例をいくつか記しました。出エジプト記19章16節に 三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。
このようにあります。モーセがシナイ山に登って行き十戒を授けられる直前にラッパが鳴り響きました。預言者ゼファニアは、偶像礼拝に浸っているエルサレムの裁きを預言しました。城壁に囲まれた町、城壁の角の高い塔に向かい 角笛が鳴り、鬨の声があがる日である。 
マタイ福音書24章31節には、人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。とあり、主がラッパの音で始まる終末の出来事を語られたのは十字架の数日前でした。
ヨハネの記憶を聖霊が導かれたのが、彼の語る「幻」です。終末の出来事をヨハネは余すところなく私たちに伝えてくれるのです。
8章6節。さて、七つのラッパを持っている七人の天使たちが、ラッパを吹く用意をした。 そして7節から13節で4人の天使がそれぞれ手にしたラッパを吹いていきます。
第一の天使がラッパを吹いた。すると、血の混じった雹(ひょう)と火とが生じ、地上に投げ入れられた。地上の三分の一が焼け、木々の三分の一が焼け、すべての青草も焼けてしまった。 天から雹と火が下って地表の1/3を焼き払いました。ヨハネの頭の中には出エジプト記のこんな場面がありました。 モーセが天に向かって杖を差し伸べると、主は雷と雹(ひょう)を下され、稲妻が大地に向かって走った。主はエジプトの地に雹を降らせられた。雹が降り、その間を絶え間なく稲妻が走った。それは甚だ激しく、このような雹が全土に降ったことは、エジプトの国始まって以来かつてなかったほどであった。(出エジプト9:24,24) さらに預言者エリヤがバアルと戦った際に天から火が下った出来事もヨハネの脳裏にあったことでしょう。聖霊がヨハネにかたれせた、私たちを含めて神様にさからい続ける者たちへの警告です。
第二の天使がラッパを吹くと、海に隕石が落ち海が血の色に変わり多くの海洋生物が犠牲になりました。モーセがファラオの前でナイル川の水を杖でたたくと川は血の色に変わり魚が死んだ出来事が思い起こされます。(出エジプト7:20,21)
第三の天使がラッパを吹くと、大きな星が落ちて来て、川とその水源が破壊され多くの人が死にました。
第四の天使がラッパを吹くと、太陽と月と星とが損なわれて暗闇がやって来ました。さてここまでに起きた天変地異ですが、その被害にあったのは全て1/3だけだと言われています。例えば12節です。第4のラッパが吹かれると1/3の太陽と月と星がそこなわれて、1/3暗くなった。ラッパが吹かれておきた災害での犠牲も全て1/3なのです。2/3は影響を受けませんでした。実はこれは神様に逆らい続ける人間に対しての最終的な裁きではないのです。そうではなくて、神様に逆らい続け「罪」を重ねる人間に、立ち返ることを促す警告なのです。
8章13節。見ていると、一羽の鷲が空高く飛びながら、大声でこう言うのが聞こえた。「不幸だ、不幸だ、不幸だ、地上に住む者たち。なお三人の天使が吹こうとしているラッパの響きのゆえに。」 これからさらに残りの3つのラッパが吹かれるのだ。悔い改めて神様に立ち返らない者は「不幸だ、不幸だ、不幸だ」との警告です。
9章で、第五のラッパが吹かれると、凶暴なイナゴが登場します。4節。いなごは、地の草やどんな青物も、またどんな木も損なってはならないが、ただ、額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい、と言い渡された。 額に神の刻印を押された者とはすでに洗礼を受けた者です。5か月間に及ぶイナゴの害からまもられたとありますが、クリスチャンも第1から第4までの災害とは無縁ではありません。しかし、主イエスに従って歩む者は同じ苦しみの中に有ってもそれに打ち勝つ力を持っているのです。なぜなら、苦しみの向こうにある確かな希望を見ることが出来るからです。
9章13節。第六のラッパが吹かれると、殺人騎士団が現れ邪悪な人たちを騎士たちが乗った馬が殺してしまいました。
9章20節21節。 これらの災いに遭っても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめなかった。このような偶像は、見ることも、聞くことも、歩くこともできないものである。また彼らは人を殺すこと、まじない、みだらな行い、盗みを悔い改めなかった。
これはまさに現代の世相を映し出しているのではないでしょうか。災いから逃れたにもかかわらず、頼るべき方を間違っています。
続く10章は第七のラッパが吹かれる前のいわば間奏曲です。10章8節9節。ヨハネは神様の声を聞きました。「さあ行って、海と地の上に立っている天使の手にある、開かれた巻物を受け取れ。」 そこで、天使のところへ行き、「その小さな巻物をください」と言った。すると、天使はわたしに言った。「受け取って、食べてしまえ。それは、あなたの腹には苦(にが)いが、口には蜜のように甘い。」
実は、ヨハネが食べた巻物を私たちも口にしています。神様の言葉が書かれた聖書です。聖書は変わることの無い神様の愛をハッキリと伝えますから口には密のように甘いのですが、その愛が主が十字架を負ってくださったことによるのだと知るほどに、私たちの「罪」が明らかにされます。あのパウロは言うのです。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。 自分は一番の罪人だと言うのです。もし主の愛、主の福音に痛みを感じないのであれば、それは口先に留まる甘さだけしか感じていないのです。聖書の証言が腹まで達すれば、苦(にが)さを感じます。先ほど讃美歌306番では「ああ、いま思いだすと 深い深い罪に わたしはふるえてくる。」この様に賛美しました。この受難週において私たちは聖書の証言を改めて食べたいと思います。苦さの奥にある甘さ、甘さの奥にある苦さを感じて感謝し、また悔い改める一週でありたいと思います。
続く11章3節で2人の証人が立てられました。6節はその証人についてです。 彼らには、預言をしている間ずっと雨が降らないように天を閉じる力がある。また、水を血に変える力があって、望みのままに何度でも、あらゆる災いを地に及ぼすことができる。
この2人の証人はモーセとエリヤではないかと言われています。マタイ福音書17章に次の様にあるからです。 イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。 「山上の変貌」と呼ばれますが、エリヤはバアルに仕える王に干ばつを預言しました。(列王記上17:1)モーセはファラオの前でナイル川の水を血に変えました。(出エジプト7:20)しかし、真実を証ししたこの2人は退けられました。
11章11節。三日半たって、命の息が神から出て、この二人に入った。彼らが立ち上がると、これを見た人々は大いに恐れた。 ヨハネの脳裏には主が死に勝利したイースターの出来事の記憶が鮮明にあり、その記憶の基づいた幻を見たのです。もっと正確に言えば、聖霊が彼のこの記憶を用いて、秘密のベールの下にある神様のご計画を明かされたのです。
11章15節以下です。第七の天使がラッパを吹いた時、ヨハネは天からの声を聞きました。「この世の国は、我らの主と、 そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。」さらに、天上の礼拝の声が聞こえて来ました。「今おられ、かつておられた方、 全能者である神、主よ、感謝いたします。 大いなる力を振るって統治されたからです。」 これは最終的な勝利の賛美です。既に死に勝利なさった主イエス・キリストの再臨によってこの天上における賛美が地上にもたらされる日、すなわち終末は必ず来ます。

11章19節。 そして、天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見え、稲妻、さまざまな音、雷、地震が起こり、大粒の雹が降った。契約の箱の中には十戒とモーセの杖が収められています。聖書を通じてヨハネもまた私たちも、それらが神様の大いなる愛であり大いなる力の象徴だと知ります。この2023年は確かに 稲妻、さまざまな音、雷、地震が起こり、大粒の雹が降る時代、悪の力が世界を覆いつくすのではないかと感じられる時代です。しかし、教会は知っているのです。主の十字架と復活の出来事によって「罪」の問題はすでに解決しています。救い主を信じて従えば良いのです。そして、必ずやって来る終末の時には、この世の悪に対しての完全な勝利が約束されているのです。この二つの時の間に立てられている地上の教会であり、命をいただいている私たちです。私たちは、どんな時にあっても変わることの無い神様の愛を知る幸せ者です。受難週の時を、ご一緒に主の御計画を賛美して過ごしたいと思います。祈りましょう。