HOME » 山形六日町教会 » 説教集 » 2023年3月26日

山形六日町教会

2023年3月26日

聖書:イザヤ書55章6~9節 ローマの信徒への手紙2章1~11節
「神は分け隔てなさいません」波多野保夫牧師

この説教シリーズ「あなたへの手紙」ですが、前回は、ローマの信徒への手紙1章18節以下からみ言葉を聞きました。18節に「人類の罪」との小見出しがあり、21節22節には 神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。この様にあります。 原因は神様ではないものに心を支配される偶像礼拝であり、神様に礼拝を献げようとしない、人々のうぬぼれや思いあがりでした。その結果人は、「してはならないこと」をするようになったのです。
あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。(1:29-31)これは悪徳表と呼ばれますが、こんなことが人を幸せにすることは絶対にありません。前回32節を語る余裕がありませんでしたが大切なことが語られています。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。私たちは他人の悪徳に対して敏感ですが、自分のそれには気づかないか、気づいても認めようとしないのです。 
主はおっしました。マタイ福音書7章3節以下です。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。 人の欠点には厳しいものの自分には甘いとの指摘です。気を付けなければいけません。
しかし、このローマの信徒への手紙では、「悪徳表にあるようなことを平気でやっている人がいたら注意してあげなさい。」と言っています。 その人を愛するのならば注意してあげなさい。この様に言うのです。その通りなのですがこれは大変難しいことです。普段からよっぽど深い信頼関係にあるならともかく、素直に受け入れてもらえることは少ないでしょうし、「あんたはどうなのよ!」なんて言われてしまいそうです。しかし「自分の目にある丸太をとってから」と言われた主も「放って置きなさい。」とおっしゃったのではありません。自分の罪を知ったうえで一緒に悔い改めなさい。」この様におっしゃるのです。 
どうしたら良いのでしょうか? 良い方法があります。まず、悪徳表にあるようなことが見てとれる人の為に祈るのです。「神様、あの人が平気で人を傷付けているのを直してください。アーメン」「あんなことをしていたら、あの人も周りの人も不幸です。悔い改めさせてください。神様に近づく様にしてください。アーメン」 まず、祈るのです。さらに、機会をとらえて一緒に礼拝を守り、主のみ言葉によって悔い改めへと導かれる様にと聖霊の力添えを祈り求めます。
なかなか実現できないかも知れませんが、祈りと主のみ言葉には力があります。そして裁きは神様に委ねておくのです。
これは余談になりますが、私たち山形六日町教会は改革長老教会の伝統の中に有ります。長老教会とは選挙された長老と牧師が構成する長老会が教会政治を担う制度の事です。改革教会とは、常に主のみ言葉によって改革され続ける教会であり、み言葉によって改革され続ける一人一人であることを意味しているのです。ですから私たちはその基にある礼拝を大切にする伝統に生きるのです。余談のついでにもう一つ。「聖書を読んでいると、ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人、と出てきますがどう違うのですか?」この様に質問されました。ヘブライ人は他の民族からこの様に呼ばれていました。イスラエル人は自分たちのことをそう呼んでいました。ユダヤ人はダビデ王の血を引くユダ族から来ています。バビロン捕囚の時代にユダ族の人が宗教としての形を整えたことからユダヤ教と呼ばれています。ですから、へブライ人もイスラエル人もユダヤ人も唯一の神様を信仰する同じ人たちと考えてください。

聖書に戻りましょう。先ほど読んでいただいた2章1節以下には「すべて人を裁く者よ」とあります。実はパウロは、ユダヤ人のことを指してこの様に言っているのです。自分たちは神様に特別に選ばれた者であり、特別の恩寵が与えられていると言う、いわゆる選民思想です。選民思想を持つに至ったのは、エジプトで奴隷となっていた先祖たちが、神様の導きによって救い出された出エジプトの出来事です。モーセに率いられてエジプトを脱出しファラオの追手を逃れて3か月が経った時に、シナイ山で十戒が与えられたのですが、それに先立って神様はおっしゃいました。今、もしわたしの声に聞き従い わたしの契約を守るならば あなたたちはすべての民の間にあって わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。(出エジプト19:5)神様がわたしの宝と呼んでイスラエルの民を選ばれた理由を申命記は伝えています。 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。(7:7,8)選ばれるだけの理由がイスラエルの人々にあるのではなく、神様の一方的な憐みであり神様の一方的な愛のゆえなのです。それにも関わらずイスラエルの人達は「自分たちには神様の特別な恵みが与えられている、自分たちは特別なのだ。」この様に選民思想を振り回して人々を裁いている。異邦人と呼ばれる、自分たち以外の人たちを裁いている。
パウロは2章1節でユダヤ人を非難して言うのです。 だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。さて、どうでしょうか? このパウロの非難は私たちとは関係ないのでしょうか? 実は私たちは選民、すなわち主の愛の故に選ばれている者なのです。この事実を確認しておきましょう。 いま、この瞬間に日本には1億2400万人、山形市には24万3千人ほどの人が生活しています。しかし、私たちの様に礼拝に出席している人、礼拝のことを覚えている人、あるいは聖書を開いたことがある人、主の福音を知っている人。いったい何人いるのでしょうか? 私たちは主の愛の故に選ばれた者なのです。この意味で選民ですがイスラエルの人達の様に選民思想によって神様の愛を「当たり前のもの」と勘違いしてはいけません。
神様の言葉をもう一度聞きましょう。 出エジプト記19章5節です。 もしわたしの声に聞き従い わたしの契約を守るならば あなたたちはすべての民の間にあって わたしの宝となる。 具体的にはモーセに与えられた「十戒を守るならばわたしの宝となる」です。なぜならば十戒を守ることで人は神様が望んでいらっしゃる幸せな生活を送ることが出来るからです。神様は人間を愛したくてしょうがない方なのです。
十戒は讃美歌21の93-3番にありますが、週報の裏面に記しました。さらに週報にはイエス様が十戒を要約してくださった、マルコ福音書12章29節以下も記してあります。お読みします。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」 私はいつもさらに縮めて「神様と自分と隣人を愛しなさい。」この様に言っています。さらに縮める理由は、何か判断したり決める必要に迫られた時に、「何が、神様と自分と隣人を愛していることになるかな?」と考えてみるためです。そして祈るのです。聖霊が良い答えへと導いてくださるに違いありません。
「波多野先生、十戒の1戒から3戒が「神様を愛すること」だと分かりますし、5戒から10戒も、父母が一番近い隣人だと思えば「隣人を愛すること」だと理解できます。だけど波多野先生が言う「自分を愛しなさい」は十戒のどこにあるのですか?」 なかなか良い質問すね。自分を愛することは、自分のしたい様に振舞うこと、いわゆる自己中とは全く反対ですね。神様と隣人から愛される人生こそ、自分を大切にする、自分を愛することです。十戒は殆どが「してはならない」と否定形ですが、イエス様は「愛しなさい」です。どちらも同じ意味なのですが、エジプトから助け出された直後の人たちと違って、主イエスの十字架と復活の出来事を知っている私たちです。イエス様に感謝して従って行くのには「愛しなさい」がピッタリします。 実は、十戒は私たちが幸せな人生を送るために神様が与えてくださった戒めですから、それを守ることこそが「自分を愛する」ことなのです。
ここで第4戒「安息日を聖別せよ。」に注目しましょう。普段の仕事を休めと言われたのは、朝寝坊をするためではありません。その日に、礼拝を守り心を神様に向けることで真の安らぎを得るためです。十字架の出来事が示してくださる神様の大いなる愛を一番身近に感じる時、それが礼拝の時です。そしてこの一週間、愛に欠けていた自分の行いであり考え、すなわち一週間の「罪」から立ち返るに相応しい時が礼拝です。ですから「自分を愛する」ことにおいて礼拝は欠かせないのです。 神様は礼拝を献げる私たちを喜んでくださいます。ですから私たちは共に集えない方の為に祈り、その恵みを知らない方に知らせていく。これは隣人を愛することに他なりません。私たちは選ばれた民です。「神様と自分と隣人を愛すること」を最大の喜びにする。そんな人生を一緒に歩んでいきましょう。
ローマの信徒への手紙2章2節から5節までは、自分の罪を悔い改めるのではなく、人を裁いている者に神の裁きがあると告げています。 5節6節はさらに厳しい言葉です。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。神はおのおのの行いに従ってお報いになります。 
かたくなで心を改めようとしない。「神様と自分と隣人を愛する」ことから逸(そ)れたままでいる。確かに神様は私に、「しなやかな心と頑強な脚」を求めていらっしゃるのですが、実際は「頑なな心と軟弱な足」なのです。
「波多野先生」「また、あなたですか。なんでしょう?」「神はおのおのの行いに従ってお報いになります。と言ってますが、パウロと言えば「信仰義認」(ロマ書4:3-5 ガラテヤ書2:16)のはずですよね。これって「行為義認」じゃないんですか?」 鋭い質問ですね。確かに彼は「信仰義認」を語ります。例えばガラテヤ書2章16節です。人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。そして宗教改革者たちは、「信仰のみ」を旗印としました。私たちは主イエス・キリストを信じて従う信仰によってのみ、正しい者と見なしていただけるのだ。私たちがキリストの愛の中を歩む人生を送る時、永遠の命を与えてくださるのだ。これが「信仰義認」です。6節、神はおのおのの行いに従ってお報いになります。と矛盾しません。大丈夫です。なぜなら、私たちがキリストに従って行くとき、「神様と自分と隣人を」愛する者になっちゃうからです。弱さを抱えている私たちですから「愛すことが増える」と言うのが正確でしょう。
いずれにしろ、そのことを神様は喜んでくださいます。そして、頑なな心と軟弱な足に変えて、柔らかな心と頑強な足を与えてくださるのです。これが、神はおのおのの行いに従ってお報いになります。とパウロが言う中身です。一緒に主の愛の中を歩いて行きましょう。
6節から8節です。神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。 神様はこのことにおいて分け隔てをなさいません。主イエスに従う者、信仰を持って歩む者には「永遠の命」真の豊かさ、真の平安、真の喜びを与えてくださるのです。これが「信仰義認」であり「信仰のみ」なのです。 私はいつも「究極の隣人愛は、私たちがいただいた信仰を隣人に伝えることだ。」と言っています。隣人の為に祈ることから始めてください。
最後に4節に注目しましょう。神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。慈愛とは親が子に対して見返りを求めないで示す深い愛を指します。キリストの故に私たちは「父なる神様」と呼ぶことが出来るのです。神様に背くことの多い私を優しく見守ってくださる。我慢してくださる。これが寛容です。忍耐も我慢してくださることですが、忍耐には我慢に我慢を重ねてと言う意味があります。終末の裁きの時まで忍耐してくださっているのです。なぜ、神様が慈愛と寛容と忍耐をもって接してくださるのでしょうか? それは、私たちを悔い改めに導くためなのです。そしてイエス様と共に歩む幸せをつかむためです。 回心と言う言葉があります。改める心と書くのではなく、回す心と書く方の回心です。もともとは仏教用語だそうで、「えしん」とも読むそうですが、この回心は心の向きを変えることです。クリスチャンを捕まえるためにダマスコに行く途中で復活の主にお会いしたパウロは、クリスチャンを迫害する者からキリストの故に迫害される者へ回心したのです。そんな大胆な変化は自分には関係ない。
そうではありません。礼拝のたびに、聖書のみ言葉に接するたびに、祈るたびに、私たちの心は神様の方に向きを変えます。回心です。聖霊が導いてくださる「悔い改め」です。特に主の十字架の出来事に思い巡らしながら歩むレントの時です。
最初に読んでいただいたイザヤの言葉をもう一度聞きましょう。55:6 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。7 神に逆らう者はその道を離れ 悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば 豊かに赦してくださる。8 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。9 天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。祈りましょう。