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山形六日町教会

2023年3月19日

聖書:詩編143編1~8節 ヨハネによる福音書15章7~10節
「何でも願いなさい」波多野保夫牧師

説教シリーズ「たとえて言えば」の24回目です。4つの福音書には主イエスが譬えを用いて語られた場面が沢山登場します。聞くものが福音の神髄を理解することで、今までの思いと行いを悔い改めて、神様の愛の中を歩んで欲しい。その思いから、当時の人ならばすぐに思い当たる生活に身近な事柄を用いて語られました。
この説教シリーズの第1回はマタイ福音書7章に記されています「家と土台」の譬えでした。わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。この譬えは私たちにも理解しやすいものです。諸先輩方が建築し、維持してくれたこの礼拝堂もしっかりとした土台の上に建てられ、100年以上の風雪に耐えてきました。私たちの人生という建物も、主イエスに従う信仰の上にしっかりと立ち、苦難や悲しみの中にあっても、ゆるぎないものでありたいと思います。
同じ様に「ともし火は燭台の上に置きなさい」(マルコ福音書4:21-22)との譬えでは、クリスチャンらしく与えられている信仰をハッキリ表しなさい。それが結局は自分を幸せにすることであり、周りの人に主の福音を証しすることになるのだと語られました。信仰のともし火を高く掲げて歩みたいと思います。
しかし、生活習慣も文化も全く異なる現代の日本です。山形では関連の深い、ぶどう園であり、羊や羊飼いの譬えであっても、多くの方にとって身近ではないでしょう。その背景を知ることで、より深く主のみ言葉を理解できます。聖書は私達の人生を主の愛へと導いてくれる真理の宝庫でありマニュアルです。日々聖書に接して祈る豊かな時を持っていただきたいと思います。
今日は、この山形の地に福音の種がいっぱい詰まった聖書を届ける活動を続けている山形ギデオン協会の方に問按していただき、一緒に礼拝を守る機会が与えられました。主に感謝したいと思います。手にした聖書のみ言葉によって教会へと足と心を向ける方が起こされる様に、共に祈りたいと思います。波多野先生、でもさっき司式の細矢長老が読んでくれた聖書箇所はイエス様の語られた「譬え話」じゃなかったですよね!確かにそうですね。
前回ご一緒に開いた15章5節で わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 イエス様はこの様におっしゃいました。特にこのレントの時にあって、私の罪を負って十字架への道を歩んでくださった、その主に繋がっていることの素晴らしさをあらためて覚えたいと思います。その上で続いて語られた15章7節。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。この言葉をしっかりと受け止めたいと思うのです。望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 いかがでしょうか?  実は「イエス様がおっしゃる通りだ。」と素直に言えない私がいるのです。レントの時にあって祈りについてあらためて確認したいと思います。
まず、主イエスご自身が祈りの人だという事実からです。ルカ福音書の証言を週報に記しました。バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時のことです。民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(ルカ福音書3:21-22)やがて教会を託すことになる十二弟子を選ぶ大切な決断をするに当たって、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。とあります。(ルカ福音書6:12,13)十字架の時を前にして、鶏が鳴く前にペトロが3度裏切ることを知っての主の言葉です。 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」(ルカ福音書22:31,32)自分を裏切る者、裏切ったものの為に祈ることは、私たちにとって大変難しいことです。いつも申し上げている祈りが思い出されます。「あのひどい波多野が神様に近づきます様にしてください。アーメン」この祈りです。
もちろん、「祈り」はキリスト教だけのものではありません。ほとんどの宗教が祈ります。辞書には「人間の力や創造力を越えた神仏に請い願うこと」とありますが、私たちの祈りは「請い願う」ことに留まりません。賛美の言葉に加えて「ありがとう」「ごめんなさい」「おねがいします」。すなわち「感謝」と「罪の告白」と「願い」です。もちろんその一部分だけのこともあります。

さて、最初に読んでいただいた旧約聖書詩編143編です。1節に「賛歌。ダビデの詩。」とあり、わたしたちの礼拝では「罪の告白」として4か月に1回交読しています。詩編にはダビデの詩が沢山納められていますが、どの様な状況で読まれたのかわからないものがほとんどです。恐らく142編に「ダビデが洞穴(ほらあな)にいた時」とあるのと同じ時に読まれたのでしょう。若くて優秀なダビデに嫉妬したサウロ王は、ダビデを亡き者にしようとします。この詩は追い詰められて、やっとの思いで洞穴(ほらあな)に隠れた際の祈りであり、究極の願いと言って良いでしょう。彼はまず素直に 主よ、わたしの祈りをお聞きください。この様に願い、続けて 敵はわたしの魂に追い迫り わたしの命を地に踏みにじり とこしえの死者と共に 闇に閉ざされた国に住まわせようとします。この様に祈るのです。さらに7節。主よ、早く答えてください わたしの霊は絶え入りそうです。御顔をわたしに隠さないでください。わたしはさながら墓穴に下る者です。 ダビデは死の淵に追い詰められていました。死の淵に立った経験をお持ちの方は多くは無いでしょうが、困難や苦しみはそれぞれ経験されたことでしょう。人の苦しみや悲しみの程度を比べることは無意味です。その時にあっては100%苦しく辛く悲しいからです。
ダビデの祈りの大切なポイント、それが5節です。わたしはいにしえの日々を思い起こし あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し 御手の業を思いめぐらします。正に命を奪い取られる危機にあってダビデの心を覆いつくしたのは、かつて神様が与えてくださった数々の恵みでした。神様が与えてくださった数々の恵み。例えば「それを5つ挙げてください。」と言われたらすぐに答えられるでしょうか? 私は第1の恵みはすぐに分かります。日曜ごとにこの様に信仰の友と一緒に守る礼拝です。一週間の自分の罪、すなわち「神様と自分と隣人を愛すること」からどれほど隔たったものであったのかを思い起して、主に立ち返る最良の恵みの時だと思います。そして、礼拝を共に出来た恵みと感じる時に、共に出来なかった方を覚えての祈りが生まれます。祈り祈られるこれも大きな恵みです。
先ほど主がペトロの為に祈られた言葉を読みましたが、それはそのまま私への祈りなのです。「波多野保夫。わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」イエス様と信仰の友が祈ってくれているのです。残りの4つ挙げるとすればなんでしょうか? 2つ位はすぐに思い当たりますが、「あと2つは恵みを沢山いただいているので絞れません。」と少し逃げて答えるのでしょう。私たちの歩んできた道を振り返ってみれば、必ずやいくつかの分かれ道であり、曲がり角があったはずです。そんな時々に神様がなさったことをひとつひとつ思い返し 御手の業を思いめぐらしていただきたいと思います。日々聖書に親しみ祈る生活。この様な日々は神様が私たちに与えてくださる恵みに対して敏感にしてくれるに違い無いのです。
ダビデは命の危険が迫る中で、与えられた数々の恵みを思い起して、神様への信頼を篤くしました。その神様に向かって「主よ、早く答えてください。」「行くべき道を教えてください。」この様に祈ったのです。聖書は彼が窮地を脱したことを告げています。
さて先ほど祈りの言葉は、賛美に加えて「ありがとう」「ごめんなさい」「おねがいします」。すなわち「感謝」と「罪の告白」と「願い」ですと申しました。しかし、今日は主がおっしゃった 望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。この言葉に注目していますから「お願いします。」すなわち祈りの中の「願い」について考えましょう。
先週の礼拝で開いたヨハネの黙示録6章1節以下に、香の煙は、天使の手から、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った。 この様にありました。焼き尽くす献げ物の煙とともに祈りは神様のみ前に届くのです。いつも申し上げていますが、神様はその祈りに二つの「はい」と二つの「いいえ」でもって必ず答えてくださいます。「いいえ、今はその時ではない。」「いいえ、あなたの恵みは十分だ。」「はい、前から分かっていたよ。かなえてあげよう。」「はい、分かった。しかし、願ったよりももっと良いものをあげよう。」 この4つです。
しかし、神様が全てをご存知で、なんでもお出来になり、いつも愛してくださっているのなら、なぜ激しい痛みや苦しみ、むなしさや心の満たされなさ、病気や金銭や仕事のトラブル、その他生活の必要が満たされないことが起きるのだろうか? 決して贅沢なお願いをしているとは思わないけれども、なぜかなえてくださらないのだろうか?この様な疑問が湧くことがあるのではないでしょうか。この疑問について考えるに当たって、5つの事を確認しておきましょう。
1. まず私たちは「罪」を抱えた不完全な人間の世界に生きていることを意識する必要があります。確かに、不公平さや、自己中心で貪欲な者、不道徳な者。そんな連中が良い思いをしていることにいらつくことがあるでしょう。あんな良い人が、何も悪いことをしていない人が、小さな子供が何で苦しまなければならないんだ! 義憤に駆られることもあります。もちろん人間が決めた約束事、すなわち法律に触れるのであれば罰せられますが、巨悪と呼ばれる者たちが裁きを受けることは稀です。私たちの社会には暗い側面があるのです。悪魔は存在するだけではなく元気なのです。
2. 私たちの住む世界には自然の原理が存在します。優れた科学者たちが積み上げてきた法則、リンゴは木から地面に落ち、重いものは水に沈むと言う物理法則があります。生きとし生けるものは全て死を迎えると言う生命の法則もあります。全て神様がお創りになったこの世界の仕組みです。ですからイエス様が水の上を歩き、嵐を静め、盲人の目を開きラザロを復活させられた出来事を、私たちは奇跡と呼ぶのです。
3. 私たちの体は痛みが必要な様に創られています。全く痛みを感じないとすれば危険です。ハンセン氏病の患者さんは知らないうちに衣服に火が燃え移っていても感じないのだそうです。私たちの心と体が感じる痛みは危険を知らせてくれます。
4. 神様が与えられる痛みには意味があります。パウロは次の様に言っています。思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。(Ⅱコリント12:7)
パウロに与えられた棘は、痛風だとか癲癇(てんかん)、マラリヤ、片頭痛など様々に言われますが分かりません。大きな働きをした彼です。周囲から尊敬され慕う者も大勢いたに違いありません。そんな彼は預言者エレミアが伝える神様のみ言葉を心に留めていました。主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。 むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい 目覚めてわたしを知ることを。(9:22,23)そしてパウロは言うのです。「誇る者は主を誇れ」(Ⅰコリントの信徒への手紙1:31) 「心と体の痛みや病(やまい)によって自分の小ささを知り、思い上がりから立ち返えるのであれば、神様はその痛み苦しみを用いて、それに勝るものを与えてくださっているのだ」とパウロは証言するのです。
5. 祈った通りには叶えられない経験を誰もがします。神様のみ心に従順に 従った主イエスでさえ経験なさったのです。逮捕され十字架刑を受ける直前にオリブ山で祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。(ルカ福音書22:42,43)皮膚から血が染み出る「血汗症」と呼ばれる症状です。極度のストレスから稀に起こるのだそうですが、主が祈られたこの祈りはムダな祈りだったのでしょうか? さらに、十字架に架けられた主は大声で叫ばれました。。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ福音書27:46)
私たちは聖書の証言によって知っているのです。神様のご計画によって奇跡が起こったことを知っているのです。主は3日目に死に勝利され復活なさいました。私たちは自分が将来どうなるのか、神様のご計画を知ることは出来ません。しかし、神様を信頼することは出来ます。ヨハネ福音書3章16節。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。これが私たちを愛して止まない神様のお考えです。そして、ヨハネ福音書15章7節です。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。主に繋がっている最良の方法、それは週ごとの礼拝に集い、聖書に親しみ祈ることです。礼拝に集うことが叶わない時は礼拝を覚えて祈ってください。望むものを何でも願いなさい。と主がおっしゃるのですから、祈りの自主規制は必要ありませんし、それは不遜なことですらあります。遠足の前日には「明日晴れにしてください。」とは祈らないと言う話を聞いたことがあります。医者に見放された人の為に「病気を癒してください。」と祈らないと言うのに通じます。晴れることもあれば、雨が降ることもあるでしょう。病気の方が翌日御許に召されることもあるでしょう。それで神様の権威が失われるとでもいうのでしょうか? 結果は神様のお考えなのですから受け入れるのです。望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。とイエス様がおっしゃったのに、なぜ祈った言葉の通りにならなかったのか考えるのです。その際に今日お話しした大切なことがあります。それはダビデ王の様に、かつて神様が与えてくださった恵みの数々を思い起しながら考えるのです。その時私たちは主の声を聞くことでしょう。「はい、分かった。しかし、願ったよりももっと良いものをあげよう。」その上でさらに、私は本当に主に繋がっているのだろうか? この反省は私たちの人生をさらに豊かなものにしてくれるに違いないのです。
特に私たちの罪を負ってくださった主の十字架の時に向けての準備の時。レントにあって、この主のみ言葉をあらためて噛みしめたいと思います。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。祈りましょう。