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山形六日町教会

2023年3月12日

聖書:詩編117編 ヨハネの黙示録6章1節~8章5節
「屠られた子羊」波多野保夫牧師

説教シリーズ「わたしはすぐに来る」の8回目です。ヨハネの黙示録を読み進めています。このヨハネの黙示録は、ヨハネがエーゲ海に浮かぶパトモス島に幽閉されていた際に与えられた幻を書き綴ったものです。「黙示」とは「隠されていることが明らかにされる」「秘密のベールがはがされる」と言った意味です。1章19節に さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。 この様に主の言葉があります。現在を踏まえて、歴史の行きつくところ。すなわち主イエス・キリストが再び地上に来てくださる「終末の時」が明らかにされています。キリストに従う者はここで明かされた勝利の時を見据えて、どんな時にあっても主を信頼し希望をもって人生を歩みなさい。これがヨハネの告げる「黙示」の内容です。
西暦90年頃に、ローマ皇帝ドミティアヌスは帝国内を統一する必要から、自分を神として礼拝するように命令しましたが、歴史を通してユダヤ人だけは唯一の神への信仰を曲げないことを知っていた彼は、ユダヤ教徒だけには自分を神とする礼拝を強制しませんでした。しかし、ユダヤ教徒から迫害されていたクリスチャンにその自由は与えられません。三位一体の神のことを理解できなかったのです。クリスチャンは人を神として礼拝することは絶対にありませんから、ヨハネは逮捕されパトモス島に幽閉されたのです。島に幽閉されたと言うとロビンソンク・ルーソーの様に孤独のなかで過ごしたように思われるかも知れませんが、ローマ帝国の奴隷として苦しみを味わったのです。皇帝の死後に幽閉から解放されてエフェソ教会に戻ったヨハネは、苦しみの中で与えられた幻を書き記して、アジア州の7つの教会に送りました。それが「ヨハネの黙示録」です。
ローマ帝国やユダヤ教徒からの迫害が続く時代です。信仰に関しての直接的な表現を避けて様々な象徴的な表現が用いられており、私たちにとって大変分かり難いものとなっています。聖書全体が語る神の言葉に依って読み解く必要があります。前回読みました5章では、天の玉座に座ってらっしゃる神様の右の手には7つの封印で封じられた巻物があり、小羊が進み出て巻物を受け取った時に「あなたは、巻物を受け取り、 その封印を開くのにふさわしい方です。」「屠られた小羊は、 力、富、知恵、威力、 誉れ、栄光、そして賛美を 受けるにふさわしい方です。」 この様に賛美の声が響き渡りました。さらに5章13節に注目したことを思い起してください。わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。「玉座に座っておられる方と小羊とに、 賛美、誉れ、栄光、そして権力が、 世々限りなくありますように。」父なる神と御子イエス・キリストを皆が賛美するのですが、「地の下にいる被造物」に注目して次の様に語りました。
【これはモグラやミミズの事ではありません。ユダヤでは「地の下」は陰府(よみ)を意味しました。使徒信条が「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり」と告白する陰府です。 私はいつも信仰を持たずに亡くなられた方の為に祈ることが大切だと申し上げています。クリスチャンは亡くなった後に神様の御許、「天の国」へ招かれることが約束されています。一方、信仰に至らないで亡くなった方は一旦陰府へ行きます。十字架で亡くなり墓に葬られたキリストは、陰府に降って、福音を受け入れるように伝道してくださるのです。信仰を持たずに亡くなった方がキリストに心を開く様にと祈ることが大切です。 そうです。「地の下」の世界、すなわち「陰府」から主を賛美する声が聞こえてくるのであれば、それは信仰を持たずに亡くなった方が、キリストを救い主として受け入れたからに違い無いのです。わたしたちの祈りが聞かれたに違い無いのです。なぜなら、「陰府」もまた神様の御支配の下にあるからです。】 この様に語りました。
さて本日与えられた6章1節から8章5節では、小羊すなわち主イエスが、玉座に座っている方、すなわち父なる神から受け取った巻物の七つの封印を順に開いて行きます。 「ヨハネの黙示録」を開いていただきご一緒に追って行きたいと思います。新約聖書459ページ 6章1節2節。お読みします。6:1 また、わたしが見ていると、小羊が七つの封印の一つを開いた。すると、四つの生き物の一つが、雷のような声で「出て来い」と言うのを、わたしは聞いた。2 そして見ていると、見よ、白い馬が現れ、乗っている者は、弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上に更に勝利を得ようと出て行った。 ヨハネが見た幻です。小羊が七つの封印の一つを開きました。すると、玉座の近くで神様に仕えて「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、 全能者である神、主、 かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」(4:6-8)この様に賛美し続けている四つの生き物が 雷のような声で「出て来い」と言ったのです。すると、白い馬に乗り弓を持った者が出て来て勝利の冠を与えられました。白は「勝利」の象徴です。勝利の上に更に勝利を得ようと出て行った。戦に勝利した者は次の勝利を目指して出て行ったのです。
6章3節で、主イエス・キリストは二つ目の封印を開くと、火の様に赤い馬とそれに乗っている者が飛び出します。赤は「流血」の象徴であり戦争を意味します。地上から平和を奪い取る者です。馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられた。また、この者には大きな剣が与えられた。 神様が争いを容認している様に思われることが語られていますが、これが人類の歴史であり、またこの2023年の現実がここにあります。最終的な解決は終末の時に与えられますが、それまでの間争いの解決は人間に委ねられています。主の平和を知る私たちです。多くの人に主の福音を伝える使命が与えられていることをあらためて覚えたいと思います。
小羊が第三の封印を開けると黒い馬が「秤」を持った者を乗せて現れました。6節に「小麦は一コイニクスで一デナリオン。大麦は三コイニクスで一デナリオン。オリーブ油とぶどう酒とを損なうな。」とあります。これだけを聞いても全く意味が分からないのですが、一デナリオンは労働者の一日の賃金で、一コイニクスは大人の一日の食料です。古代においてはしばしば飢饉が起こりました。この時、価格が高騰して安い大麦でも家族3人分しか買えません。燃料や着るものなどほかの生活必需品を買うことは一切出来ないのです。その一方で金持ちは「オリーブ油」や「ぶどう酒」などのぜいたく品を手にしています。極端な貧富の差は現代においても、世界にそして日本に存在しています。
小羊が第四の封印を開くと「死」を乗せた青白い馬が「陰府」を引き連れて現れたのです。戦争や飢饉、さらに地上の1/4の人を死に追いやった伝染病です。8節には 人を滅ぼす権威が与えられた。とあります。
ここまでに現れた4頭の馬とその乗り手は「勝利への欲望」、「戦乱」、「飢饉であり不平等」そして「疫病」でした。ローマ帝国の圧政が続いた時代にだけではなく、歴史を通して人類を苦しめてきました。神様はなぜそんな苦しみを放置されるのか? いやそれだけではありません。弓を持った白い馬の乗り手には冠が与えられました。赤い馬の乗り手には 地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられました。手に秤を持った黒い馬の乗り手は、飢饉に苦しむ人を傍目にオリーブ油やぶどう酒などの贅沢品を追い求めています。
「死」という名で呼ばれ、陰府を従えた青白い馬の乗り手は、地上の四分の一を支配し、剣と飢饉と死と野獣によって人を滅ぼす権威が与えられました。この様にヨハネは証言するのです。 神様、なぜなのですか? 現代において私たちは、この問いを禁じ得ません。この問いを残して先に読み進めます。
9節から11節。6:9 小羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た。10 彼らは大声でこう叫んだ。「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。」11 すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられた。 なぜ早く裁きを行ってくださらないのですかと復讐を求める殉教者たちの叫びです。主の答えは「暫らく待て」でした。パウロの言葉が思い起こされます。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(ローマの信徒への手紙12:19-21) 「お前たちが復讐をするのであれば、新しい憎しみを生むだけだ。私は全て分かっている。私の裁きを待ちなさい。」私たちはこの言葉を心に留めなくてはいけません。
小羊が第六の封印を解くと大地震が起きました。15節以下です。6:15 地上の王、高官、千人隊長、富める者、力ある者、また、奴隷も自由な身分の者もことごとく、洞穴や山の岩間に隠れ、16 山と岩に向かって、「わたしたちの上に覆いかぶさって、玉座に座っておられる方の顔と小羊の怒りから、わたしたちをかくまってくれ」と言った。17 神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか。多くの者はこの時になって初めて神の怒りを覚えるのでしょう。しかし、彼らは山と岩に向かって「神様の怒りからかくまってくれ」と言うのです。そんな時に先立って神様の愛に包まれている私たちです。
続く7章は7番目の封印を残してのいわば間奏曲です。4人の天使が風をしっかり押さえているところに、東から来た天使が言いました。3節。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」太陽が昇る方角は、この世の光として来られた主の福音がもたらされる方向だと考えられていました。西欧の大聖堂の多くは入り口が西側にあり、正面に祭壇が置かれています。神の僕たちの額に刻印を押すとありますが、エゼキエル書には「堕落したエルサレムのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に記しを付けよ。」とあります。 罪を悔いる者に付けられる印、罪を悔い改めキリストに従う決断をした者に与えられる印、これが私たちの洗礼です。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」
終末が何時になるのかという私たちの疑問にたいして、ペテロの手紙Ⅱ3章8節9節が思い起こされます。愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。ここでも山形六日町教会に集う私たちに、主の福音を伝える使命が示されているのです。
10節11節は白い衣に身を包んだ者たちが集う天上の礼拝です。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、 小羊とのものである。」「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、 誉れ、力、威力が、 世々限りなくわたしたちの神にありますように、 アーメン。」 地上における私たちのこの礼拝は、天上の礼拝と響き合うのです。なぜなら、同じ三位一体の神様を礼拝しているからです。
14節。白い衣を着た者たちは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。 白い衣を着た者たちは、今は神様の御許にある私たちの先輩方であり、また私たちの未来の姿です。
白い馬、赤い馬、黒い馬、そして青白い馬に乗った者たち。この世に住む者は「勝利へのつきない欲望」、「戦乱」、「飢饉」、「疫病」がもたらす、自己中心であり、恐れであり、苦しみであり苦難。これらと無縁ではありません。その結果「神様と自分と隣人を愛する」ことから離れてしまう。すなわち「罪」と無縁ではないのです。そんな私たちを小羊の血で洗って白くしてくださった。これが私たちの洗礼です。「罪ある者」の罪をキリストが十字架で負ってくださった。肉を裂き血を流すことで贖ってくださった。そして主イエス・キリストを信じ従う決断をした者、すなわち洗礼を受けた者を「罪のない者」と見なしてくださり、大いなる恵みに包まれた人生、死の向こう側にまで続く大いなる恵みと愛の中を歩む人生を与えてくださる。これこそが主の福音あり、この確信こそが私達の信仰なのです。 私達の諸先輩がただけではありません。最初に申しました様に「陰府」において主の福音を受け入れ主を賛美するようになった方も同じです。
15節以下です。7:15 それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、 昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、 この者たちの上に幕屋を張る。16 彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、 太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。17 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、 命の水の泉へ導き、 神が彼らの目から涙をことごとく ぬぐわれるからである。 続く8章で小羊は最後の封印を開きました。しばしの静寂の時がながれます。何も起きません。「嵐の前の静かさ」です。30分程が過ぎて、神様の御前で7人の天使に7つのラッパが与えられました。
ヨエル書には 2:1シオンで角笛を吹き わが聖なる山で鬨の声をあげよ。この国に住む者は皆、おののけ。主の日が来る、主の日が近づく。とあります。ゼカリヤ書には 9:14 主は彼らの前に現れ その矢は稲光のように飛ぶ。主なる神は角笛を響き渡らせ 南からの暴風と共に進まれる。ここではラッパでは無く角笛になっていますが、同じ意味です。以前礼拝で用いられていた口語訳聖書ではラッパと翻訳されていました。神様が歴史の中に影響を与えられる時には必ずラッパが吹かれるのですが、それは8章6節以降です。
今日は3節以下に注目します。8:3 また、別の天使が来て、手に金の香炉を持って祭壇のそばに立つと、この天使に多くの香が渡された。すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前にある金の祭壇に献げるためである。4 香の煙は、天使の手から、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った。「聖なる者たち」とは地上にある私であり、あなたです。クリスチャンです。わたしが「聖なる者」なんて呼ばれるのは“おこがましい”と思われるかも知れません。しかし、「聖なる者」なのです。キリストの故にです。キリストに従う者は罪のない者と見なしてくださるからです。だとしたらそれにふさわしい者でありたいと思います。「神様と自分と隣人を愛する者」です。香の煙は、天使の手から、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った。とあります。香の煙は私の祈りを意味します。祈りは神様の御前に届くのです。
第4の封印が開かれたところで「神様、なぜなのですか?」この問いを残してきましたが、開かれた第5と第6の封印もその思いを強くするものでした。昨日私たちは東日本大震災12年記念礼拝を持ちましたが、この問いが消えることはありません。私たちの人生には思いを越えたこと。喜びも、悲しみも、苦しみ、怒りさえもあるのです。「神様、なぜなのですか?」2つ確かなことがあります。主イエスの愛は変わりません。死の向こうに至るまで変わりません。もう一つ確かなこと。それは私たちの祈りは神様に届くことです。祈りましょう。