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山形六日町教会

2023年3月5日

聖書:詩編51編3~6節 ローマの信徒への手紙1章18~32節
「神を認めた者は」波多野保夫牧師

説教シリーズ「あなたへの手紙」の24回です。使徒パウロが当時の世界の中心ローマを訪問するに先立って、キリストの福音の神髄を書き送った「ローマの信徒への手紙」を読み進めています。一月ほど前になりますが、前回第23回では1章18節から25節のみ言葉を聞きました。聖書箇所が重なりますので、今日は後半の28節以下だけを読んでいただきましたが、18節以下の小見出しには「人類の罪」とあります。
レント第2週の礼拝においてぜひ「人類の罪」についてパウロが語るみ言葉をご一緒に聞きたいと思います。1章18節。 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。 前回、次の様に始めました。【私たちは「神の愛」を語りますし、キリスト教は愛の宗教です。しかし、パウロはここで「神の怒り」を取り上げます。実際聖書は怒る神の姿を伝えています。頑なにエジプト脱出のリーダーとなる事を拒むモーセに、退廃した都ソドムとゴモラに、部下の妻バト・シェバを奪い取ったダビデ王に。
預言者たちの時代になると、彼らは契約を守ろうとしない者たち、特に主なる神を捨てて他の神々を礼拝する人々に対して神様の怒りを告げました。】
先ほど、市川長老に読んでいただいた詩編51編は「悔い改めの詩編」と呼ばれており、私たちの礼拝では「罪の告白」として4か月に一度ほど交読しています。1節2節には 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】 この様にあります。自分の部下を亡き者として彼の妻バト・シェバを奪い取ったと言う、常識を超えた罪を犯したダビデ王のところに預言者ナタンがやって来て、厳しくその罪を指摘して神様の怒りを伝えたのです。この時の様子を記すサムエル記下12章です。 12:1 主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。2 豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。3 貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに 何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い 小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて 彼の皿から食べ、彼の椀から飲み 彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。4 ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに 自分の羊や牛を惜しみ 貧しい男の小羊を取り上げて 自分の客に振る舞った。」5 ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。6 小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」7 ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。」 指摘を受けて神様に立ち返ったダビデ王が歌った詩です。神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。この様に自分の犯した罪を認め、深く深く悔いたのです。皆さんはこれを聞いてどの様に感じるのでしょうか? 恐らく「私はダビデほど大きな罪を犯したことは無い。」こんな思いがよぎるのではないでしょうか? 犯した罪に関しては、当然そうであって欲しいと思います。
カトリック教会はヨハネの手紙Ⅰ(5章16節17節)に基づいて、大罪すなわち死に至る罪と、小罪すなわち死には至らない罪に区別して述べています。「死に至る」と言うのは神様との断絶を意味しますから大変です。
主イエスは、金持ちの男から「何をすれば永遠の命が得られますか」と尋ねられた際に『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟(マルコ10:19)を指摘なさいました。この様な十戒にかかわる「重大なことがら」を「はっきり意識して意図的に犯すこと」が大罪であり、「愛を破壊するもので、神様との断絶を意味し恵みを失う」この様にカトリック教会は言います。
これに対して小罪は愛の破壊までには至らない小さな罪だと言うのです。この様に罪の大小を区別してハッキリ認識するのです。
そして大罪を犯してしまった者がミサでの聖体拝領、私たちの聖餐ですね、聖体拝領に与るためには、告解室で司祭に自分の犯した罪を告白して「赦しの秘跡」を与えてもらわなければいけないと言うのです。この辺は教区によって厳しさに多少の違いはあるようですが、キリストに従って生きる信仰が自分の生活に根付いたものとなり、キリストが十字架を負ってくださったその痛みが、頭の中での理解に終わらないための制度だと言えます。
一方、私たちプロテスタント教会は大罪・小罪の区別をしませんし、告解室の中で教職者に自分の罪を告白し、罪の赦しを願う事もしません。私はいつも「神様と自分と隣人を愛しなさい。」この主の言葉から離れることが「罪」だと語って、罪の大小を強調することはありません。
私達は、礼拝に集い説教と聖餐によって主の大いなる愛を知り自分の罪を悟ります。共に祈り、主を賛美し、感謝と献身の印として献げます。礼拝全体が罪を自覚し、その罪の赦しを願い、赦しを悟る場であり、時なのです。そして罪を赦された者が、主の福音を伝えるために山形の地へと派遣される。これが私たちの礼拝です。
ジャン・カルバンは16世紀の宗教改革において、私たち改革長老教会の福音理解をハッキリと言い表したのですが、彼が牧会したジュネーブの教会では聖餐式に先立って、長老たちが教会員の家庭を訪ねて、聖餐に与るのに相応しいかどうか試問をしたそうです。訪問する方もされる方も大変だと思うのですが、私たちの教会はこの伝統を戒規と言う制度で受け継いでいます。長老会は罪を犯した者が悔い改めるための「愛の業」として、聖餐停止などの戒規を執行します。間違っていけないのは戒規は裁きではありません。裁きは主イエス・キリストのなさることです。あくまでも悔い改めて主に立ち返ることを促すのが戒規です。これは以前お話ししたのですが、ある教会の長老さんが経営していた会社で脱税行為が発覚し、この長老さんは逮捕されました。深く反省して長老を辞任するとともに自ら戒規を申し出ました。長老会は祈りを持って聖餐停止の戒規を執行しましが、辞任した長老さんは毎週の礼拝を欠かすことなく守るだけではなく、一番早く来て玄関先を掃いたり打ち水をしました。そして、聖餐停止の期間が明けた後の教会総会で再び長老に選出されたそうです。この長老さんは主の前で謙虚になり、そして悔い改めたのです。その姿を見た教会員は、長老職を担うにふさわしいとして再度選出したのです。この話のポイントは、礼拝を欠かさずに守り続けたことにあります。私たちが本当に自分の罪深さを知るためには、見えない言葉と見える言葉、説教と主の聖餐に与り主の大いなる愛、すなわち福音にふれることが欠かせません。
宗教改革者ルターが「律法と福音」を強調したのに対して、神学者のカール・バルトは「「福音と律法」この順番が大切だ。主の福音なしに人は己の罪深さを知り得ないのだ。」と主張しました。確かに光の存在によって闇の深さを知る私たちです。私達は、「罪」に関してファリサイ派の様に律法違反を字句通りに追求することをしませんし、「罪」を大きさで区分することによって、主に立ち返る機会を与えようとはしません。主の日の礼拝を強調します。ですから分かりにくさを感じるかも知れません。しかし、「世の光」として来てくださった主イエス・キリストの愛、すなわち福音に最も親しく触れる時と場が主の日ごとの礼拝であり、その光によって私たちが抱える罪の暗闇が明らかにされます。そして私たちは悔い改めて主に立ち返るのです。これこそが主と共にある幸せな人生を手にする方程式なのです。
だからこそ私たちは集うことが叶わない友の為に、隣人の為に祈るのです。だからこそ私たちはまだ福音を知らない人達の為に祈り行動するのです。私たちは確かに様々な機会に神様の存在を知ります。祈りに答えてくださった時、反対に祈ったことがかなえられなかったのだが、後でその意味が分かった時、主の愛とご計画の大きさを知るでしょう。それだけではありません。小さな虫や草花の命、そして私たちの命に宿る神秘、人間の体の各部分の働きや原子や素粒子から大宇宙に至るまでに及ぶ物理法則などを通して神様の創造の御業のすばらしさを知ります。1章20節。 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。「彼ら」とは神様が怒りを向けられる者たちです。21節。その彼らは 神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。その「彼ら」は、自分は知恵者だと言うのですが、実は愚者なのです。
箴言1章7節に 主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。 とありますから、愚かな彼らは主を畏れない者たちです。十字架上で主を罵(ののし)った犯罪人が言いました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」(ルカ福音書3:39-41) 主を知ることで自分の罪深さに目覚めた者の言葉です。42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
もう一人の犯罪人は主イエスを知ったのです。主を知って自分の罪を告白し悔い改めるとともに、主に委ねました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったのです。そして主の言葉です。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」 
ダビデ王が読んだ詩編51編の話から、ダビデ王がバテシバを得るために犯した罪をどの様に感じるかとの問いに対して「私はダビデほど大きな罪を犯してはいない。」こんな思いから始めました。
しかし、あなたは「神様と自分と隣人を愛する」ことに悖(もと)ることは無いのかと問われると心がうずきます。 23節。滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。 偶像礼拝です。新聞紙上をにぎわしている「自分が救い主だ」と言ってはばからない教祖たちはしょせん滅び去る人間です。さらに偶像は鳥や獣や這うものを神格化する事だけではありません。神様でないものが私たちの心を奪い取るのであればそれは偶像です。地位や名誉、成績、お金、仕事、極度の心配事、偏った愛情などは偶像です。神様の愛を見えなくするからです。
後ほど触れますが週報の裏面に「悪徳表」を記しました。エフェソの信徒への手紙5章5節です。すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。この様にあります。
神様が望まれないものに心を奪われるのであればそれは偶像礼拝なのです。 この様な者に対して1章25節はハッキリと言います。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。
パウロは24節では「心の欲望」が、26節では「恥ずべき情欲」が、27節でも「情欲」が偶像となったのだ。神様で無いものが心を支配したのだと指摘しています。ここでパウロはその偶像として、いわゆる「同性愛」をあげています。 現在では、LGBTQと呼ばれる「性的少数者」に関しての医学や心理学での理解が深まり、例えばアメリカの最高裁で同性同士の結婚を認めない法律は違憲だとの判決が出されました。これを受けて、アメリカの教会では教会が同性の結婚式を挙げるか否かで大きな混乱が生じている現実があります。
パウロは当時のユダヤの倫理観に基づいて語っているのですが、倫理観は時代と共に変わっていきます。ほんの一例ですが、彼はコリントの信徒への手紙Ⅰ 15章34節で「婦人たちは教会では黙っていなさい。」と言っています。当時、家庭や社会で抑圧されていた婦人たちは教会で味わう開放感から、礼拝中ですら私語が止まらなかったのでしょうか?しかし、これは2023年において適切ではありません。私たちは倫理の問題も「神様と自分と隣人を愛すること」に相応しいのか、相応しくないのかで判断すべきです。たとえば、男女間の恋愛感情であっても、同性間のものであってもストーカー的なものになれば、これは犯罪行為です。相手を偶像化しています。
私たちは28節のパウロの言葉に耳を傾ける必要があります。彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。「神を認めない」とは神様を愛さないことそのものですから28節から30節は「神様と自分と隣人を愛さない」者の示す態度であり行いです。1:29 あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、30 人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、31 無知、不誠実、無情、無慈悲です。これは「悪徳表」と呼ばれますがいかがでしょうか? 思い当たることが無い方いらっしゃるでしょうか?
30節に「親に逆らい」とあります。現代では親を越えて大きくなるには「言われたことだけをやっていてはダメだ」とか、「子供は親の奴隷でもペットでもない」とも言われます。逆らうことが正当化される場合も確かに有るでしょう。「父と母を敬え」と十戒で言われますが、ここには「敬われるに値する親であれ」という意味も含まれるでしょう。しかし、ユダヤの世界では子供に信仰教育をキチンと行うのは親の大切な務めとされていました。私たちも心に留めるべきことです。
さて「悪徳表」ですがパウロの他の手紙にもあります。週報に記しました。のちほどこれらの悪徳表に基づいて自分を良く吟味してください。私は、「こんな私を神様は愛し続けて下さっているのだ。」という思いを強くします。ローマの信徒への手紙1章28節から31節をもう一度お読みします。良く聞いてください。1:29 あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、30 人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、31 無知、不誠実、無情、無慈悲です。これらは決して「神様と自分と隣人を愛する」ことになりません。「罪」です。32節。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。 
パウロはハッキリ告げます。ローマの信徒への手紙6章23節。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。 私たちは「神様の大いなる愛」を知る者です。特にこのレントの時に有って主イエスが私たちの「罪」を負って十字架に架ってくださったことを覚え感謝する者です。だとしたらこのレントの時をパウロの語る「善行表」に従って喜びの生活するのがふさわしいのではないでしょうか。週報に記してあります。ガラテヤの信徒への手紙5章22節23節。 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。  祈りましょう。