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山形六日町教会

2023年2月26日

聖書:エゼキエル書34章12~15節 ヨハネによる福音書10章1~18節
「私は良い羊飼い」波多野保夫牧師

先週の水曜日2月22日は「灰の水曜日」でした。この日からイースターの前日までの40日間は受難節・レントと呼ばれます。私たちの「罪」の為に十字架での死をとげてくださった、主の愛と主の受難の苦しみを覚えて備をなしていく日々です。実際は46日間なのですが、その間にある6回の日曜日は主の復活を覚える日ですから、勘定に入れません。
先ほど讃美歌297番を賛美しました。【栄えの主イェスの 十字架をあおげば、 世の富、ほまれは 塵にぞひとしき。】 私たちは主の復活という勝利に与ることを知っている者です。この恵みが尊い主の血と肉とによって与えられていることをあらためて覚え、賛美する日々でありたいと思います。
少し細かいことですが、なぜレントの初日が「灰の水曜日」と呼ばれるのか、さらになぜレントは40日間なのかをお話ししましょう。 水曜日になることは主の復活されたのが週の初めの日、日曜日の早朝ですから、その46日前は水曜日になります。ではなぜ「灰の水曜日」なのでしょうか? 「灰」については、例えばヨブは神様の前で自分の尊大さに気づいて言いました。あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。 それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し 自分を退け、悔い改めます。(ヨブ記42:5,6)灰は、自分の尊大さを退けて悔い改める。その象徴です。中世のカトリック教会では、この日に離れていた人が悔い改めて教会に戻る儀式が行われたのですが、その際、司祭が聖別された灰を頭から被せたそうです。プロテスタント教会では廃止されましたが、時代が下るとミサの参加者全員が額に灰を付けてもらい懺悔の印としたそうです。 私たちも悔い改めて主に従順になることを忘れないようにしたいと思います。
40と言う数字は聖書では、ノアの洪水が40日、モーセは荒野を40年さまよい、ダビデ王がイスラエルを治めたのも40年。主イエスは荒野で40日間悪魔の試みを受けられました。40は聖なる数の一つとされていますが、私たちが主の十字架と復活の出来度とを前にして、心と体を整えていくのに40日はちょうど良い期間なのです。

さて説教シリーズ「たとえて言えば」の24回目です。前回に続いてヨハネ福音書からみ言葉を聞きますが、このヨハネ福音書には「わたしは何々である」という主の言葉が多くあります。週報に記しました。後ほど聖書を開いていただきたいと思いますが、6章48節以下です。6:48 わたしは命のパンである。49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。その他にも「わたしは世の光である。」「わたしは復活であり、命である。」「わたしは道であり、真理であり、命である。」2週間前に開いた15章1節以下は「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」と始まっていました。「つながっていなさい」との説教題でみ言葉を聞きました。主イエスに繋がっていることで実を結ぶことが出来る私たち、繋がっていないことで実を結ぶことが出来ない私たちです。そして、15章9節10節。 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。主イエスの掟「神様と自分と隣人を愛すること。」レントの時にあってあらためてこの「幸せの掟」に従って行きたいと思います。
主が「私はぶどうの木」とおっしゃったのは十字架の数日前の事でしたが、先立つ11章が伝えるのはファリサイ派と祭司長たちが、イエスを殺す決定的な原因となった「ラザロ出て来なさい。」と言ってラザロを復活させた出来事を伝えています。ですからこの10章は十字架の数週間前のことでしょう。ちょうどこのレントの期間に当たります。
さて、羊や羊飼いは聖書によく登場しますが、かつて千歳認定こども園で飼われていた「羊のメ―チャン」とその世話をしてくださった羊飼いさん以来、私たちが接する機会は殆どないのではないでしょうか。もっとも、山形はジンギスカン発祥の地と言われますから多少の親しみはあるのかも知れません。
イスラエル民族は遠くアブラハムの時代には遊牧民でした。紀元前1000年頃のダビデ王も少年時代を羊飼いとして過ごし、羊飼いの持つ石投げ紐だけで巨人のゴリアトを倒しました。週報に旧約聖書から2か所記してあります。詩編23編は、このダビデ王が自分を羊に譬えて語る大変慰めに満ちた詩です。しばしば葬儀の際にお読みしますが、私たちが生を受けている日々だけでなく、死の向こう側においても歩むべき道を導いてくださる主への賛歌です。聞いてください。 1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。2 主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。4 死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。5 わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。6 命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。
もう一か所引用したのは、イザヤ書40章11節です。ダビデ王から400年以上経った時代です。バビロンに奴隷として連れていかれた人々に慰めの言葉、バビロン捕囚からの解放が告げられました。主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。イスラエルの人々にとって羊や羊飼いが大変身近な存在だったことが分かります。
しかし、それから400年以上経った主イエスの時代には、小麦、大麦、オリーブやぶどうなどを広く栽培するようになっており、もはや羊や山羊の放牧は主要な産業の地位にはありませんでした。それでも、羊は神殿での大切な献げものであった他に、羊肉やチーズなどの乳製品が貴重なたんぱく源として、さらに羊毛は防寒用の衣服や寝具などに無くてはならないものでした。
さて、10章1節2節です。はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。羊飼いが飼っていた羊はその所有者からの預かり物で、羊飼いの賃金は大変安かったそうですが強いプロ意識をもって、命がけで羊を守り育てたのです。羊は休んでくれませんから一年中休みはありません。神殿の祭儀に出席できない胡散臭い連中で交わりを持たない方が良い者たちと見なされ、社会的な身分は大変低く、町から離れて自分たちの村に住んでいました。イスラエルは殆どの土地が岩のゴロゴロした砂漠や土漠で覆われています。朝には良い牧草地へと羊たちを導いて行き、一日中おいしい草を沢山食べさせ、夕方になると羊を連れて村に戻り、羊飼いたちが共同で使う安全な「羊の囲い」に入れる毎日です。週報に岩で囲われて頑丈な門が付いている「囲いの絵」を載せました。
3節。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。門番に囲いの門を開けてもらえたのは羊飼いだけです。その羊飼いは羊の名を全て覚えており、羊は羊飼いの声を聞き分けます。集団で行動することから、一般に哺乳類の中では知能レベルが低いとみられていますが、最近の研究では人間の顔を認識し、さらに顔の表情を読み取ることが出来るそうです。主イエス・キリストは私達すべての者をご存知です。そして大いなる愛をもって呼び集めてくださる。私たちはこの主イエスにだけついて行き、他の者にはついて行かない。これこそが「変わることの無い幸せの法則」なのです。
10章6節。イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。なぜ彼らが理解できなかったのかは、後ほど見ることにしましょう。
最初に読んでいただいたエゼキエル書34章12節以下は、紀元前500年代バビロン捕囚の際に、堕落していたイスラエルの宗教指導者たちに預言者エゼキエルが伝えた神様の厳しい言葉に続いて語られた希望と慰めの言葉です。バビロン捕囚からの解放と豊かな恵みの回復を告げるのです。私たちはその解放と恵みの回復を主イエス・キリストを通して知ります。もっと正確には主の十字架と復活の出来事によって、私たちが主の大いなる愛に包まれていることを知るのです。エゼキエル書34章15節には わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。とあります。主のみ言葉が思い浮かびます。 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ11:28) 500年の時を越えて語られた2つの恵みの言葉は、2000年後の私たちにとっても変わることの無い真理なのです。

本日与えられた聖書箇所に戻りましょう。ヨハネ福音書10章7節以下には「イエスは良い羊飼い」という小見出しが付いています。イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。」10章1節以下は羊たちを村に連れ帰った際のことでしたが、牧草地が遠い場合には村まで連れ帰ることが出来ないので、夜になると簡単な壁や岩で囲われた中に羊の群れを入れました。村にある「羊の囲い」と違って出入り口には扉が無いので、羊飼いがそこに寝そべって番をしたのです。「わたしは羊の門である」とはこのことを指しています。
先ほど6節にあります「ファリサイ派の人々には、その話がわからなかった」この言葉を残してきました。「良い羊飼い」の譬えは、9章で生まれつき目の不自由な人を癒された出来事に続いて語られています。ファリサイ派、彼らはまじめな宗教指導者なのですが、律法を字句通り守る様に人々に求め、一番大切な神様のみ心、神様の愛を見失っていた者たちです。主イエス・キリストを通して示された神様の愛を見ようとしない者たちには、いくら真面目であっても、命を懸けて羊たちを愛し抜く羊飼いのことは理解出来ないのです。私たちは他人を裁くのではなく、隣人を愛する者でなければなりません。1節では 門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。8節では わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。12節には 自分の羊を持たない雇い人 とあります。少し説明を加えれば、「わたしより前に来た者」とは、神様から遣わされた預言者やダビデのように神様に忠実だった王たちではありません。盗人か強盗と呼ばれるのは、何度も現れた偽預言者や偽メシヤたちです。羊たちが羊飼いに従って行こうとするのを妨げ、神様に従おうとする人々の心を盗み取ろうとしたからです。自分の羊を持たない雇人とありますが、羊飼いたちも所有者から預かって飼育していました。しかし彼らは羊を愛していました。あの少年ダビデと同じように羊を守るために獅子や熊と戦ったのです。(サムエル記上17:34,35)一方、町にいられなくなったのでしょう。仕方なく羊飼いになった賃金目当ての雇人は、仕事に誇りを持っていません。少しでも不都合なこと、意に沿わないことがあれば、役目を放り出して逃げ去ってしまいます。確かに主の愛を理解しないファリサイ派の熱心さは、人を主の愛から離れさせる結果を招きました。主を亡き者にしようとしたのです。羊を奪う盗人であり強盗です。確かに偽預言者、偽メシヤたち。自分の考えを聖書の教えに照らすことなく主張する者はいつの世にもいます。しかし、それだけでしょうか? 残念なことですが実は皆がその危険性を持っています。牧師も例外ではありません。「神様と自分と隣人を愛すること」から些(いささ)かなりとも外れるのであれば。人は皆「罪人」の素質を持っています。
10:3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。私たちは主イエスの声、主イエスの福音、主イエスが十字架に架ってまで私たちを愛してくださっていることを知っています。しかし、世の雑音であり自分のプライドであり、悪魔のささやきに心を向けるのであれば、知っているはずの主の声が聞こえなくなります。あるいは聞き違えてしまいます。私たち自身が盗人であり強盗となる可能性はいつでもあるのです。羊はその声を知っているので、ついて行く。週ごとの礼拝はその為に欠かせません。聖書に親しみ祈りの時を持つ。欠かせません。
11節から15節で主イエスはおっしゃいます。 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。わたしは羊のために命を捨てる。
最初に主イエスが「私は何々である」とおっしゃった言葉を聞きました。私たちに命を与えてくださるパン。主イエスがおっしゃった『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』この言葉と響き合います。パン屋さんのパンだけでは豊かな人生を歩むことは出来ません。世の光である。道であり真理であり、命である。 主は、私たちが歩むべき道、どの様な人生を送るべきかを示し導いてくださる灯台です。私はぶどうの木である。主に繋がっている恵みを一番感じられる時と場所、それが兄弟姉妹と共に献げるこの礼拝です。
16節。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 突然伝道であり教会の一致を語られます。伝道は地上に教会が立てられている重要な目的です。主が望み働かれるのですから、私たちは常に福音の伝道を祈り求めて行かなければなりません。教会の一致とは他の教会と祈りを合わせることと、教会内部の一致です。どちらも羊飼いに導かれてお互いに謙遜であることが出発点です。羊飼いは、門を通って羊の囲いに入り、羊たちは羊飼いの声を聞き分け、自分たちを緑の牧場へと導いてくれる人について行きます。良い羊飼いとは、羊のために自分の命を捨てることができる羊飼いです。主イエスこそが良い羊飼いであり、その主を通して安全な囲いに入る者は救われ、永遠の命を受けることができます。
それに対して、悪魔は、羊を奪ったり、屠ったり、滅ぼしたりする機会を狙っています。主イエスは、自分の羊を知っており、私たちもまた主を知っています。その主イエスはご自分の命を捨てて、羊を救うために人となって来てくださったのです。18節。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。 レントの時に有って主の十字架の出来事を知る私たちは、主の前で謙遜な者でありたいと思います。祈りましょう。