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山形六日町教会

2023年2月12日

聖書:エゼキエル書15章3~5節 ヨハネによる福音書15章1~10節
「つながっていなさい」波多野保夫牧師

説教シリーズ「たとえて言えば」の23回です。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」(マタイ7:24,25)主イエスが語られた、この譬え話で始まったシリーズです。マタイ福音書、マルコ福音書、ルカ福音書を通してみ言葉を聞いて来ました。
それぞれの譬えは福音の真理を弟子や群衆に、あるいは敵対するユダヤの指導者たちに分かり易く語られたのですが、聖書を通して2000年後の私たちに語ってくださっています。一般的に、譬え話は聞く者たちが良く知っている出来事や状況を用いて語られます。しかし、時代と環境が全く違う世界に生きている私たちです。正しく理解するのに難しさが伴うことも確かにあります。
これは譬え話に限ったことではないのですが、聖書全体を紐解く際にカギとなる方法があります。それは主の十字架の出来事によって示された「神様が私たちを愛してくださっている。」この変わることの無い真理を前提として、聖書を読み解くのです。
「わたしは良い羊飼い」という譬えでは、イスラエルの人たちにとって、羊飼いは極めて身近でしたが、私達の日常とは距離があります。「神様が私たちを愛してくださっている。」この真理に立って理解することで、わたしたちも羊飼いに愛されている羊になれるのです。
一方、先ほど読みました「岩の上に建てられた家は嵐にあってもしっかりと建ち続ける。」これは、私たちの感覚と同じです。次の様に続いています。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。 これも同じように納得できます。だとしたら、私たちはこの主の言葉を理解したうえで、実際に行う者となる必要があります。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」主のみ言葉を理解して行う私たちでありたいと思います。
さて、本日与えられましたヨハネ福音書15章1節1以下には「イエスは真のぶどうの木」という小見出しが付けられています。教会学校の子供たちに語る際には、週報の裏面にある一枚のイラストの様に、「イエス様に喜んで繋がっている僕と私は、沢山の恵みをいただいて心も体も大きく成長していきます。」この様に語るのでしょう。真にその通りです。青年も老人もそうありたいと思います。「神様が私たちを愛してくださっている。」ことを前提にして読むとこの結論に導かれるからです。
しかし2節は、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。6節は、火に投げ入れられて焼かれてしまう。とあり、教会学校のお話しだけでは済まない様です。
この譬えがどんな状況で語られたのかを見ることから始めましょう。ヨハネ福音書は12章12節以下で、過ぎ越しの祭りを前にして主がエルサレムに入城なさったことを伝えていますが、その直前の11章には、ベタニアで愛するマルタとマリアの兄弟ラザロを墓から呼び出した出来事があります。 「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。のです。ラザロの復活。そしてこの力ある業によって主を信じる人が増えたことで、祭司長やファリサイ派の人たちは、イエスを亡き者とする決意を固くしました。十字架の出来事を数日後に控えた、大変緊迫した状況でこの譬えは語られたのです。
15章1節。わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。パレスチナ地方はぶどうに適した気候と土壌で古くから広く栽培されていました。その年に収穫されたぶどうやぶどう酒の初物は神様への大切な献げものでした。旧約聖書では神様に選ばれた民、イスラエル民族がしばしば、この「ぶどうの木」にたとえられています。週報に記しました詩編80編9節です。あなたはぶどうの木をエジプトから移し 多くの民を追い出して、これを植えられました。奴隷になっていたイスラエル民族を神様が救い出してくださった出エジプトの出来事です。 時代が下って、ダビデ王と息子のソロモン王の時代にイスラエルは大変栄え絶頂期をむかえたのですが、紀元前926年にソロモン王が亡くなると、権力争いから北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してしまいました。
それから後300年以上に渡って、両方の王国におおぜいの王が現れたのですが、ほとんどは神様に従わない者たちでした。紀元前587年。ついにユダ王国はバビロン帝国によって滅ぼされ、壮大なエルサレム神殿は完全に破壊されてしまいました。多くの人が奴隷としてバビロンに連れていかれ、バビロン捕囚と呼ばれます。この滅びに至る350年ほどの間、大勢の預言者が遣わされて、神様に立ち返る様に主のみ心を伝えたのですが、王たちは政治的な混乱や外国勢力からの圧力に対して神様を信頼するのではなく、自分の知恵に頼ったり、偶像礼拝や退廃した生活を悔い改めて神様に立ち返ることは無かったのです。上に立つ王が神様に逆らうのですから民衆も快楽と繁栄を求める自己中心的な生活をしていました。残念なことですが、これはわたしたちの2023年に共通する話でもあります。
預言者が伝えた神様の言葉がイザヤ書 5章1節以下にあります。 わたしは歌おう、わたしの愛する者のために そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に ぶどう畑を持っていた。2 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り 良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。 神様が多くの民の中から選び出して豊かな恵みを与えられたイスラエルです。しかし、良いぶどうを植えたのに、実ったのは酸っぱいぶどうだったのです。同じ様に預言者エレミヤも伝えています。わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる 確かな種として植えたのに どうして、わたしに背いて 悪い野ぶどうに変わり果はてたのか。(エレミヤ書 2:21)
 
ヨハネによる福音書15章1節に戻ります。わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 神様に愛され選ばれた者の象徴としての「ぶどうの木」なのですが、「イスラエルの民は、惜しみない愛を注いでくださっている神様の恵みに答えて従順になることは無かった。「まことのぶどうの木」として、神様に素直に従うのはこの私なのだ。」子供たちに語る様に、「イエス様に喜んでつながって、沢山の恵みをいただいて心も体も大きく成長しましょう。」と言って終わりたいのですが、15章2節で わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。この様におっしゃいます。つながっている人に2種類あって、実を結ぶ者と結ばない者がある。さらに15章6節には わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。3種類の人があると指摘されています。主イエスにつながって実を結ぶ人。どんな人がそうなのか、想像することは難しくないでしょう。マザーテレサが思い浮かびますし、私の年代ならば、著名なオルガニストの地位を捨てて、アフリカでの医療改善の為に現地で活躍したアルベルト・シュヴァイツァーが思い浮かびます。山形六日町教会の諸先輩方もそうでしょうし、皆さんがそうであって欲しいと思います。
つながっていない人。具体的には主を十字架に架けてしまった、イスラエルの宗教指導者たち、祭司長や律法学者たち、ファリサイ派やサドカイ派の者たち、ローマ総督ポンテオ・ピラトに「その男を十字架に付けろ、バラバを釈放しろ」と叫び続けた群衆もそうでしょう。主イエスに繋がっていませんでした。
それでは、繋がっていながら実を結ばない者とはだれでしょうか? 少なくとも私たちは今、主の礼拝に集っています。繋がっています。ネット中継に参加してくださっている方、主イエス・キリストに心を向けて繋がっています。聖書を開いたり、祈りの時間を持っている方、繋がっています。「それでは、あなたは実を結んでいますか?」なんて聞かれたらドギマギしてしまいます。
しかし、この譬えを語られた十字架を間近にしたときの状況を考えれば、その時まで主に繋がっていたのは12人の弟子たちです。そして実を結ばなかった枝としてイスカリオテのユダを挙げることが出来ます。最後の晩餐の席で主は弟子たちの足を洗われました。さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。(ヨハネ福音書13:1-2) 悪魔の誘惑に負けてしまったユダです。

さて、15章2節には 父が取り除かれる。とありますし、6節には 外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。この様にあります。神様が愛の神様であり、キリスト教が愛の宗教だと言われるイメージに合いません。この厳しい言葉は主イエスが初めておっしゃったのではありません。
最初に読んでいただいたエゼキエル書15章3節以下は、紀元前600年頃にバビロン捕囚の民への神様の言葉です。15:5 完全なときでさえ何も作れないのに、まして火に焼かれて焦げてしまったら、もはや何の役にも立たないではないか。 
「ぶどうの木」にたとえられるイスラエルの民はバビロン帝国との戦いに敗れて奴隷となってしまった。すなわち火に焼かれて焦げてしまった。そんなお前たちは何の役にも立たないではないか。この様にエゼキエルは神様の言葉を告げるのです。捕囚の苦しみにある者の傷口に塩をまぶすように感じます。神様が愛の神様であり、キリスト教が愛の宗教だと言われるイメージに合いません。
十戒に代表される律法はそれを守って人々が幸福な人生を送る様にと与えられた戒めです。第1戒「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」第2戒「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」神様に選ばれたイスラエルです。先ほど預言者エレミヤの言葉を読みました。わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる 確かな種として植えたのに どうして、わたしに背いて 悪い野ぶどうに変わり果はてたのか。 怒りの言葉です。神様の愛は幸せの道から外れる時に真剣に怒ってくださる愛です。
近年、親の虐待が報道され心が痛みます。学校の先生の場合には考えさせられるところがあります。神様の怒り。イスラエルの人たちは、最終的にバビロン捕囚を、神様が自分たちの過ちを正してくださったのだと受け止めました。解放されてエルサレムに帰ることが出来ると、神殿の再建を始めたのです。

さて、神様に繋がり良い実を結んでいたにもかかわらず、見捨てられ、火に投げ入れられて焼かれる様な苦しみを味わった人がいます。そうです。十字架の主イエス・キリストです。マタイ福音書は証言します。27:46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 弟子たちと最後の晩餐を共にされ、ゲッセマネの園に行かれました。 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ福音書26:38-39)この祈りを3度繰り返されたのですが、聞かれることはありませんでした。 十字架上の主イエスです。この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。(ヨハネ福音書19:28)
十字架刑は大変残酷な刑罰でした。その残酷さをお話ししますが、私たちの「罪」を代わりの負ってくださった故の十字架です。聞いてください。それは、ローマ帝国への反逆者を肉体的・精神的に苦しめ見せしめとするためでした。手のひらだと裂けてしまうので、手首との間を太い釘で横木に打ち付け、さらに体重を足で支えられないように膝を曲げた状態で足首を釘で打ち付けます。十字架が立てられると全体重が腕にかかって横隔膜を広げることが出来なくなり呼吸困難に陥るのです。そうすると血中の酸素濃度が下がり心拍数は極限まで上がるのですが、焼けつくようなのどの渇きを覚えるのだそうです。
神様に従順だった主イエスは、全く「罪」を犯すことがありませんでした。ですから、神様に繋がり良い実を結んでいたにもかかわらず、見捨てられ、火に投げ入れられて焼かれる様な苦しみを味わわれたのです。
さて、先ほど3種類の人について考えました。主イエスに繋がって実を結ぶ者、つながっていながら実を結ばない者。繋がっていない者でした。今ここに集っている方であり、聖書に接し祈り祈られている方はつながっている者でしょう。しかし、繋がっていない者は大勢います。4節と8節です。わたしに繋がっていなさい。わたしもあなたがたに繋がっている。ぶどうの枝が、木に繋がっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしに繋がっていなければ、実を結ぶことができない。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
神様が栄光をお受けになる。この為に働くこと、あるいは生きること。これこそが最も大切であり最も喜びに満ちた私たちの人生の目的として相応しいものでないでしょうか。だとしたら、隣人が主に繋がる様にと祈り行動する。これこそが山形六日町教会の使命であり集う私たちの課題に違いありません。これこそが、隣人を愛することだからです。
それでは繋がっていることは確かだが、実を結んだり結ばなかったりの私たちです。正確に言えば、「実を結ばない時もあれば結ぶ時もある。」となるのでしょう。ペトロは初代教会において大きな働きをしました。しかし、主の十字架を前にして、「私はその人を知らない。」と言い放ったのもペトロです。パウロはキリスト者を捕まえては牢に送っていました。しかし、キリストの福音を伝える故に牢に投げ込まれる者となりました。
15章9節10節。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。主イエスの掟、それは「神様と、自分と、隣人を愛することです。」そしてこの掟に反することが「罪」であり、人が掟から離れ罪を犯すようにと誘惑し、人が主から離れることを最上の喜びとするのが悪魔です。常に私たちを狙っている悪魔に打ち勝つ方法、あるいは負けない方法。それは既に打ち勝った方と共にあること以外にはないのです。具体的には、信仰の友と一緒に週ごとの礼拝を守る。聖書に親しみ祈りを欠かさない。これ以外にはありません。
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 週報にあるぶどうの木の下で主と手をつなぐ子供たちの絵を見てください。死の向こう側まで続く主の愛を受けて、ご一緒に豊かな人生を歩みましょう。祈ります