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山形六日町教会

2023年1月22日

聖書:詩編103編1~5節 ルカによる福音書20章27~39節
「死者の復活」波多野保夫牧師

一年で一番寒い季節と言われます大寒を過ぎましたが、今週は大寒波の襲来が予報されています。皆さんの健康が維持されます様に、また弱さを覚えていらっしゃる方に回復が与えられます様に祈りたいと思います。
今朝もご一緒に主のみ言葉を聞いて参りましょう。ルカによる福音書は19章28節以下で、十字架を前にした主イエスが人々の大歓迎を受けてエルサレムに入城された様子を伝え、それに続いてエルサレム神殿を金儲けの場所としていた商人たちを追い出された、いわゆる「宮清めの出来事」が記されています。その後、毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。ルカはこの様に語るのです。さらに20章に入ると、祭司長、律法学者、長老たちは主イエスに向かって「何の権威で、神殿から商人を追い出したりしたのか」と問うたのですが、結局は主の権威を高めることに終わったのです。20章20節。そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。彼らが最初に仕掛けた罠は「ローマ皇帝に税金を納めるのは、律法にかなっているでしょうか。」との問いでした。20:23 イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。24 「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、25 イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」この様に言って良いのかためらいがありますが、私はこの聖書箇所を読むたびに、悪人に向かって格さんが懐から印籠を取り出すあの場面の痛快さを覚えるのです。しかし、そんなことに喜んでばかりはいられません。なぜなら、神様が私たちに与えてくださった富であり恵みをどこにお返しするのかが示されているからです。「神のものは神に返しなさい。」ですね。
そして今日与えられた20章27節以下で次の罠が登場します。20:27 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。小見出しに「復活についての問答」とありますが、その内容に入る前に27節に登場するサドカイ派、39節の律法学者がどの様な人たちだったのかから見て行きましょう。
当時、政治と宗教が一体となった政教一致国家イスラエルは、ローマ帝国の属国となっていたのですが、主な宗教政治集団としてサドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派、熱心党がありました。エッセネ派は律法に忠実に生きる人たちで、個人の財産を持たずに共同生活をしていた集団です。様々な欲得が渦巻く大都市エルサレムとは距離を置いて生活していたので新約聖書には登場しません。しかし、1947年に死海のほとりで発見された「死海文書」には彼らの残した旧約聖書の写本が多く含まれており、世俗から離れて神様に仕える敬虔なユダヤ教集団だったことが知られています。
熱心党は終末論的な希望を持った反ローマ開放運動の過激派集団でした。悪しきこの世の支配に神様が終止符を打ってくださる終末の時を、自分たちが参加することで早めようとの思いで、敵を短剣で刺し殺すこともありました。残念なことですが、現代においても多くの宗教に過激派集団が存在します。もちろん過激派とは異なるのですが、私たちの心を「仕返し」とか「やっつけてやりたい」との思いがよぎることはあるのではないでしょうか?
使徒パウロの言葉を確認しておきましょう。ローマの信徒への手紙12章19節以下です。12:19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。20 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」21 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。神様がわたしたちに与えられている戒めです。「なぜなら主イエス・キリストが私にこの様にしてくださっているからです!」
さて、当時の民衆の信仰であり生活に大きな影響を与えていたのは、司法と行政の権限を持つ最高法院で多くの議席を占めていたサドカイ派とファリサイ派でした。サドカイ派はエルサレム神殿を中心とした大祭司と十数名の祭司長たちを頂点としたエリートで、比較的少数の裕福で教養のある特権を持った聖職者貴族集団でした。自分たちの権益を守ることを最優先とする保守的な彼らは、モーセ5書と呼ばれる創世記から申命記だけしか神の言葉として認めなかったのです。ですから、先ほど読んでいただいた詩編103編が 主はお前の罪をことごとく赦し 病をすべて癒し 命を墓から贖い出してくださる。と告げることや、イザヤ書が 主はこの山で すべての民の顔を包んでいた布と すべての国を覆っていた布を滅ぼし 死を永久に滅ぼしてくださる。(25:7,8)
さらに、エゼキエルが「枯れた骨の復活」(37:1-14)を告げても、復活について御言葉を受け入れることは無かったのです。ルカ福音書20章27節に 復活があることを否定するサドカイ派の人々 とあるのはこういった背景によるのです。そんな彼らにとって、主イエスが神殿境内から商人たちを追い出した出来事は、自分たちの利権が脅かされる出来事でした。
次にファリサイ派ですが、一口で言えば彼らは熱心なユダヤ教徒でした。旧約聖書全体を大切にし、律法を良く学んで、安息日を大切にしたり、10分の1を献げるなど律法をシッカリ守ろうとしたのです。そんな彼らが、自分たちの地位と権力を守るためにローマ帝国にすり寄って行くサドカイ派を非難するのは当然でした。ファリサイ派の中でも、律法学者は厳しい修行を経て律法に精通した者たちなのにもかかわらず、主が厳しく叱責なさったのは、本来律法は神様の愛の表れであり、人々を幸せにするものなのですが、誤った解釈、愛を失った解釈によって、人々を苦しめるものとしてしまったからです。彼らはまじめなだけに、愛を失った時に“たちが悪い”のです。
主イエスに次の言葉があります。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ、あなたがたは、ミント、ディル、クミンの十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な公正、慈悲、誠実はないがしろにしている。これこそ行うべきことである。もっとも、十分の一の献げ物もないがしろにはできないが。(聖書協会訳マタイ23:23) 私たちも真剣に受け止める必要があるみ言葉です。彼らはまじめなだけに、愛を失った時に“たちが悪い”のです。
さて、最高法院で多くの議席を持っていたサドカイ派とファリサイ派ですが、その立場の違いから事ごとに対立していたのですが、ただ一点で一致しました。「それが主イエス・キリストを十字架に架けて殺す」この一点だったのです。正に「自分たちの敵である主イエス・キリストの敵、ファリサイ派は味方」というわけですが、それが人類最大の犯罪、神様の独り子を十字架上で殺害することであったと言うのは、真理を見失った人間の「おぞましさ」としか言いようがありません。しかし、私たちは人の抱えるこの「おぞましさ」に陥ることは無いのです。主の福音を知る、私たちがいただいた信仰ゆえです。
先にすすみましょう。20章28節以下は2つ目の罠です。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。 確かにこの定めはレビラート婚と呼ばれ、申命記25章5節以下にあります。週報に記しました。25:5 兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、6 彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。 当時の男系社会において、家系が途絶えることは神様の祝福が断たれることだと考えられていましたから、絶やさずに守る必要がありました。さらに女性の社会的な地位が極めて低い時代に有って、寡婦を作らないことも意図されたのでしょう。ルツ記4章にダビデ王の祖父になったボアズがルツと結婚する際に、このレビラート婚の定めに従ったことが記されています。しかし、これは紀元前1000年頃の出来事であり、主イエスの時代にはすでにレビラート婚は行われなくなっていました。ですからこの質問は主イエスを嵌めるために考え出した質問です。そもそも復活を信じない彼らです。20:33 すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。 この様に問うこと自体矛盾しています。
しかし、主は彼らの問いに誠実に答えられました。35節。次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。主は、まず地上の人間社会における、娶(めと)る、あるいは娶(めと)られると言う関係は天上には通じないと言われます。 この言葉に不安を覚える方、反対に良かったと思われる方がいらっしゃるかも知れません。「愛する者を主の御許に送ったのだが、自分が行ったときに振り向いてもくれないのだろうか?」「地上で添い遂げることが出来なかった人と神様の許で一緒になる希望を持っているのに。」反対に「それは良かった、神様のみ許で永遠の命に与るのはうれしいけれど、あの人と永遠に一緒だと思うと気が重かった。」
結婚式の誓約では【あなたはこの姉妹あるいは兄弟と結婚し、神の定めに従って夫婦となろうとしています。あなたはその健かな時も、病む時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、そのいのちのかぎり、堅く節操を守ることを約束しますか?】 この様にお尋ねして、神様と証人の前で誓約していただきます。ここでの「命のかぎり」は地上での命の限りです。 主の回答は36節にあります。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。
天使に等しい者とあります。天使は神様によって創造された者ですから礼拝の対象ではありませんが、神様に仕えることを喜びとしています。週報にルカ福音書に登場する天使の姿を記しました。1章から2章にかけて、クリスマスの出来事で活躍しています。神殿の聖所で香をたく祭司ザカリヤにバプテスマのヨハネの誕生を告げ、乙女マリアに「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」
この様に神様のご計画を告げたのです。さらにベツレヘム郊外で野宿をしていた羊飼いに「救い主」の誕生を告げたのも天使でした。次に9章26節には、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。 この様にありますがチョット分かりにくい箇所です。9章21節以下には「イエス、死と復活を予告する」との小見出しが付いています。「私が語った十字架と復活の出来事をばかげたことであり、恥かしいことだと退ける者は、私が再び地上に来て裁きを行う終末の日に、その者を裁く。」この様な意味です。終末の時に至るまで天使は神様と御子と共に在るのですが、創られた者ですから聖霊ではありません。十字架の時が迫った主はゲッセマネの園で祈られました。 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」この時に寄り添って力づけたのは天使でした。
復活の朝、墓で婦人たちに『イエスは生きておられる』と告げたのは天使でした。このように神様に用いていただくことはどんなにか幸せなことでしょう。神様に仕えることを喜びとして神様の愛の中にいるのです。次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。
先ほど申し上げた結婚の誓約では「これを愛し、これを敬い、これを慰め」と「これ」が強調されます。一方天上で、天使に等しい者、復活にあずかる者、神の子とされた者は「これ」にこだわる必要はまったく無いのです。主イエス・キリストがすべての者を愛しておられるように、「これ」にこだわらず全ての者を愛し、敬い、慰めるのです。それでは不満でしょうか?あなたの財産を天に持っていくことが出来ないのと同じように、独占欲や嫉妬心も持っていくことは出来ないのです。
それではここで主がおっしゃる復活するのにふさわしいとされた人々とはどんな人々なのでしょうか? それは、主の福音を心を開いて受け入れた者です。主イエス・キリストを救い主と告白して受け入れた者です。与えていただく永遠の命を感謝する者です。
しかし、ここでチョット注意が必要です。ヨハネによる福音書5章28節29節には次の主の言葉があります。5:28 驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、29 善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。 すべての死者が主の裁きを受けるために復活するのだとあります。信仰を持った者もそうでない者もです。そしてすべての者が主によって裁かれ、信仰を持った者は救われ悪は滅ぼされます。これが聖書の語る終末の姿です。では、信仰に至ることなく亡くなった方はどうなのでしょうか? 聖書は救われるとも、救われないとも語りません。私たちはそのような方の為に祈るのです。そして主にお委ねするのです。陰府に降られた主イエスが伝道してくださることを祈るのです。38節。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。 
出エジプト記3章は羊飼いだった時のモーセがある日燃え尽きることの無い柴を不思議に思って近づいて行った場面です。この時神様は「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」とおっしゃいました。「神であった。」と過去形ではなく「神である。」と現在形でおっしゃったのです。ということは、モーセよりもはるか昔に生きたアブラハム、イサク、ヤコブはこの時、神様の御許で生きていることを意味しています。私たちも、私たちの先輩たちも「すべての人は、神によって生きているからである。」 主の御許に有って永遠の命が与えられます。
今日登場したサドカイ派の人も、ファリサイ派の人も、実は「本当の意味で神様の支配を望んではいませんでした。」自分の生活を変えることを望んでいませんでした。彼らの望んだのは「死んだ者の神です。」自分の生活の外側に祭っておくだけの神です。
それでは、私たちはどうなのでしょうか? 私たちは「神によって生きている。」ことを望んでいるのでしょうか? 祭っておくだけの神を望んでいるのでしょうか?主はある日マリアとマルタにおっしゃいました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25,26)私たちはこの主の問いに「はい、信じます。」とお答えしましょう。そして、あらためて「神様と、自分と、隣人を愛しなさい。」このご命令を日々の生活の中に表していく新しい1週の歩みを始めましょう。祈ります。