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山形六日町教会

2022年10月2日

聖書:詩編103編1~6節 ヨハネの黙示録1章9~18節
「死の先にある命」波多野保夫牧師

説教シリーズ「わたしはすぐに来る」の3回目ですが、夏の間はアルファーコースが取り上げているキリスト教の基本的なテーマについて、み言葉を聞いてきましたので、前回から4か月ほどが経ってしまいました。復習の意味でヨハネの黙示録がどの様なものなのかを再度確認することから始めたいと思います。
「黙示」翻訳されている聖書原典の言葉は“アポカリュプシス”と言う言葉ですが、「覆いを取る」「明らかにする」と言った意味を持ちます。隠されている真理、それは復活されて40日後に神様の御許に帰られたキリストが再び地上に来れられる時に起きること、すなわち終末の出来事をあらかじめ告げ知らせる書物がこの黙示録なのです。
ヨハネは1章9節で わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。(1:9)と語っています。彼は西暦90年代に当時のローマ皇帝ドミティアヌスが求めた皇帝礼拝を拒否したため、地中海に浮かぶパトモス島に幽閉されました。多くの聖書神学者は、そのヨハネに伝えられた神の言葉とイエス・キリストの証しを彼が書き留め、同じように皇帝の迫害に苦しんでいた教会とそこに集うクリスチャンを力づけ励ますために、この書を送ったのだとは言います。
この「ヨハネの黙示録」は読み解くことが難しい書です。絶対的な権力を持つローマ皇帝が、自分を礼拝するように強制したのですが、従おうとしない教会を迫害した時代です。教会を励ます文章で直接的に皇帝を批判することは新たな犠牲者を生み出します。そこで竜や獣など当時のクリスチャンが読めばそれと分かる表現や、象徴的な数字など旧約聖書を背景として語っていることが読み解き難い一つの理由です。
それでは「ヨハネの黙示録」は私たちに何を語り掛けているのでしょうか? 私たちはそこから何を読み取るのでしょうか?現在、少なくともこの日本の教会は、直接命に係わる迫害のもとにはありません。「私はそこそこ幸せだし何とかやっていける。」この様に感じてらっしゃる方もおいででしょう。大変喜ばしいことです。是非いただいている恵みを神様に感謝してください。しかし、長い間収束を見せないコロナ禍や戦火であり、頻発する自然災害であり、また長期にわたって日本の教会が抱える会員の減少や高齢化の問題、一人一人が抱える重荷・苦しみ、あるいは陰湿ないじめなどなど、「神様なぜなんですか! 何で私なんですか、今なんですか!」この様に問わざるを得ない状況。これは、自分だけではなく隣人まで含めて考えれば決して無縁ではないでしょう。2000年前の世界にはテレビやスマホ、電車や自動車はありません。しかし、疫病や自然災害や戦争はありました。私たちと同じように家族や友人、信仰の友もいました。そこには日々の暮らしの息遣いがあり、平和と幸せを願う祈りがありました。そして人は生まれ、人は亡くなりました。「なぜなんですか! 何で私なんですか、今なんですか!」この問いがありました。私たちと同じです。この時代は聖書が整えられていった時代に重なるのですが、4つの福音書は主イエス・キリストの言葉と業を通して、神様が示してくださった大いなる愛をハッキリと語っています。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:16,17)
主イエス誕生以前の世界を語る旧約聖書は、主イエス・キリストを証ししています。(ヨハネ5:39)使徒言行録は教会の誕生と主の福音が広まっていく様子を、そして多くの手紙はキリスト教信仰の内容を教え、私たちの人生を導いてくれます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。(テモテⅡ3:16,17)
旧新訳聖書66巻のうち65巻、即ち一番最後にある「ヨハネの黙示録」を除いて、すべての聖書は、私たちにとってすでに起きたことを通して、永遠の真理を教え、それらを信仰によってどの様に理解して行動すべき伝えてくれます。聖書の伝え方はこうしなさい、こうすれば素晴らしい人生が待っていますと教え導くだけではありません。聖書は人間の抱える「罪」の問題を赤裸々に語ります。
エデンの園でのアダムとエバに始まり、ダビデ王の犯したバテシバとの情事、そして人類最大の犯罪、主イエスを十字架に架けてしまった人たち。初代教会で欲得に負けて献げものをごまかしてしまったアナニアとサフィラ。(使徒言行録5:1-11)聖書は人の犯した「罪」を赤裸々に語ります。
悪魔の誘いに負けて自己中心になれば「神と自分と隣人を愛する思い」が薄れてしまいます。残念ですが、これは、主イエスを除いたすべての人に、さらに教会にも起こります。しかし、主イエス・キリストが十字架でご自身を献げてくださったこと。墓に葬られ三日目に復活されたこと。これによって、私たちの罪の問題は根本的に解決されています。
ですから、ただ主イエスに従って生きれば良いのです。きわめて単純です。主が喜ばれないことはしない。主が喜ばれることをする。皆さんはそれを分かっていらっしゃり、私も分かっています。礼拝を献げている今だけでなく、日々聖書に聞き祈る時に分かります。それだけではないでしょう。日々の暮らしの中で聖霊の導きに気付くとき、主が何を喜んでくださるのかを知るはずです。
しかし、あのパウロは言いました。 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。(ローマ書7:15,17)
以前の説教で、かつて植木等さんが歌ってヒットした「すーだら節」の一節を紹介しました。「ワカッチャいるけど止められない。」です。しかし、疑問が湧きます。本当に私は分かっているのだろうか? 罪の悲惨さとキリストの愛の大きさをです。なぜならば次のサイクルを繰り返すからです。主イエス・キリストの愛に触れて、「神様と自分と隣人を愛そう」と歩み始めます。そのうちにこの思いが薄れてしまう時が起こります。忙しさ、悲しみ、思い煩いだけではありません。思い通りに事が運んだ。宝くじで1億円当たったとか、いろんなことがあるでしょう。自分の悲惨な状態に気づき続けることは難しいのですが、主は素晴らしい方法を与えてくださっています。
それが週ごとの礼拝です。7日目の礼拝に信仰の友と一緒に集う。絶妙な間隔だと思います。大いなる恵みです。ですから私は「礼拝を休むことは損ですよ!」と言います。ですから、私たちはこの恵みに与ることが出来ない友の為に、そしてまだ主の福音を知らない人の為に祈るのです。「神様と自分と隣人を愛そうとしない、あるいは愛そうとしなくなった。」その様に見える人に直接忠告することは、隣人を愛する愛情の表現なのですが、むつかしいものです。祈りに覚えることから始めたいと思いますが、主に委ねることも必要かと思います。キリストに従って歩みを始めたはずなんだけれども、そこから逸(そ)れてしまう。幸いに友の祈りや教会の祈りが聞かれて主に立ち返る。しかし、時が経つとまた繰り返してしまう。そんな私です。
自分が望むことをしないで憎むことをしてしまうと言ったパウロは続けます。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。(ロマ書7:24) キリストの愛を知っています。罪が赦されていることも永遠の命が約束されていることも知っています。でも、やはり繰り返してしまうのです。そんな私に絶対的な希望を与えてくれるのがこの「ヨハネの黙示録」なのです。聖書は神様の大いなる愛を伝える書ですが、その中にあってヨハネの黙示録だけはまだ起きていないこと、しかし将来必ず起きる終末の出来事を語ります。いわば歴史の到達点に視点を置いて、西暦90年代に苦しみを負っていた教会とそこに集う者たちに、2022年に教会に集う私たちに語り掛けてくれるのです。
聖書全66巻の一番最後の言葉です。 以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。終末の時に向かってすべての歴史は進んでいくのです。

今日与えられたみ言葉です。詩編103編は先ほど「バテシバとの情事を除いて神様に忠実だった。」この様に言いました。ダビデ王の詩です。1 【ダビデの詩。】わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって 聖なる御名をたたえよ。2 わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。3 主はお前の罪をことごとく赦し 病をすべて癒し4 命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け5 長らえる限り良いものに満ち足らせ 鷲のような若さを新たにしてくださる。6 主はすべて虐げられている人のために 恵みの御業と裁きを行われる。ダビデ王に与えられたのと同じ主の愛が私たちに注がれています。そして、この愛は終末の時に至るまで全く変わらないのです。
ヨハネの黙示録です。1章11節までにはヨハネがこの書を記したいわれがあります。既にお話ししました。12節から16節はヨハネが幻の内に見た栄光の主イエス・キリストの姿を語ります。7つの燭台は7つの教会です。その真ん中に主がいらっしゃいました。
王であり祭司であり預言者としての威厳と権威を持って。16節、口からは鋭い両刃(もろは)の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。 とは、7つの教会に鋭い言葉でもって悔い改めを求める方は強く照り輝く真の光なのです。7つとは神様が天地創造を完成なさって7日目に休まれたことから完全数と呼ばれ、「全て」を意味します。全ての教会とそこに集うすべての者に鋭い両刃の剣を持って、悔い改めて主イエスに従う事を求められるのです。なぜなら、それが最高の幸せへと私たちを導くからです。
1章17節。わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。ヨハネはその神々しさに打たれたのでしょう。古来、神を見た者は死ぬと言われていました。モーセが出エジプトのリーダーに指名された時です。神は言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。(出エジプト3:6) 預言者エリヤも神様の声を聞いた時に顔を覆いました。(列王記上19:12)
ヨハネ福音書1章です。恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。(ヨハネ福音書1:17b,18)主イエスが真の人として地上に来てくださったのには、天地を創造された方を直接見ることなく、しかも正確にみ心、即ち絶対的な愛を知らせてくださるためだったのでしょう。神様の愛は深く大きいのです。
すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。主は十字架に架って死なれました。私たちの身代わりとして「罪」を赦していただくためです。「罪」の故に断絶してしまった神様と私たちの関係を正しいものに回復してくださるためです。私たちが「罪」を犯すことは悪魔の喜びであり、主の死は悪魔の勝利です。ですから3日の間、悪魔は美酒に酔いしれたに違いありません。しかし、主イエスは死に留まるのではなく復活なさいました。悪魔への完全な勝利です。ですから私たちは、主に従っている限りにおいて悪魔の誘惑に負けません。しかし、主の愛から目を反らすのであれば悪魔に負けてしまいます。
終末の時に、勝利者主イエス・キリストがこの世に来て悪魔を完全に退治してくださる日まで、悪魔は生き延びて私たちを誘惑し続けます。だから世々の教会は聖書の最後にある言葉を語り続けるのです。すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。(黙示録22:20,21)
「波多野先生、ヨハネがいつかは必ずやって来る終末が希望の時だと言っているのは分かります。だけどヨハネが見たのは幻でしょう。聖書に出てくる夢とか幻って、チョット頼りないんじゃないですか?」 今日はずいぶん後ろ向きのことを言いますね。いいでしょう。一つ例を挙げてみましょう。神様のお考えって、劇的に示されることもあればジワッと分かってくることもあります。劇的な例です。当時サウルと呼ばれていたパウロは、クリスチャンを迫害するためにダマスコに行く途中で天からの光に打たれて、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞きました。その時視力を失った彼の下にアナニアと言うクリスチャンが遣わされたのです。使徒言行録9章10節。 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。 神様は幻の中でアナニアに働かれ、アナニアはパウロの視力の回復と同時に心の目を開くために用いられたのです。
パウロがこの劇的な主との出会いによって、クリスチャンを迫害する者から、信仰の故に迫害される者へと180度変えられたことを私たちは知っていますが、その際にアナニアも大切な務めを果たしたのです。私はパウロにはなれないかも知れません。なれないでしょう。でもみ心に従うことでアナニアの様に大切な役目を果たすことは出来るのです。
「でも波多野先生。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけたのは、私たちと関係ない特別な出来事なんじゃないですか?」 私は、アナニアもそしてヨハネも祈りの中で主の導きが与えられたのだと思います。私たちは聖書のみ言葉によって主のみ心を知ります。
説教はその聖書の解き明かしです。教会でも自宅で聖書に接している時、あるいは祈っている時。さらに生活の中で例えば洗濯をしている時に、聖書の一節が、「あっ、これって今の私に向かって語り掛けている。」って感じたことないでしょうか。
9月11日の説教の中で私が56年前に洗礼を受けた際の思い出を語りました。聖餐式でいただいた赤玉ポートワインが食道を下って行き、それこそポーっと暖かくなった感覚です。その時は洗礼の意味を良く理解していなかったので、これは後になってなのですが、エマオに下って行く途中、復活されたキリストにお会いした弟子たちの言葉に重なりました。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(ルカ24:32) 聖霊が幻を用いて「私に従って来なさい。」と今でも語ってくださっているのだと思います。
実はこの「ヨハネの黙示録」には聖書の言葉、この時代ですから私たちの旧約聖書ですが、聖書の言葉が沢山ちりばめられています。祈りの中でヨハネが聖書の言葉に出会った。これが彼の見た幻の正体ではないでしょうか。 キリストに従う私たちには、死の先にまで続く命が約束されています。聖書66巻の最後の言葉に注目して、希望を持って一週の歩みを始めて行きましょう。すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。 祈りましょう。