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山形六日町教会

2022年9月25日

聖書:イザヤ書58章6~8節 ルカによる福音書10章25~37節
「あなたの隣人はだれ?」波多野保夫牧師

夏の間、アルファーコースが取り上げているキリスト教の中心にあるテーマについて、聖書のみ言葉を聞いて来ました。9月11日の最終回では説教題を「最高の人生を送るには」としましたが、私たちの人生を最高にする方法は、救い主、主イエス・キリストに従うことに尽きます。なぜならば主はどんな時にも、変わることなく私たちを愛していてくださるからです。その方のご命令「神様と自分と隣人を愛して」生きる人生が素晴らしくないハズがありません。 
パウロが自分の経験をもとにかみ砕いて語ってくれたローマの信徒への手紙12章を2週間前に聞いていただいたのですが、皆さんの歩みはいかがだったでしょうか? 実は今日もこの聖書箇所を後でお読みしたいと思っているのですが、先ほど寒河江長老に読んでいただいたルカ福音書10章25節以下から始めましょう。すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 「すると」と言う言葉で始まっていますが、直前の10章23節24節では主が弟子たちに語り掛けていらっしゃるので、チョットつながりが悪いように感じられます。
マタイ福音書では、律法の専門家とのやり取りは、復活についての議論(マタイ22:23-33)の後にあります。祭司長や律法の専門家や民の指導者たちは、このころすでに主を殺そうと考えていたのですが(ルカ19:47)、主はそんな宗教指導者たちにも神様のみ心を正しく知って悔い改めることを願い、様々な言葉を残されています。そんな一コマなのでしょう。
律法の専門家は、ユダヤ社会を支配していた律法を解釈して人々を指導するだけでなく、裁判も行っていました。長い間研鑽を積んだ末に40歳になって按手を受けて初めて独り立ちできたそうで、権威ある者と自他共に認めていました。そんな律法の専門家は、30才そこそこで律法の研鑽もろくに積んでいない者が、人気者になって権威がある様に語る(マタイ7:29)のが面白くなかったのでしょう。イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と言ったのです。26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」さすがに律法の専門家です。旧約聖書申命記6章4節5節。聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 さらに、旧約聖書レビ記19章17節18節 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。 神様の二つのご命令をすらすらと引用して答えました。
「波多野先生!」「またあなたですか、何でしょう?」「波多野先生はいつも「神様と自分と隣人を愛しなさい!」と言っているけど、聖書は 自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。です。先生の言い方はチョット自分を愛するってところが強調され過ぎていませんか?」なかなか鋭い指摘ですね。二つ理由があります。
一つは覚え易くするために短く表現しています。
二つ目は、自分を愛するってどういうことなのかを考えてみてください。自己中になることや、俗に「笑ってごまかせ自分の失敗、あくまで追求他人の失敗。」なんていうことが自分を愛することじゃないですね。
健康や安全に気を配ることは大切ですが、囚われてしまうのは間違いでしょう。レスキュー隊の人は厳しい訓練を受けて、命がけで危険に立ち向かってくれます。真に自分を愛するってことは、結局主イエスに倣って神様と隣人を愛することに尽きる、大変大切なことなのです。
28節29節。イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。彼は今自分が口にした言葉の意味を知っていました。私たちも同じように「神様と自分と隣人を愛しなさい」と言う神様のご命令の意味を知っています。しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った のですが、こう言った彼には少し同情する余地があります。
ある時主はおっしゃいました。 あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:43,44)
実は旧約聖書に『敵を憎め』と言う言葉は無いのですが、自分たちだけが神様から選ばれていると言う意識がこの様に言わせたのでしょう。主イエスが神様のみ心を正確に伝える前の時代にあって、イスラエルの人々は『隣人を愛し、敵を憎め』と理解していたのです。
十字架の出来事を知っている私たちは、これに続くみ言葉、しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 このみ言葉をしっかりと受け止めるのです。
律法の専門家は「では、わたしの隣人とはだれですか」と言って、どこまで責任を負えば良いのですか? と尋ねて言い逃れをしようとしました。そこで主が語られたのが「善いサマリア人」の譬えです。ユダヤの人たちにはピンとくる譬えなのですが、私たちの正確な理解の為に、当時の状況を語ることから始めます。 
ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。 これ聞いた人には、「ああ、あそこは追いはぎの名所だからな!」 この様に状況がすぐにわかったのです。エルサレムは海抜800メートルと言いますから蔵王温泉とほぼ同じ標高にある高原都市です。一方エリコは死海に注ぐヨルダン川のほとりに位置しており海抜マイナス250メートルですから1000メートル以上の差があります。山形から東根くらいまで行く間に1000メートルも下る険しい道で追いはぎの名所でした。そんなところを昼間とは言え一人で旅をしたのですから、譬えを聞いた人は同情するよりも「なんて馬鹿な」と思ったことでしょう。
この譬えの登場人物は他に、祭司、レビ人、サマリア人と宿屋の主人です。祭司はモーセの兄アロンの子孫にあたりエルサレム神殿に仕えていたのですが、7200人が24のグループに分かれて、週ごとに交代して神殿で犠牲を献げました。年に2回ほどの務めですから他に仕事を持っていたのですが貧しかったそうです。レビ人は9600人おり、同じように年に2回ほど神殿の警護や音楽を担当したのですがやはり貧しかったそうです。併せて17,000人にも上ります。 最高法院の議長を務めた大祭司、その一族から選ばれた祭司長と神殿指揮官、7人の神殿警護官、3人の財務官。これら十数人のエリート以外は大変貧しかったのです。そしてエリートたちはその特権を守るためにローマ帝国に近づいただけでなく、神様のみ心を正しく告げる主イエスを疎ましく思い殺そうとしたのです。
次の登場人物はサマリア人です。たとえを聞いていた人には、サマリア人と聞いただけで軽蔑の思いが湧きました。背景には長いイスラエル民族の歴史があります。紀元前1000年頃にダビデ王はイスラエルの12部族を統合してエルサレムを首都としました。ダビデ王はバテシバとの一件を除いて、神様への信仰を守り神様から深く愛された王です。預言された通り、彼の末に主イエス・キリストが誕生したのです。
ダビデ王の後を継いだソロモン王の時代にイスラエルは最も栄えたのですが、「繁栄はそれが神様の恵みであることを忘れさせます。」 残念なことですが、いつの時代においても、また私たちにおいても起こり得ます。 ソロモンの死と共に、王国は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しました。紀元前926年のことです。
王国の分裂から200年後の紀元前721年に北のイスラエル王国はアッシリアによって、その150年後の紀元前587年に南ユダの王国はバビロニアによってそれぞれ滅ぼされてしまいました。この時ユダ王国の首都エルサレムとエルサレム神殿は徹底的に破壊され、バビロン捕囚が始まったのです。
旧約聖書列王記上12章以降と列王記下にはこの340年程の間に登場した王たちの評価が書かれています。例えば南ユダの王アビヤムについては 彼もまた父がさきに犯したすべての罪を犯し、その心も父祖ダビデの心のようには、自分の神、主と一つではなかった。(列王記上15:3) このようにありますし、北イスラエルの王ホシェアは「主の目に悪とされることを行った」(列王記下17:2)とあります。南ユダの王ヨシヤの様に 彼は主の目にかなう正しいことを行い、父祖ダビデの道をそのまま歩み、右にも左にもそれなかった。(列王記下22:2) と高く評価されている王様もいますが例外的です。この間、神様はエリヤ、エリシャに始まりイザヤ、エレミヤ、エゼキエルなど多くの預言者を遣わして、悔い改めて神様に立ち返る様に促されたのですがその言葉が受け入れられることはありませんでした。現在、私たちは大預言者・主イエス・キリストの言葉を聖書を通して聞きます。キリストの大いなる愛を知り、主に選ばれて礼拝に集う私たちです。主の導きに従いたいと思います。
さて、サマリア人に戻りましょう。彼らはサマリアを首都としてきた北イスラエル王国の末裔ですが、ユダヤ人から大いに蔑まれていました。根本的な問題は彼らが神様に従わなかったことにあるのですが、これはユダ王国も同じです。直接的な原因はサマリアの征服者アッシリア帝国の占領政策にありました。将来に渡って謀反を起こさせないために、彼らは多くの人をサマリアから連れ去るとともに、他の国の人を移住させて結婚させ、血の純粋性を奪いました。
律法は異民族との結婚をハッキリと禁じています。(申命記7:1-4)理由はバアルやアシュラなど異教の神々を持ち込むからです。現にサマリア人は唯一の神だけでなく、異教の神々をも礼拝していました。主イエスがサマリアの町の井戸に水を汲みに来た女性に「水を飲ませてください」と言われた時です。サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。(ヨハネ4:6-9)とあります。
サマリア人は自分たちを蔑み差別するユダヤ人を憎んでいました。彼らはバビロン捕囚から解放されてエルサレムに戻ったユダヤ人が神殿を再建するのを妨害しましたし、西暦7年頃の過ぎ越しの祭りの際には、真夜中になって神殿の庭に死体の骨をまき散らす事件を起こしたそうです。もちろん一部の過激派のやったことですが「憎しみが憎しみを生む。」まさにそんな関係にあったのです。この様な背景を踏まえて主は「善いサマリア人」の譬えを語られたのです。
ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。 最初に通りかかったのは祭司でした。彼は道の向こう側を通って行ってしまいました。同胞のユダヤ人が倒れているのですから、祭司には助ける義務があります。
最初に読んでいいただいたイザヤ書58章7節です。7 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え さまよう貧しい人を家に招き入れ 裸の人に会えば衣を着せかけ 同胞に助けを惜しまないこと。しかし、彼には立派な言い訳がありました。レビ記21章に次の様にあります。祭司は、燃やして主にささげる神の食物を携えるのであるから、聖なる者でなければならない。遺体に触れて身を汚してはならない。(レビ21:1-6) 32節 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 彼も幼いころから律法を教えられてきましたから、同胞を助けなければならないと分かっていました。
しかし、彼にも立派な言い訳があったのです。追いはぎの一人が襲われたふりをして倒れていて、介抱してくれる人を仲間が襲うのです。「危うきに近寄らず」道の向こう側を通って行きました。
この譬えを聴いていた人は祭司とレビ人が同胞を見捨てたひどいヤツだと思ったことでしょう。人を非難することは簡単です。「自分ならどうする」のかを棚に上げてです。その上で「この人は一体どうなっちゃうのだろうか?」と3人目の登場を待ったのですが、なんと3人目はあの不愉快なサマリア人。しかもそばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 当時、デナリオン銀貨二枚で2週間ほど宿に泊まることが出来たそうです。今でいえば5万円とか10万円とかになるでしょう。安い金額ではありません。
さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」 主イエス・キリストは私たちにおっしゃいます。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
私はこの譬えばなしの登場人者の誰に自分が相当するのかなと思いました。隣人を愛さない理由を見つける際の言い訳名人からすれば、祭司やレビ人でしょう。
しかし、やってはいけないこと、ここでは一人旅ですが、それをやってしまう点では強盗に襲われた人でしょう。そしてそんな私を、十字架に至るまでの辱めを受けた主が、私の罪を負ってまでして大いなる愛を示してくださる物語とも感じられます。サマリア人は主イエスではないかと思いました。
ここで「善いサマリア人」の譬えを映像で見たいと思います。様々な思いを持って見ていただきたいと思います。【 「善いサマリア人」のビデオを投影 】 いかがだったでしょうか? 
ご自分の姿を発見されたでしょうか? もちろんこの譬えは、何か良い行いをすれば救われる、即ち行為義認を言うものではありません。良い行いはキリストの愛を知るほどに出てきてしまうのです。私たちは主イエスへの信仰によってのみ救われるのです。
最初に申し上げたローマの信徒への手紙12章9節以下を週報に記しました。お読みします。 12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、10 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。11 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。12 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。13 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。14 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。16 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。18 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。 19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。20 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 21 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
ご一緒に、今週も最高の人生を歩みたいと思います。祈りましょう。