HOME » 山形六日町教会 » 説教集 » 2022年8月28日

山形六日町教会

2022年8月28日

聖書:創世記3章1~5節 エフェソの信徒への手紙6章10~18節
「悪に負けない」波多野保夫牧師

夏季説教シリーズの8回目です。説教題を「悪に負けない」としました。残念なことですが、「2022年の世界には悪が満ちて居る。」この様に言った場合うなずく方が多いのではないでしょう。確かに、新聞やニュース番組を見れば、悪いことが満載です。しかし、それらの出来事を「悪魔は元気だ」と言ったら、「悪魔」と言う言葉に違和感を覚える方もいらっしゃるでしょう。 20年ほど前に「悪魔ちゃん命名騒動」と言うのがマスコミを賑わせました。父親は「人に注目され刺激を受けることで、マイナスになるかも知れないが、チャンスになるかも知れない。」この様に主張して、東京都昭島市役所に出生届けを受理するよう求めました。最終的には取り下げられたのですが、将来いじめの対象になることが強く懸念されました。 こんな騒動はともかくとして「科学の発達した現代において、いまさら悪魔じゃないでしょう。」 と言った思いの一方で、「次々に起こる様々な望ましくない出来事に対して「悪魔」の存在を考えないと説明のしようが無い。」この様に消極的に悪魔を認める方もいらっしゃることでしょう。
しかし、聖書ははっきりと「悪魔」の存在を証言します。バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた主を悪魔は荒れ野で誘惑しました。その主が「種を蒔く人のたとえ」を語られた時です。イスラエルの種蒔きは、お相撲さんが土俵で塩をまく様な蒔き方ですから、耕された畑の中だけでなく、道端や石の上や茨の茂みの中にも飛んで行きました。もちろん良い土地に落ちた種は、生え出て、百倍の実を結んだのです。良い土地に蒔かれた種とは私たちです。この様に主の復活された日曜日に教会に集まって礼拝を守ることで信仰が養われます。まだ洗礼を受けていない方は幸せな人生へと主が招いてくださっています。教会は安心できる良い土地なのです。このたとえを主が説明してくださいました。 種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。せっかく、信仰を与えられて幸せな人生を歩み出したにもかかわらず、悪魔によって奪い取られてしまう人も残念ですがいます。
神様が確かにいらっしゃるのと同じように、悪魔は確かに存在するのです。悪魔は、サタン、悪霊、ベリアル、ベルゼブル、諸霊の首領、告発するもの、非難するもの、敵対者などと呼ばれていますが、さらに「龍」「敵」「蛇」「誘惑者」「悪者」などとも呼ばれます。様々な時と場所で様々な姿で登場するからです。
私たちの神様の本質は愛であり、私たちを愛し抜かれる方です。今週もまたヨハネによる福音書 3章16節です。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 それに対して悪魔の本質は、なんと呼ばれようが変わりません。神様の愛、キリストが十字架にかかってまで示したくださった愛から、私たちを遠ざけることを無上の喜びとして励みます。「神様と自分と隣人を愛すること」から遠ざかることが、聖書の言う「罪」ですが、悪魔は人が「罪」を犯すように巧みに誘います。
そしてその誘いの先にあるのは破滅です。神様と断絶した真っ暗闇に自らを閉じ込めてしまいます。しかし、一言付け加えれば、主の福音は、そんな絶対的な暗闇、神様と断絶した世界にまでも、世を照らす真の光として届きます。十字架での死から復活なさるまでの3日間、陰府にまで降って福音を届けてくださったからです。
悪魔の話に戻りましょう。主イエスの愛から私たちを引き離そうとする存在が悪魔だと考えれば、思い当たる節があるのではないでしょうか。 誰も見ていないから、一回だけだから、チョットだけだから。悪いと判っているのについやってしまう。何となく礼拝に足が向かない。悪魔は実在するのです。しかも、強い意志と計画性をもって心の隙間に入り込む天才です。その存在を無視するのは危険です。しかし、関心を持ちすぎるのもまた危険です。占いや魔術、さらに最近話題となっている新興宗教などは人の心の弱みに付け込んできます。私たちが関心を持つのは主イエス・キリストだけで充分なのです。
この様に言うと質問したくなる方もいらっしゃるでしょう? ここ数回、「波多野先生と呼びかける質問者に登場してもらいました。」 ある方から、「以前、先生と呼ばないでください。」って言っていたのはどうなっちゃったんですか? この様に聞かれました。確かに以前こう言ってましたし、今も気持ちは同じです。 主は あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。(マタイ23:8)この様におっしゃいました。ギリシャ語では「ラビ」と呼ばれてはいけませんです。私は「波多野さん」と呼んで欲しいのですが、日本では学校の教師も、議員さんも、長唄の師匠も先生と呼ぶのが普通ですから、牧師を「波多野さん」と呼ぶのはストレスを感じることでしょう。ですから「波多野先生」と呼ばれるたびに、「お前いい気になるな!」と思うようにしました。私が悪魔の誘惑に負けない様に、一種の訓練をしてくださっているのだと思います。
 「じゃあ、波多野先生。私たちが関心を持つのは主イエス・キリストだけで充分です。って言いましたけど、父なる神様と聖霊は無視して良いんですか?」 良い質問ですね。私たちの神様はその本質を一つとする三位一体の神様です。
聖書を2か所お読みしましょう。ヨハネ福音書1章18節。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。 主イエス・キリストを通して私たちは神様のみ心、私たちを愛して止まないみ心を正確に知ることが出来ます。ヨハネの手紙Ⅰ4章12節。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。私たちの心の内に留まってくださるのは聖霊です。神様は三位一体の方なので、主イエス・キリストに従う気持ちを強く持つだけで充分です。そして、それこそが悪魔が一番嫌うことなのです。
ここで、悪魔の手の内を見ておきましょう。寒河江長老に読んでいただいた創世記3章は蛇の姿をとった悪魔の誘惑を良く表しています。最初にエバに声を掛けます。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」エバの心に疑問を起こさせます。 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」 エバは正しく答えます。しかし、そこには何万本あるかわからない園の木のたった一本だけが何でダメなんだろう。私の聞き間違いなんだろうか? そんな疑問が湧きました。蛇は女の心の動きを見抜いてたたみかけます。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」 頭の隅には神様の言葉「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから」この言葉が残っていました。
私たちはどうなんでしょうか? 「神様と自分と隣人を愛しなさい」との命令に従って、何をすれば神様が喜んでくださるのか、何をしてはいけないのか、分かっているんじゃないでしょうか? 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。 さらに事態は悪化して行きます。神様が近づいて来られた時、アダムとエバは隠れました。そして神様が「取って食べるなと命じた木から食べたのか。」と言われると アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」「蛇がだましたので、食べてしまいました。」 蛇のせいです。エバがくれたので食べました。そもそもエバは神様が与えてくださったんじゃないですか。神様が蛇を好き勝手にさせているからでしょう。他の人のせいにするだけではありません。神様のせいにするのです。
先ほど、誰も見ていないから、一回だけだから、チョットだけだから。悪いと判っているのについやってしまう。何となく礼拝に足が向かない。悪魔は実在するのです。この様に申しましたが、事態は次の段階に入っています。悪魔は神様の愛を見えないようにしたうえで、神様と対立させることに大成功しました。 主が荒れ野で悪魔の誘惑に打ち勝たれたことに触れましたが、真の人として来られた主イエスはどの様にして打ち勝ったのでしょうか。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」と言う悪魔の誘惑には「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』 と書いてある。」 神殿の屋根から飛び降りてみろと言う悪魔に、イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言う悪魔には「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、 ただ主に仕えよ』 と書いてある。」
聖書にある神様の言葉を正しく理解して信頼することで、悪魔の誘惑に打ち勝たれたのです。悪魔の誘惑に負ければ、そこにあるのは依存症だったり、様々な関係の破れだったりします。何よりも神様の愛が見えなくなり、絶対的な孤独が待ち受けています。例えば、人をだまして大金を得たとしても、金の切れ目が縁の切れ目と言われる通りです。
主イエスがなされたのと同じように私たちは神様の導きに従うべきです。悪魔が最も嫌うことです。最初に読んでいただいたエフェソの信徒への手紙6章10節以下にその導きの言葉があります。 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 この手紙はエフェソの教会に宛てたと言うよりも、当時苦しみの中にあった教会、悪魔に飲み込まれそうになっていた各地の教会に宛てた説教です。同じ様な状況にある2000年後の私たちに与えられた神の言葉と理解するのは相応しいことです。 この勧めに従って神の武具を身に着けることで私たちは強くなり、 悪魔の策略に対抗して立つことができるようになるのです。2000年に及ぶ教会の歴史がそれを証ししてくれます。山形六日町教会の諸先輩がそれを証ししてくれています。私たちも神の武具を身にまといましょう。
12節では重要なことが語られています。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。戦うべき相手は悪魔なのですが、味方であるはずのクリスチャン同士の戦いがいかに多いことでしょうか。教会が、教会のあの人があんなことを言った、あんなことをした。絶対にそれはおかしい。絶対に赦せない。だから私はもう教会に行かない。あいつを絶対にやっつけてやる! どちらが正しいのかはともかく、悪魔が大喜びをしているに違いありません。14節。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着けなさい。 真理とは教会が伝えるキリスト教の真理です。正義とはその真理に向かって生きることです。真理は「神様が愛してくださっている事実」に尽きるのですが、聖書に親しみ、共に礼拝に集って説教を聴き祈り賛美する。
今日は、これを前提にして教団出版局が出している『信徒の友』を宣伝しましょう。「信仰生活を豊かにするキリスト教雑誌」と副題がついています。9月号には最近の話題をとらえて「お金と信仰」と言う特集が載っています。いろいろな方の信仰に基づいた言葉は、キリスト教の大切な真理を日々の生活の中で生かしていく喜びを伝えてくれるのです。受付にありますので一度手にしてみてください。15節。平和の福音を告げる準備を履物としなさい。聖書の告げる平和は戦闘の無い状態だけではありません。ミカ書は語ります。 主は多くの民の争いを裁き はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。(4:3)武器を農耕の道具に打ち直し、それを用いて多くの収穫を得る。そこには皆が神様の恵みに感謝し満ち足りた日々があります。これが真の平和がもたらす恵みです。主の福音を伝え歩くための準備を履物とする。山形六日町教会に集う私たちがなすべきことは明らかです。
そしてそれらは18節が語る様に祈りから始まります。 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。 悪魔の放つ矢は試みです。困ったこと、苦しいこと、悲しいことで私たちの心を揺さぶり神様の愛に疑問を抱かせる強力な火の矢です。空腹に襲われる苦しみは主イエスも経験されました。その時悪魔は、「神の子なら石に向かってパンになれと命令すればいいじゃないか。」と言ったのですが、石では空腹は満たせません。教会学校では心とお腹を満たす助けになることを願って、クリスマス献金の一部を子供食堂の活動に捧げています。私たちに祈りがここにはあるのです。
しかし、悪魔が主イエスに放った火の矢はそれだけではありません。「私にひれ伏して拝めば国々の繁栄を全てあげよう。」と誘ったのです。この世でお金持ちになったり、名声を得ること。それ自体はたゆまない努力の結果でしょう。素晴らしいことです。しかし、問題はその後です。豊かさと名誉を手にしたとき、悪魔はそれが神様の恵みであることを忘れさせようとします。悪魔が放つこの種の火の矢を消すのは大変です。主イエスは「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、 ただ主に仕えよ』 と書いてある。」と聖書の言葉を持って退けられたのですが、神様と自分と隣人に対して謙遜であり続けることは大変です。しかし、主に従い続ける時、私たちは神様の愛を忘れさせる誘惑から自由になれますし、自分の弱さ、小ささに気づけばうぬぼれてはいられません。 
17節。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。 私たちは罪からの救いで頭を守り、聖書が証しする聖霊の力によって悪魔に対抗することが出来るのです。ですからクリスチャンは悪魔を恐れる必要はありません。悪魔がクリスチャンを、正確にはクリスチャンと共にいてくださる方を恐れるのです。しかし、私たちは悪魔を深追いしてはいけません。悪魔の息の根を止めるのは、終末の時に再び来てくださる主にお任せするのです。
私達のなすべきこと、それは18節です。 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。 説教題を「悪に負けない」として聖書の言葉を聴いて来ましたが、主イエスはいつも共にいて下さる私たちの強い味方なのです。
しかし、私たちが身に着けなくてはならないものは鎧兜ですから、決して軽いものではありません。身動きに不自由さを感じることもあるでしょう。一旦身に着た信仰を脱ぎ捨て見せかけの自由を求める人が確かにいます。自分を守ってくれる神の武具の存在を知らない人、知っていても身に付けない人がいます。どうすればよいのでしょうか。
まず私たちが悪魔に負けないことが大切です。そして喜びの姿を示すのであれば、それは立派な伝道です。聖書に聞き祈り賛美し献げる。たとえ苦しみの一週間であっても、信仰の友と一緒に神様の前に立つ礼拝の時は、大いなる喜びを回復してくれることでしょう。共にいてくださる主イエス・キリストを感じる時だからです。ですから出席できない方の為に祈るのです。礼拝に出席できない時には礼拝を覚えて祈るのです。信仰の友が祈ってくれます。
最後に週報に記したパウロの言葉を聞いて閉じたいと思います。テサロニケの信徒への手紙5章14節以下です。 兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。このみ言葉を覚えて一週の歩みを始めましょう。祈ります。