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山形六日町教会

2022年8月21日

聖書:詩編32編6~8節 使徒言行録16章6~10節
「主は人生の導き手」波多野保夫牧師

夏期説教シリーズの7回目です。この説教シリーズではアルファ・コースをベースにして、聖書のみ言葉を聞いています。
本日の説教題を「主は人生の導き手」としました。私たちの人生において、どの道を進むべきか、何を選びとるのか、突然決断を迫られることが必ずやあるでしょう。
先日ファミレスに行ってハンバーグを注文した時です。当然ご飯が付いてくると思っていたのに、突然パンですかごはんですかと聞かれたので迷ってしまいました。お昼ラーメンだったからごはん、いやパンにハンバーグのソースをつけて食べるのもなかなかだ。ウーン早く決めなきゃ。こんなことで迷っているの みっともない。ごはんお願いします。いや、やっぱりパンにしてください。
もっと深刻な決断もあります。2012年母がトイレで突然倒れた時です。救急車で病院に搬送してもらい診察を受けたのですが、女医さんに「急性肺炎です。今晩が峠です。」と突然言われました。そして問われました。「延命治療はしますか?」状況が理解できませんでしたが、迷わずに「延命治療はしません」との答えが口を突いて出ました。そして、女医さんの言葉通りに母は神様の御許へ召されました。なぜ「延命治療はしません」と言う言葉が自然に出たのかは、神様を信頼して全てをお任せすると言うよりも、普段からの何気ない会話やあるいは暮らしぶりからそれを感じ取っていたのだと思います。しかし、全てを導いてくださる方の働きがあったことは確かです。何時の日にか、神様の御許で再会した際に、母に叱られることは無いと思っています。
先週、先々週と、ヨハネによる福音書 3章16節をお読みすることで始めました。今週もお読みしましょう。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 私たちを愛して止まない神様は、私たちが幸せな人生を歩むように様々な導きを与えてくださいます。
先ほど読んでいただいた詩編32篇は悔い改めの詩編と呼ばれますが、8節は神様がダビデに語られた言葉です。 わたしはあなたを目覚めさせ 行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。 別の詩人は歌います。あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。(詩編119:105) 神様は私たちの歩むべき道を示してくださる方です。
本日与えられた使徒言行録16章6節以下は、パウロがテモテを連れて第二回伝道旅行に出かけた際のことを記しています。彼らは今のトルコの中央部に当たるアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられた。とあります。そこで北部にある黒海にほど近いビティニア州に行って伝道しようと思ったのですが、これもイエスの霊がそれを許さなかった のです。一体何が起こったのでしょうか? 聖書学者たちは様々な理由をあげるのですが一つを紹介しましょう。
16章10節に注目します。わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。とあります。使徒言行録を記したルカは、ここまでパウロの振る舞いについて語って来たのですが、ここからしばらくの間「わたしたち」と語ります。ルカもパウロ一行の伝道旅行に加わったのでしょう。なぜ加わったのか? 彼は医者です。パウロは大いなる働きに思い上がらないようにとサタンから一つのとげが与えられました。と言っています。(Ⅱコリント12:7) 
社会においても、教会においても、働きの大きな人が神様の前でへりくだり続け傲慢にならないのは困難なことです。神学者たちはこのとげは痛風やてんかんで、病気が悪化したことで伝道活動が妨げられ、医者のルカが呼ばれたのではないかと推測します。
いずれにしろ確かなことは、パウロが計画した伝道旅行とは違った計画を神様が持っていらっしゃったと言うことです。パウロとテモテやルカを主が導かれたのです。10節 パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。 こうして主の福音はアジアからヨーロッパにつたえられました。さらに主の福音は17世紀にアメリカに伝えられ、19世紀にはアメリカからの宣教師の協力を得て一致教会山形講義所、現在の山形六日町教会が創立されたのです。
さて、私は中学の時に新聞委員だったので、人にもの事をハッキリと分かり易く伝えるためには5W1Hが大切だと教わりました。5WとはWhen(いつ) Where(どこで) Who(誰が) What(何を) Why(なぜ) で、1HはHow(どのように)です。例えば次の様になります。いつ:今日礼拝が終わったら。どこで:イオン天童店で。だれが:私と友達が。何を:水着を。なぜ:明日由良海岸に泳ぎに行くために。どの様に:ふたりで買いに行く。
神様が私たちを導いてくださる際の5W1Hの内、5Wはハッキリしています。「誰が?」は「神様が」ですし、「どこで?」は「教会で、家で、学校で、車の中で」など様々でしょう。神様の力は全ての場所に及びますから、あらゆるところでです。聖霊を閉じ込めておくことは出来ません。
「いつ?」これもいつでもです。なぜなら神様は私たちをいつでも愛してくださっているからです。しかし、神様の導きを強く感じるのは、順調な時よりも、悲しみ苦しみ重荷を感じている時の方が多いのでしょう。思い上がることが少ないからです。 祈りの中で、礼拝において神様の導きを感じることもあれば、後になって分かることもあります。要は私たちが心を開いた時に、神様の導きがわかるのです。
「何を?」は私たちに「導きを」です。どの様にすればよいのか。何がみ心に沿うことなのかを導いてくださいます。
「なぜ?」この答えは明白です。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 愛する故に導いてくださるのです。
1H、「どの様に?」が残りましたが、5つの方法で私たちを導いてくださいます。丁寧に見て行きましょう。
まず、神様は聖書を通して私たちを導いてくださいます。代表は十戒です。神様は人を幸せにすることが決して無い10項目を禁止なさいました。「してはならない」と否定文で語られています。主イエス・キリストはこれを肯定文で「神と自分と隣人を愛しなさい」と言い換えてくださったのです。 それだけではありません。聖書は私たちを導き励ましてくれる言葉で満ちています。普段から親しんでいることで大きな喜びを与えてくれます。なぜなら独り子をお与えになったほどに、世を愛された 方の言葉がいっぱい詰まっているからです。しかし、自分を導いてくれる聖句がすぐに見つかるかと言うとなかなか厳しいものがあります。ギデオン協会の聖書には「おりにかなう助け」と言うページがあります。3つ紹介しましょう。
平安を必要とする時 : フィリピの信徒への手紙4章6,7節 548ページとあります。聖書を開くと 4:6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。 心配事で不安にさいなまれる時 : ペトロの手紙一 5章6,7節
5:6 だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。7 思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。
感謝の思いがあふれる時 : 詩編100編1~5節
100:1 【賛歌。感謝のために。】全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。2 喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ。3 知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ。4 感謝の歌をうたって主の門に進み 賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。5 主は恵み深く、慈しみはとこしえに 主の真実は代々に及ぶ。
願いがかなえられた喜びと感謝の思いを詩人と一緒になって歌うのです。大いにギデオン協会の聖書を利用してください。さらに普段から聖書に親しんでいると、今の自分に語り掛けてくれていると感じられる聖句に出会います。それをノートに書き留めて置くことをお勧めします。
どの様に導いてくださるかの2番目は聖霊の導きです。そもそも洗礼は聖霊の働きによります。まだ洗礼を受けていない方は聖霊が招いてくださっています。しかし、聖霊の働きは洗礼で終わりません。むしろそれが始まりです。聖霊が私たちの心に宿ってくださる。聖霊の内住と呼ばれ、パウロは言います。6:19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。(Ⅰコリント6:19,20) 聖霊は私たちが神様の栄光を表すように導いてくれます。ただし、強制はしません。ロボットではないのです。それでは聖霊が心に住んでくださっていることをどの様に感じるのでしょうか。 私は、エマオに行く途中で復活された主にお会いした二人の言葉がそれを表していると思っています。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。(ルカ福音書24:32)心が温かくなる、心が奮い立たされる、心が燃える。こんな時に聖霊が共にいてくださることを実感できます。神様は聖霊として私たちを導いてくださいます。
3番目に神様はクリスチャンを用いて私たちを導いてくださいます。クリスチャンと言っても、シュバイツァー博士やマザー・テレサあるいはアウグスティヌスやカール・バルトなど献身的な奉仕をしたり、聖人と呼ばれたり、偉大な神学者だけではありません。私たちクリスチャンも導きを与えるために用いられるのです。確かに反面教師と言うのがありますから、「ああ波多野の様になってはいけない。」と気づくのであれば、私も用いられることになります。 しかし、ここでは反面教師としてではありません。私たちの祈りの姿であったり、何気ない振る舞いの中に感じられるキリストの香りなのです。ペトロは言います。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。(ペトロの手紙Ⅱ3:8)
何よりも主に愛されて生きていると言う喜びの姿には、生きて働かれる聖霊を証しする力があります。 私たちには神様の導きを伝える力があるのです。
さらに、「こうしたいんだけど、どうだろう」と友人や長老や牧師に相談する。箴言12章15節 無知な者は自分の道を正しいと見なす。知恵ある人は勧めに聞き従う。20章18節 計画は助言を得て立てよ。一緒に祈ることでより良い答えが得られるでしょう。コヘレトの言葉4章9節 ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。 しかし、相談したり一緒に祈るためには普段からの信頼関係が必要です。お互いが主イエスに心を向けていると言う信頼関係です。この意味で「聖書に聞き、祈る会」は安全な場所です。発言を強制されることはありません。パスありです。祈りを共にする素晴らしい時です。夏の間はお休みしていますが9月15日から再開しますので参加してください。私はさらに、何人かの方と電話やメールで祈り合っています。利用していただきたいと思います。
次に、もっと直接的に神様のみ心を伝える場合を考えましょう。「そんなことヤメトケ! 神様、喜ばれないぞ!!」 こんな忠告が出来たり、あるいは忠告を聞いたり。そんな関係素晴らしいですね。しかし、言いたくても言えないことがあると思います。勇気を出して言うことで解決することもあるでしょうが、言えば大体は関係が悪くなるだろうと躊躇してしまいます。普段から、主を中心とした関係がどれだけ成熟しているかが問われます。そんな時に絶対やるべきことと、絶対やってはいけないことがあります。絶対に祈るべきです。祈りについては先週み言葉を聞きました。神様は私たちの祈りを聞いていて下さり、2つの「はい」と2つの「いいえ」のいずれかで答えてくださいます。まず、自分がどうすべきかを祈り、次にヤメトケ! と伝えたい人を導いてくださるように祈るのです。
絶対にやってはいけないこと。それはうわさばなしです。箴言20章19節 秘密をばらす者、中傷し歩く者 軽々しく唇を開く者とは、交わるな。うわさばなしは人を傷付けます。直接言えない時は沈黙して祈り神様に委ねるのです。確かに神様はクリスチャンを用いて人生を導かれるのです。
4番目は私たちの「常識」です。ここでいう「常識」とは多くの人が正しいと認めることではありません。コペルニクスやガリレオ以前の時代には、地球は宇宙の中心に静止していると考えられていましたし、福島県双葉町には「原子力明るい未来のエネルギー」という標語が掲げられていました。多くの人にとって常識に近いものだったのでしょう。科学はあくまでも神様が創造された自然の仕組みを知ろうとする営みであり、工学はそれを生活に生かして用いる営みです。限界をこえた人間の傲慢さはバベルの塔の悲劇を生みます。しかし、長い時間をかけて私たちに染み付いている常識、例えば殺すな、姦淫するな、盗むな、偽りの証言をするな、人のものを欲しがるな。これらは十戒の第6戒から第10戒ですが、常識です。困っている人には親切にする、平和をもとめる。常識です。神様は一々その根拠をおっしゃることなしに、禁じられたり、実現のための努力を求められます。ですからこれも導きなのです。
最後になります。5番目は「しるし」です。神様はさまざまな「出来事」あるいは「状況の変化」を「しるし」として用い、私たちを導かれます。
先ほど使徒言行録からパウロが計画したアジア州とビティニア州での伝道が聖霊によって禁じられた出来事を読みました。初めて六日町教会の夕礼拝に出席した人がいたとしましょう。
夕礼拝が終わってから、会堂で一人になって暫らく祈らせてもらい、帰ろうとしたところ、なぜか後ろの扉とオルガンの横の扉にカギがかかっていて開きません。礼拝堂に閉じ込められて出られないのです。大声で叫んだのですが誰も来てくれません。祈ったところ示されたのがこのピアノの横の扉でした。夕礼拝の後ですから、暗くて細い廊下です。奥に出口があるとは思えないけど、祈った結果だから恐る恐る進んでいきました。奥の扉を開けると明かりが灯ってお茶が用意され、教会の方がにこやかに迎えてくださったのです。不安は大きな喜びに変わったのです。
伝道にかけるパウロの嘆きと不安はこんなものではなかったはずです。彼に開かれた扉は、海を渡ってヨーロッパに向かう扉でした。そこには教会が発展していく世界が広がっていたのです。神様はパウロを導かれました。「波多野先生、だけどそれは信仰の強い人の話でしょう。私とは関係ありません。」本当にそうでしょうか?
ニッキーガンベル牧師の話を聞いてみましょう。【 19世紀半ばのことノルウェーのあるホテルにラッドストック卿が滞在していました。ある日彼がロビーに下りて行くとひどいピアノの音がする。見ると女の子が一人無邪気に鍵盤をたたき聞くに堪えない曲を奏でていた。「ピロン、ポロン、パラン、パランパラン」。これは参ったな。そう思った時、一人の男性が来て女の子の隣に座った。やめさせると思っていたら一緒に引き始めた。しかも音の間を埋めるようにして。二人が奏でる曲の美しさに彼はすっかり聞きほれた。隣に座った男性は女の子の父親でした。アレクサンドル・ポロディン。オペラ 『イーゴリ公』 を作曲家です。いうなれば、この父親と同じことを神はなさるのです。私とともに歩んでくださいと祈ると、神は隣に座って私たちの「ピロン、ポロン」と言う下手なピアノを美しい音楽に変えてくださるのです。】
一人一人、顔も性格も異なる私たちの人生には様々なことが起こります。しかし、神様はその一つ一つに最も相応しい導きを与えてくださる方です。祈りに答えてくださる方です。そしてその導きは、拙くポロン・ポロンとしか弾けない私たちの欠けを補って美しい賛美へと変えてくださる導きなのです。ご一緒に主の導きを感謝して従う喜びの人生を歩んでいきましょう。 主は、私たち喜びを福音の前進の為に用いてくださる方なのです。祈ります。