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山形六日町教会

2022年8月14日

聖書:詩編139編23~24節 マタイによる福音書6章7~13節
「祈りとは」波多野保夫牧師

夏期説教シリーズの6回目です。この説教シリーズではアルファ・コースをベースにして、聖書のみ言葉を聞いています。
先週紹介したのですが、CS礼拝で子供たちは毎週聖書の一節を暗唱しています。今日は、使徒言行録19章から 20 このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。 この聖句でした。先週、皆さんにお出しした暗唱聖句の宿題、覚えていただいたでしょうか? 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書 3:16)
今日はこの聖句を下敷きとして祈りについてみ言葉を聞いて行きます。記録を調べてみた所、祈りについては2019年9月15日から2021年11月3日まで28回に渡った説教シリーズ「祈るときには」でみ言葉を聞きました。
シリーズの第1回と最終回に開いた聖書箇所は本日と同じマタイ福音書6章、主イエスが教えてくださったこの「主の祈り」についてみ言葉を聞きました。
暗唱されている方が多いと思いますが、印刷を見て味わいながら一言一言を祈ることもまた大きな喜びです。別の機会にその豊かさを確認したいと思います。
ところで、「祈り」はキリスト教だけのものではありません。
ほとんどの宗教が祈ります。辞書には「人間の力や創造力を越えた神仏に請い願うこと」とありますが、私たちの祈りは「請い願う」ことに留まりません。
賛美の言葉に加えて「ありがとう」「ごめんなさい」「おねがいします」すなわち「感謝」と「罪の告白」と「願い」です。もちろんその一部分だけのこともあります。
遠足の前の日に「神様、明日天気にしてください。アーメン」素晴らしい祈りです。しかし「神様、今度の宝くじ当選させてください。半分献金しますから。アーメン」これは神様に信頼を寄せる素晴らしい祈りとは言えないでしょう。
なぜ、私たちは祈りを大切にするのでしょうか? それは、キリスト教の中心は神様と私たちとの関係性、愛の関係性にあるからです。
私たちが学校で、職場で、教会で、あるいは地域で、家庭においてもそうです。良い関係を保つためには、挨拶や会話が欠かせません。関係が壊れた時には挨拶や会話が途絶えてしまいます。
神様との完全な愛の関係を保ち、さらに深くしていくための会話が祈りです。「でも、波多野先生。先週、神様は私たちの心の底の底までご存知だって聞きました。だったらなんでわざわざ祈らなくちゃいけないんですか?」なるほど、先ほど読んでいただいた6章8節にも「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」とありましたね。
実は三位一体の神である主イエスは、全てを創造された父なる神とその本質を一つとされる方ですが、その主イエスご自身は祈りの人なのです。生涯の様々な場面で祈られました。ルカ福音書が伝える祈りの姿をみることから始めましょう。週報の裏面に記しました。
3章21節は、30歳になってバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時のことです。3:21 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
やがて教会を託すことになる十二弟子を選ぶ大切な決断をするに当たっての祈りです。 6:12 そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。13 朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。 私たちの人生において決断を迫られることは必ずやあるでしょう。決断に当たって主も祈られたのです。六日町教会の教会総会は礼拝に続いて、聖書のみ言葉と祈りに導かれて始まり、長老選挙を行います。牧師と共に長老会を構成して教会の歩みを導く長老を選ぶ選挙は、祈りに導かれ、神様のみ心を問いつつ行うのです。
9章16節。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。 5000人の群衆に食べ物を与えられた時です。食事の感謝に留まりません。力ある業によって神様の栄光を表す感謝と喜びを祈られました。
続く9章18節。 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 この時ペトロは「神からのメシアです。」と信仰を告白しました。 
11章1節以下はマタイ福音書6章9節以下と同じ出来事を記しており、並行記事と呼ばれます。11:1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。 教えてくださった「主の祈り」は祈りの手本です。祈りの言葉が見つからない時には主の祈りを祈るのです。
十字架の時が翌日に迫った最後の晩餐の席で、聖餐を制定されました。 22:17 そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。22:19 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」
22章31節は、鶏が鳴く前にペトロが3度裏切ることを知っての主の言葉です。 22:31 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 
執り成しの祈りと呼ばれます。主に従う者を深く愛する姿があります。自分を裏切ることで犯す罪。その赦しを友に代わって祈り求める。私たちにとって最も難しいことでしょう。いつも申し上げます。「あのひどい波多野が神様に近づきます様に!」これなら祈れるのではないでしょうか?
十字架を前にオリブ山で。 22:39 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。40 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。41 そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。42 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」苦しみに満ちた祈りから戻って来られると弟子たちは眠りこけていたのです。後を託す弟子たちの不甲斐なさは主の苦しみを増したことでしょう。主に愛されている私たちです。信仰的に眠り込むのではなく、目を覚まして主に従いたいと思います。主は祈っていてくださいます。私たちも互いに祈り合うことが必要です。
最後は十字架の上での祈りです。 23章34節。 そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」 これは究極の「とりなしの祈り」です。主を十字架に架けてしまうのは2000年前のローマ兵やイスラエルの人たちだけではありません。人間の罪の為に主の十字架が絶対に必要だとすれば、罪を犯すものたち「神様と自分と隣人」を愛することから離れてしまう私も主を十字架に架けた犯人です。そして主はおっしゃるのです。「父よ、波多野保夫をお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」これほどまでに主は私たちを愛してくださっているのです。

主が祈りの人だったことを丁寧に見て来ました。父なる神との会話、祈りを欠かすことはありません。神様と最も近い関係にある方が欠かさなかったのです。祈りの最後に「主イエス・キリストの名によって」あるいは「主のみ名によって」などと祈ります。神様に従順であった、祈りの人主イエスが神様と私たちとの間に立って、その愛を確かにしてくださる。罪の赦しを与えてくださる。このことを確信した祈りには力があるのです。
祈りは神様との愛の関係を深くすると申しました。関係性を深くするためには会話が大切だと申しました。神様の側からの愛はどんな時にも変わりません、死の向こう側まで続く愛です。その愛に気づくかどうかが私たちの人生を豊かなもの、自由なもの、喜びに満ちたものとする要点です。
全知全能の神様は、私たちの心の底の底までご存知です。ではなぜ私たちが祈らなければならないのでしょうか? 
その一つの理由です。私たちの心には様々な思いが浮かんでは消えます。しかし、祈る時には思いを言葉にしますから、心の整理をすることになります。お願いの祈りについて考えてみましょう。何をどのようにして欲しいのか、思いをハッキリと言葉にすることが解決に近づくために必要なのです。全てをご存知の神様は、私たちの心の整理を待っていてくださるのではないでしょうか? 
確かに、苦しみの中で「神様、助けてください!」としか祈れないこともあるでしょう。それで良いのです。普段からの祈る習慣は非常時において頼るべき方をハッキリさせてくれます。
それでは私たちの祈りは聞かれるのでしょうか? 何度もお話ししました。繰り返しましょう。聞いてくださいます。主はおっしゃいます。7:7 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。8 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。(マタイ7:7,8) それでは私が「神様、今度の宝くじ当選させてください。半分献金しますから。アーメン」この様に祈ったらどうでしょうか? たしかに当選する人はいるわけですから、本当に神様を信頼して祈り、当選が私の為になるのなら叶えてくださるでしょう。
神様は、2つの「はい」と2つの「いいえ」でもって答えてくださいます。「ヤット祈ったね。はい、わかった。かなえてあげよう」「はい、わかった。だけど願ったよりももっと良いものをあげよう」「いいえ、あなたの恵みは十分だ」「いいえ、今はその時ではない」この4つでした。
全てをご存知の神様は「ヤット祈ったね」と言ってすぐに聞いてくださることもあります。でも聞いて下さらないこともあります。 
ここで、「いいえ」と答えられることに関して、ニッキーガンベル牧師の話を聞いてみましょう。 【 時に、私たちの求めている者が私たちとって良いものでないために、祈りにこたえられないこともあります。神様は私たちに「良い物」をくださる(マタイ 7:11)と約束しておられるのです。神は私たちを愛しておられ、私たちにとって何が最善かをご存知です。良い親というのは、いつも子どもたちが望むものを与えるとはかぎりません。もし5歳の子どもが肉切り包丁で遊びたいと言ったら、 良い親は 「だめ!」 と言うでしよう。 もし私たちが、ジョン・ストットが書いたように「それ自体が良くないものか、もしくは、私たち自身や他の人にとって良くない結果をもたらすもの」を求めるときには、神も「ノー」と言われます。
そしてこのことに私たちは感謝しなくてはなりません。もし常に願う通りになるのなら、私たちは再び祈ることは決してしないでしよう。
神様が、私の求めたいくつかの願いに答えることなく、目の前でドアをぴしゃりと閉められたことを本当に神様に感謝しているのです。ルース・グラハム(ビリー・グラハム夫人) は、ミネアポリスで観衆に言いました。「神様は、私の祈りにいつも答えてくださったわけではありませんでした。もしそうだったら、私は間違った人と結婚してしまっていたでしよう。 しかも、 何回も」。 親しい友人のミック・ホーキンズとスカッシュをしていた1996年のある日のことを私は思い出します。 ミックは42歳で、 6人の子どもがいました。ゲームの最中に彼は突然心臓発作のために倒れ、死んだのです。このときほど神に叫び求めたことはありませんでした。 どうか彼をいやし、 回復させ、 この発作が彼の命を奪うことがないようにと祈りました。彼がなぜ亡くなったのか分かりません。 その晩はもちろん眠れませんでした。翌朝早く散歩に出たとき、 主に言ったのです。 「なぜ、 ミックが死んだのか分かりません。彼は本当に素晴らしい人だった。素晴らしい夫であり、父親でした。なぜミックが。」このとき、私には二つの選択があることに気づきました。一つは、 「信じることをやめます」 と言う選択、 もう一つは「理由が分からないという事実にかかわらず信じ続けます。 主よ、 このような出来事が起こった理由は、 私の生きている間に理解できないかもしれませんが、あなたを信頼し続けます」と言う選択です。
神の御心を知り、なぜ私たちが望んでいたような祈りの答えが得られなかったのかという理由を知るためには、神と顔と顔を合わせるまで待たなければならないこともあるでしよう。 】
たしかに願いが全く叶えられなかったり、願った通りでないことがあります。神様のなさる意味が分からない時、納得できない時があるでしょう。そんな時には最初に繰り返した暗唱聖句を思い出してください。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
「波多野先生、一つ質問があります。自分が願ったことをかなえてくださらない時はしつこく、しつこく祈り続ければ良いんですか?イエス様は「やもめと裁判官のたとえ」で「裁判を開いて私を守って下さい」としつこく願うやもめに怠惰な裁判官も辟易(へきえき)して裁判を開いてくれる。だから気を落とさずに絶えず祈りなさい(ルカ18:1-8)とおっしゃっています。」」 
良く聖書を読んでいますね。確かに真剣な祈りを重ねる大切さを語られました。しかし、この譬えに裁判の結果は語られていません。神様の答えをいただくまで必要に祈ることが大切ですが、それは自分に都合の良い答えをいただくためではありません。すぐに答えてくださらないとすれば、私が祈りを重ねることで、身勝手さが少なくなっていくことを期待されているのかも知れません。
「波多野先生、それじゃあ神様が語ってくださる祈りの答えってどうやって分かるのですか?」聖書には、アブラハムやモーセやエリヤ、ヨエルたちに答えられた記事が沢山あります。直接語り掛けられたことも夢の中で答えられたこともあります。マリアの妊娠に困惑したヨハネは夢の中で答えをいただきました。祈りに対しての答えは、恐らく祈った人が一番よく分かるのでしょう。夢の中で語られる場合も有れば、ふと思わされることもあります。しかし、一番多いのは様々な出来事の変化であり、また自分の心の変化を通してではないでしょうか。後になって気づくこともあるでしょう。私も何度も神様が答えてくださったことを思い起こします。自分の祈りだけでなく家族から、信仰の友から、教会から祈られていたことに気づきます。
神様は「はい」と「いいえ」をもって答えてくださったのです。神様の答えの基準は明確です。愛する私たちの為になるか、愛する教会のためになるかです。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
これが神様のみ心です。変わることがありません。祈りの答えが見いだせない、わからない時には、信仰の友や長老さんや牧師に打ち明けてください。秘密は守ります。そして一緒に祈るのです。一緒に神様のみ心を問うのです。しかし、私にはわからないことがあります。誤った願いは聞き届けてくださらないと言うことも含めて、確かに神様が私を愛してくださっている。このことは感じますし理解できます。しかし、何でこんなことが起きるのだろう? 何でこんなことが何時までも続くのだろう?これは以前にもお話ししました。園児が先生に尋ねた質問です。「先生、何で花子ちゃんは津波にさらわれちゃったの?」答えはわかりません。神様と顔と顔を合わせて語る時が来たらぜひお尋ねしたいと思っています。しかし、神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛されているのです。感謝と信頼の祈りを献げる一週間でありたいと思います。祈ります。